百目鬼
少女は、人間観察が好きだった。ある時には学校で、またある時には家族団らんの場で、今日も少女は嬉々として目を輝かせる。
「ねぇお母さん。前頼んでおいた本、買ってくれた?」
「あぁ……あれね。ちゃんと覚えてるわよ。書店の方は一通り見て回ったんだけど、どこにも売ってなかったの。また明日、探してみるわね」
「嘘」
少女が母の方へ指差し、ダウトと言わんばかりの表情を見せる。
「お母さん。今、私から眼をそむけたでしょ。それ、お母さんが嘘つくときの癖だよね」
「……はぁ」
母があきれたように、大きなため息をつく。
「あんた、いい加減そういうのやめなさい。友達無くすわよ」
「えー、だって面白いじゃん。それでさ、実際どうなの?」
「……だから言ったじゃない。明日探すって」
母が内心不機嫌そうに、捨て台詞を吐く。
人間観察を続けていくうえで、少女はおのずと理解した。
人間とは、なんて分かりやすい生き物なのだろう。言葉では嘘をついていても、当の体は正直だ。ぴくぴくと
「あんたの悪癖は、いずれ矯正していかないとね」
「はいはい。わかってますー」
ご機嫌になった少女が、今日もにやりと笑みをこぼす。
少女は、母と二人暮らしをしていた。
幼いころに病気で伏せた父に代わり、母は女手一つで少女を育てあげた。ある時には1里もの距離がある工場へと出向き、幾千もの糸を縫い合わせた。またある時には離れの田園へと通い、汗水垂らしながらも
「それにしても、物騒ね。不審者だなんて」
母が学校のプリントを眺めながらそう呟く。
「いい? 変な人がいたらすぐ逃げること。絶対に近づいちゃだめよ」
「もうそれ、何回も聞いたって。だいじょうぶだいじょうぶー」
「全く……」
娘の言動に
……
「○○さん。先週のテスト結果になります」
教師の
「うげっ」
「補習には、しっかり出席するように」
「分かりました……」
重い足取りで、教壇を後にする。何度か採点ミスがないかを探るも、結局、少女の点数が変わることはなかった。
「まぁまぁ、そう気を落とすなよ。ほれ」
幼馴染の
「ぐっ……。ハナ野郎め」
「ハナ野郎? なんだそれ。変なあだ名をつけるのはやめろよな」
少年には、機嫌の良い時に鼻をひくつかせる癖があった。
「それにしてもお前、前も赤点だっただろ。いい加減真面目に勉強しろよな」
「もう、分かってるってそんなこと。私は、やればできる女なので」
「あっそ。まぁ、俺には関係ないからいいけどな」
光太郎ががそっぽを向き、何か言いたげな表情で頬を赤くする。
「……まぁ、勉強教えるくらいは手伝ってやるよ」
見た目にそぐわず、少年は
「ぷっ。あんた、わっかりやすすぎ」
「な、なにか文句あるかよ!」
「いや。あんたのそういうところ、好きだよ」
「なっ……!」
赤面する幼馴染の顔に、少女が笑い声をあげる。
「ったく。それより、今日は何時に帰るんだよ。補習受けるんだろ?」
「あー、どうだろ。私がやる気出せば早く終わるかもだけど」
「冗談もほどほどにしろっての。……お前の母ちゃんから、ちゃんと見とけって頼まれてんだよ」
「え! なになに、心配してくれてるの」
「ち、ちげーし!」
行き交う、愉快な言葉の数々。クラスで二人の恋話がささやかれるようになるのは、もう少し先のことである。
……
「○○さん、良かったわね。合格よ。今日は遅いから早く帰りなさい。また明日ね」
「はい。ありがとうございました」
少女が礼を返し、補習室を後にする。
「ふぅ。……疲れたぁ」
無人の廊下で、少女はひとり
「光太郎、まだ待ってくれてるかな」
口元を緩め、少女が下駄箱から外靴を取り出す。
「おや、まだ帰っていなかったのかい」
少女が振り返ると、そこには白髪の年老いた男性が佇んでいた。
「あっ、教頭先生」
教頭の白井が、にこやかな笑みを見せる。
「こんな時間までどうしたんだい」
「あー、えっと……補修を受けてました」
