第21話 黒い靄

 治療室のベッドに横たわったミルの額に、ヒーラーのセストがそっと手をかざした。セストの手から温かい淡い光が放たれ、ミルの顔を優しく照らす。光に照らされるにつれて、ミルの体からみるみるうちに黒い靄が立ち上ってきた。その黒い靄は、セストの光に浄化されるようにゆっくりと形を崩し、やがて消えていった。


黒い靄が完全に消えた後、ミルの顔色は少しだけ良くなったように見えた。荒い息遣いも穏やかになっている。マムルはミルのそばを離れず、心配そうに見守っていた。


「よし、これで浄化は終わったわ」

セストは手を下ろし、安堵の息をついた。


「あの黒い靄は……クニャック本体じゃないんですか?」

リンティが尋ねた。


「ええ。クニャックは実体がない。あの黒い靄は、彼女の精神に影響を与えていた、

クニャックの魔力とでも言うべきものよ。それを取り除けば、影響はなくなるわ」

セストは簡潔に説明した。


「クニャックが完全に人間に取り憑くには、対象を極限まで弱らせるか、あるいは精神を完全に支配する必要がある。今回は幸い、そうなる前に対処できた。あなたたちが早く気づいて連れてきてくれたおかげよ」


セストはリンティの方を見て言った。ミルを気絶させたリンティの判断が正しかったのだ。


「私も、危なかったんでしょうか?」


リンティが尋ねた。クニャックは精神攻撃を仕掛けてくると聞く。自分も影響を受けていた可能性があるのだろうか。


「あなたは魔力があるでしょう?魔法使いは、日頃から魔力を扱っているおかげで、無意識のうちに精神干渉に抵抗できる場合があるの。だから、あなたへの影響はほとんどなかったはずよ」


セストの言葉に、リンティは魔法使いである自分の魔力が、無意識のうちに精神干渉から身を守ってくれていたのだと理解した。


「でも、ミルはまだ冒険者になったばかりでしょう?魔法も使えない……だから、クニャックの攻撃を受けやすかったのね」


リンティは納得した。経験も浅く、魔法も使えないミルが、いかに無防備だったかを思い知らされた。


「クニャックの影響は取り除いたから、もう危険な状態ではないわ。ただ、まだ精神的に疲れているでしょうから、一晩はここで様子を見て、ゆっくり休ませた方がいいでしょう」

セストはミルを指差しながら言った。


「分かりました。このまま一晩、診療所に泊まらせてください」

リンティはセストの忠告を受け入れた。


「あなたは、どうするの?一緒にここに泊まって付き添う?」


セストがリンティに尋ねた。リンティは一瞬考えたが、すぐに首を横に振った。


「私は大丈夫です。ミルの付き添いはマムルにお願いします。私はギルドに行って、クニャックが出た場所を報告してきます」


セストはマムルを見た。マムルはミルの手を握り、離れないようにしている。


「マムル、ミルと一緒にいてくれる?」


リンティが尋ねると、マムルは力強く頷いた。

「うん!ミルのそばにいるよ!ミルが一人で寂しくないように、一緒にいるね!」


マムルの言葉に、リンティは少しだけ安心した。マムルがそばにいれば、ミルも寂しくないだろう。


「ありがとう、マムル。頼んだわよ」


リンティは眠っているミルと、付き添いのマムルをセストに託し、治療室を出た。セストは「彼女が目覚めたら声をかけます」と言ってくれた。


治療室を出たリンティは、そのままギルドの受付へと向かった。クニャックが出没した情報は、他の冒険者にも共有する必要がある。受付で事情を説明し、クニャックが出た場所について報告しようとした。


「鉱山の奥地でクニャックに襲われました。ムルロッドという人が教えてくれた鉱脈のあたりで」


リンティが説明すると、受付の女性は少し困ったような顔をした。

「ムルロッド、ですか?そのような名前のギルド登録者は、このダイガーツ支所にはいらっしゃいませんが……」


「え?登録してない?でも、ガス処理の仕事をしてるって……」


「ガス処理は一人で行うのは危険なので、最低でも三人一組で行動することがギルドの決まりになっていますが…」


リンティは首を傾げた。ギルドに登録していない者もいるだろうが、危険なガス処理は通常ギルドの斡旋だ。それに、あのムルロッドは一人でいた。


「それに、ムルロッドさんに教えてもらった場所なんです。地図に印も付けてもらったんですけど……」


リンティは懐から地図を取り出し、広げた。ムルロッドが印を付けたという場所を探す。

しかし、地図には、ムルロッドが印を付けたはずのマークがどこにもなかった。


「……え?ない…!?」


リンティは目を疑った。何度見ても、地図には何も印がない。

その時、リンティの頭の中に、今日の出来事が鮮明に蘇った。異様なガスマスクの男、ムルロッド。彼と出会った時、ミルは少し不安そうな顔をしていた。


ムルロッドが教えてくれた鉱脈。ミルが石ころを魔鉱石だと信じ込んでしまったこと。そして、受付女性の言葉――「ガス処理は一人で行うのは危険なので、最低でも三人一組で行動することがギルドの決まりになっていますが…」。


(まさか……!?)


リンティの背筋に冷たいものが走った。

異様な姿、不自然に軽い口調、そして消えた地図の印。ムルロッドのすべてが、あのクニャックが作り出した幻覚だったのではないか。


ムルロッドと出会った、あの瞬間から。クニャックはすでに、ミルと自分に精神攻撃を仕掛けていた。無防備なミルは、その幻覚に囚われてしまった。一方、魔力を持つ自分は、無意識のうちに抵抗し、クニャックの侵食を免れたのだ。


事態の真相に気づいたリンティはゾッとした。あの異様な人物は、実体を持たないクニャックが作り出した幻覚。そして、自分たちはその幻覚に導かれ、クニャックの領域へと深入りしてしまっていたのだ。


「分かりました。報告、ありがとうございます。そのエリアへの注意喚起をしておきます」


受付の女性は、リンティの様子に何かを感じ取ったようだったが、深くは追求せず事務的に応対した。


リンティは地図を握りしめ、ギルドを出た。心臓が激しく鳴っている。ムルロッドが幻覚だったということは、クニャックはまだあの鉱山に潜んでいる可能性が高い。そして、ミルが意識を失っただけでは、根本的な解決になっていないかもしれない、という不安がよぎった。


不安と、ミルの安全への強い思いが、リンティの踵を返させた。


「私、やっぱり治療室に泊まるわ」


リンティはセストにそう告げた。ミルとマムルを一人にしてはおけない。クニャックの影響が完全に消えているか分からない。再び狙われる可能性もある。


「分かりました。隣に簡易ベッドを用意しますね」

セストはリンティの決断に頷いた。


リンティは治療室へと戻り、眠っているミルのそばに座った。マムルは心配そうにミルの顔を見つめている。リンティはマムルの小さな頭をそっと撫でた。


「大丈夫よ、マムル。ミルはきっとすぐに良くなるわ。私も一緒にいるからね」


静かな治療室で、リンティはミルの寝顔を見つめた。魔物の恐ろしさは、物理的な力だけではない。今回の出来事で、リンティはそれを痛感させられた。


一刻も早くミルが目を覚まし、いつもの笑顔を見せてくれることを願い、リンティはミルの手を握った。マムルも、ミルのもう片方の手を小さな手で握っている。暗い鉱山での出来事を乗り越えるため、三人の絆が力となることを信じて。

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