第41話 まるで自分たちが水中にいるかのような

 どれくらい眠っていたのだろうか。顔に当たる冷たい感触に、ミルはゆっくりと目を開けた。見上げた空から先ほどまでの青空は消え失せ、鉛色の厚い雲が広がって雨が降り始めている。


「あれ? 雨だ……!」


ポツポ-ツと落ちてきた雨粒は、みるみるうちに勢いを増した。チタ高原の天候は変わりやすい、とリンティが言っていたことを思い出す。


「リンティ、雨だよ! マムル、起きて!」


ミルは慌てて隣で眠る二人を起こす。突然の雨に、リンティもマムルも目を丸くした。


「うそ、もう降ってきたの!?」


リンティが素早く立ち上がり、簡易テントを取り出す。

みんなで手分けして設営に取りかかると、雨足はさらに強まり、土砂降りとなった。設営が終わるか終わらないかのうちに、テントへ滑り込む。


「ふぅ……危なかったねぇ」


マムルが安堵の息をついた。テントの中は狭いが、雨をしのぐには十分だ。外では、バチバチと激しい雨音が響いている。


どれほどの時間が経っただろう。テントを叩く雨音が次第に弱まり、やがて静かになった。そっと顔を出すと、空はまだ鉛色だが、雨は上がっている。


雨が上がると高原の空気は急激に冷え込み、辺り一面に再び白い霧が立ちこめ始めた。


「霧が出てきたわ! チャンスよ!」


リンティの目に希望の光が宿る。キリカズラは、霧の中でしか花を咲かせないのだ。

手早くテントを片付け、表情を引き締めて霧の中へと分け入った。灯り苔のほのかな明かりを頼りに、キリカズラの放つ淡い光を探して進む。


湿った空気の中、集中して探し続けていると、不意にリンティが声を上げた。


「あそこよ! 見て!」


彼女が指差す霧の奥に、淡いピンク色の光を放つ花が見える。まさしく、キリカズラだ!


半ば諦めかけていた発見に、興奮してその花のもとへ駆け寄った。

近づいてみれば、キリカズラは細い茎を霧の中で頼りなげに揺らしている。淡いピンク色の花弁は繊細で美しく、微かに甘い香りを放っていた。


「きれいだねぇ……」

マムルがうっとりと目を輝かせる。


しかし、喜んでばかりもいられない。キリカズラは霧が晴れると消えてしまう性質がある。この美しい花を、何としても手に入れなければ。


採取方法を事前に考えていたリンティは、テレダから貰った古い魔法書の一節を思い出した。実用的な生活魔法に紛れて載っていた、植物を保存する地味な魔法。こんな形で役立つとは、あのときは思いもしなかった。


リンティは魔法書を取り出すと、目的のページを見つけ出した。


「これだわ! 植物を乾燥させて保存する魔法!」

彼女は書かれた呪文を詠唱する。


「『μόνιμη ξήρανση!(永遠なる乾燥!)』」


リンティの杖先から放たれた淡い光が、キリカズラをふわりと包み込んだ。花は光を浴びてゆっくりと乾燥していき、花弁の色は少し濃くなったものの、その形と美しさは保たれている。


「やった! ドライフラワーになったわ! これで霧が晴れても消えないはずよ!」

リンティが喜びの声を上げると、マムルも手を叩いてはしゃいだ。


「すごーい! リンティ、魔法でキリカズラを残したんだね!」


「ふふーん、でしょ? 天才の私にかかれば朝飯前よ!」

リンティは得意げに胸を張った。


無事にキリカズラを手に入れた三人は、本当に消えないか確かめるため、霧が完全に晴れるのを待つことにした。霧がゆっくりと晴れていく間、三人は手の中のキリカズラを静かに眺めていた。


すると、そのときだった。

霧の中を、ゆらゆらと泳ぐ何かが目に映った。それは魚のような形をしており、体は色鮮やかで、光を反射してきらきらと輝いている。


「え? あれ……魚?」


こんな高原の霧の中に魚がいるなんて、とミルは首を傾げた。

その魚は一匹だけではない。気が付けば、周囲の霧の中を、同じようなカラフルな魚の群れがゆらゆらと泳ぎ回っていた。


まるで自分たちが水中にいるかのような、幻想的な光景だった。キリカズラの淡い光と、カラフルな魚の群れ。あまりに現実離れした光景に、三人は言葉を失う。


「な、なにあれ……?」

マムルが戸惑いがちに呟いた。


「魔法の仕業? それとも、このチタ高原特有の現象……?」

リンティも驚きを隠せない様子で、周囲を見回した。


魚たちは霧の中を自在に泳ぎ回り、優雅に一方向へと移動していく。手を伸ばしても触れられない、幻のような存在だった。


その光景は、霧が完全に晴れるまで続いた。やがて太陽の光が高原を照らし始めると、カラフルな魚の群れは霧と共に跡形もなく消え去ってしまった。


「消えちゃったねぇ……」

マムルが残念そうに言う。


「一体、なんだったのかしら……」


リンティは、興奮と感動が入り混じった表情で呟いた。

聞いたこともない不思議な現象。このチタ高原には、まだ知られざる秘密が眠っているのかもしれない。


キリカズラという目的を果たし、さらに幻想的な光景まで目にすることができた。今回の旅は、予想外の収穫に満ちたものとなった。


手に入れたキリカズラを大切に抱え、三人はチタ高原の不思議な出来事を語り合いながら、ダイガーツの街へと続く道を歩き始めた。

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