「あぁ、そうかい。こんな遅くまで大変だねぇ。最近この辺りも物騒だから、気を付けて帰るんだよ」
「はーい」
教頭へと手を振り、少女は学校を後にした。昇降口に、なじみある男子生徒の顔が見えてくる。
「おっ、やっと来たか」
「おー、光太郎。やっぱり待っててくれてたんだ」
「仕方ねーだろ。約束しちまったんだから」
「ふふっ。やっぱり優しいね、光太郎」
「……別に」
不貞腐れた表情で、少年がそっぽを向く。
少女にとって、光太郎は特別な存在だった。人間観察の
しかし光太郎は、少女の意図を無下にするかのように、すべての行動が真実へと直結していた。照れるときは顔を赤らめ、嘘をついても後から自白し、機嫌のいい日は堂々とテストを見せびらかす。いわば、分かりやすすぎるのである。その点、少女は光太郎をモルモットとみなすことなく、彼とは普通の幼馴染として接するようにしていたのである。
しかしそれは、少女にとって心地よい関係でもあった。裏表のない人間とは、滅多に見かけるものではない。少女は自分へ向けられている明白な好意を感じ取り、いつの日か光太郎と添い遂げることを待ち遠しく思っていた。
「そういや、補習はどうだったんだ?」
「ふふーん、どうだったと思う?」
「茶化すなよ」
光太郎が頭の後ろで手を組み、夕闇の空を見上げる。
「言ったでしょ。私はやればできる女だって。もちろん、3発合格だったよ!」
「はぁ、2回も落ちたのかよお前。ばからしい」
光太郎の言動を裏目にとり、少女があからさまに落ち込んだような表情を見せる。
「あっ……すまん。ばかは言い過ぎた」
「……ぷっ。あはは」
「なっ……! わざとかよ!」
少女は幸せだった。大好きな人と、帰路を共にできることを。
……
「じゃあ光太郎、またね。今日はありがとー!」
「別に、気にすんな。じゃあまたな」
さりげなく手を振り、光太郎は商店街の奥へと消えていった。
「さて、行きますか」
少女が軽快な足取りでステップを踏む。宵時の到来とともに少女の影はいつしか闇に飲み込まれ、周囲の
「お母さん、怒ってるかなぁ」
鬼神のように説教をする母の姿が、少女の頭の中で容易に浮かばれる。閑静な住宅街に、軽快な足音が響き渡る。
「……憎い」
突如、少女の後ろから不気味な声が聞こえてくる。
「いいよな、餓鬼は幸せで。飯も親に作ってもらえて、生活費も自分で払わなくて済むんだから」
どんどん、少女の方へと、男の声が近づいてくる。
「な、なに」
少女の声など耳にも留めず、男が自分語りを始める。
「おかしい。俺だって、精一杯働いてたんだ。
男が右手に、ナイフを構える。少女は恐怖からか振り向くこともできず、その場から動けないままでいた。
「俺がこんな不幸なのに、何でお前ら餓鬼は幸せそうなんだよ……。頼むよ。お願いだから、死んでくれ。俺の前で、幸せそうな顔をするんじゃねぇ」
男が少女の真後ろに立ち、憎しみの目を向ける。
「た、たすけ」
少女の頭上へ、一筋のナイフが振り下ろされる。
「
母が少女へ抱き着くと同時に、目の前の景色が急速に移り変る。かすかに聞こえた、自分の名を呼ぶ声。倒れ込む少女が顔をあげると、そこには頭から血を流す母の姿があった。
「おかあ、さん……?」
無残にも、母の頭には、男の手にしていたナイフがめり込んでいた。
「し、知らねぇ。こ、こんなの聞いてねぇ!」
醜い姿をさらしつつ、男がその場から逃走をはかる。少女はいまだ状況を理解できていないものの、男の醜態を呆然と視界にとらえていた。
「……なんで、逃げるの。助けてよ。お母さんを、助けてよ」
少女が優しく、血に染まった母の髪を撫でる。
「ね、ねぇ、お母さん。帰り遅くなっちゃってさ、本当にごめんね? だ、だからさ、早く起きてよ。そんなところで寝てないでさ」
少女は、理解を拒んだ。目の前にいるたった一人の家族が、すでに息を絶やしていることを。
「お母さん、お母さん……」
亡骸をを抱きしめると同時に、少女が涙を流しながら嗚咽を漏らす。
暗雲の立ち込める夜空の下、少女はひとり理解した。積み重なった日々は、人間の手によって簡単に壊されてしまうことを。
……
その日の夜、母の死亡が確認された。死因は頭部損傷による即死。犯人である男はいまだ捕まっておらず、警察は男の身元について現在も調査を進めている。
「……なぁ、腹減ってないか?」
「へってない」
「……そうか」
「うん。光太郎、ごめんね」
光を失った少女が、今日も畳の床を一点に見つめる。
「……何かあったらいつでも呼んでくれ。俺、隣の部屋にいるから」
「うん。ありがとう」
そう言い残し、光太郎が部屋を後にする。
「……お母さん」
生気を失った目が、深淵を見据えるかのように瞳孔を漆黒に染める。すると突然、障子の向こうから、何やら怪しい影が少女の前へと現れた。
「そこにいる
少女は声に反応することなく、依然として顔を凍らせていた。
「そうかい。まったく、愛想の悪い小娘じゃな。なら言い方を変えよう。お前の母を殺した男の情報をやる、と言ったらどうだい?」
女の誘いに、少女がぴくりと目元をぐらつかせる。
「嘘じゃない。本当さ。何なら、
少女は疑心暗鬼になりながらも立ち上がり、目の前の障子をゆっくりと開いた。するとそこには、縁側で優雅に
「……誰ですか」
「ん?
少女が疑い深く矢面の顔色をうかがうも、そこに嘘の予兆は見られなかった。
「どうじゃ? 妾は嘘をついているように見えるか?」
「……その人、どこにいるんですか」
少女が食い気味に、花魁へと尋ねる。
「せっかちじゃのう。建前というものを知らんのか」
「いいから、早く教えて」
少女が顔を近づけ、矢面の顔を睨みつける。
「……ふふっ、いい顔じゃ」
矢面が右手を伸ばし、少女の頬をぐにゅっとつまむ。
「な、なにを」
「情報を売るのは構わない。ただしそうなった場合、お主には妾からの条件を呑んでもらうことになるがな」
「じょ、じょーけん?」
少女が口を狭くしながら、困惑の声を漏らす。
「お主、妖怪になれ」
風のざわめきに乗じて、1羽の鴉が電柱から羽ばたく。矢面からの勧誘を受けた刹那、数秒間の静寂が二人を襲った。
「……よう、かい?」
「おっと、すまんすまん。まだ何も言っておらんかったのぅ」
矢面が少女から手を離し、庭園へと視線を移す。
「妖怪とは、それ即ち、あやかし。お主には今日から、人間を辞めてもらう」
「人間を、辞める……」
少女が、突然の誘いに二の足を踏む。が、すぐさま顔をあげ、少女は確固たる眼差しで花魁の顔を見つめた。
「構いません。自分のことなんてどうでもいい。今すぐにでも、私を妖怪にしてください」
力強い声が、閉所へ風穴を開ける。
「ふふっ、二言はないな」
「はい」
花魁が少女の胸に手をあてるとともに、淡い浅緑の光が漏れ出す。やがてそれは巨大なカラマツの大樹と化し、少女の身体めがけて数十枚もの葉を振り落とした。
「いいかい。お主は今日から、『
「香耶」の人生が終わり、少女へ新たな名が与えられる。矢面が手を離すと同時に光は弱まり、やがてそれは無に帰した。
「……これで、妖怪になったんですか?」
「ふふっ。今は目が閉じておるからのぅ。見た目にはさほど変わりはないようじゃな」
「えっ、それってどういう……」
「では、妾はこれにて失礼する。さらばじゃ」
「あっ、ちょっ! まだ何も聞いてな……」
少女が瞬きをすると同時に、矢面はその場から姿を消した。
「いったい、何だったんだろう……」
吹き付ける風が、少女の髪を天へとなびかせる。
「全てを、疑う……」
少女は一度、自分の全身を見渡してみたが、特に大きな変化は見られなかった。
「うーん、やっぱり何も感じないなあ」
飾り気のない自分の姿を見て、少女が大きく肩を落とす。すると障子の奥から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「香耶! どこだ!」
光太郎の焦り声を聞き、少女が元気そうに居場所の合図を送る。
「はーい! ここにいるよ!」
矢面との会話からか、はたまた覚悟の表れか、少女の心はいつしか羽毛のように軽くなっていた。障子を開き、少女が光太郎へと姿を見せる。
「よかった……。たくっ、心配かけるなっての」
「あはは、ごめんごめん」
少女の屈託のない笑顔に、光太郎も自然と安堵の笑みをこぼしていた。
「それより、お腹減った! 光太郎、何か作って!」
「……しょうがねぇなあ」
陽気な会話が、二人の間で繰り返される。懐かしき幸せな時間を、少女は再び取り戻したのであった。
……
「……ちっ、使えねえな」
閑静な部屋で、男が一人舌打ちをする。
「子供を誘拐するだけの簡単な仕事すらできんとは。やはり、あいつらに期待するだけ無駄だったか」
男が一服をしつつ、荒ぶる気持ちを押さえつける。
「ふぅ……。まぁいいだろう。結果的に、餓鬼の絶望する顔を見れたことに変わりはないのだからな。ははっ、ははははは!」
誰もいない部屋で、男が一人高笑いをあげる。すると扉の向こうから、トン、トンと、不気味な足音が近づいてきた。
「だ、だれだ!」
足音が教室の前で止まり、ゆっくりと扉が開き出す。
「やっほー。せんせっ」
そこには、全身が目玉で覆いつくされた、禍々しい姿の少女が立っていた。
「ひ、ひい! な、なんなんだお前は!」
教頭の白井が情けない声を発しながら、盛大に尻もちをつく。
「あぁ、私? 私は香……いや、
「は? な、なにをいって」
少女は近くの壁から目玉の
「な、なにをしてる」
「え? あぁ、これね。私さ、好きなところに目玉を植え付けて、そこから見える景色を共有できるんだよね。だから、全部見てたよ。せんせーがあの人と連絡を取っているところも」
「なっ! そんな馬鹿なことがっ」
「ありえちゃうんだなー、これが」
少女がゆっくりと足踏みをし、白井の元へ近づいてゆく。
「く、来るな!」
白井が床に尻をついたまま、大きく後ずさりをする。
「私さ、おかしいと思ったんだ。どうしておじさんは、私があの時間に帰ることを知っていたんだろうって。いくら何でも、タイミングが良すぎだと思ったから」
「ひっ!」
少女の手のひらから、一つの巨大な目玉が飛び出す。
「それで、思い出したんだ。あの時、帰り際にせんせーと、挨拶をしたなって。なんでせんせーは、あんな夜遅くに昇降口に立ってたのかな? 生徒が帰るところちゃんと見送るため? それとも……」
「く、くるな……」
少女が大きく息を吸い、憤怒の言葉を吐き出す。
『襲えそうな子供を、見つけるため?』
少女から放たれた数十の視線が、白井の顔へと一斉に集まる。
「ひっ……。ち、違う! あの時はただ、生徒のことを心配して」
「はー……。また
少女があきれたかのように、くるくると自分の髪を人差し指に巻き付ける。
「まぁ、それももういいけどね。あのおじさんなら、昨日殺したし」
「は……」
顔を崩し、少女がしたたかな笑みを浮かべる。
「いやー。見つけるのに苦労したよ。なにせあのおじさん、警察に見つからないように、わざわざ海外まで逃げてたんだから」
少女が興奮気味に、言葉をつづける。
「でも一昨日、ようやく見つけたんだ。いやほんと、めっちゃびっくりしたよ。腕のふり幅、足の歩幅、やけに太い体、茶髪の髪に濃いめの眉毛、ミミズみたいに細長い鼻、中指のぎこちない動き、走り出す瞬間に後ろを確認する癖、怖くなったらすぐ逃げる癖、気味の悪い低めの声、右耳後ろにあるほくろの位置……その全てが、あの時と一致してたからさ」
一歩、また一歩と、少女が白井へ近づいていく。
「でも、終わってみると案外あっけなかったなー。初めて人を殺したってのに、別になにも感じなかったの。もしかしたら、私の中に元々あった人の心って、もうとっくに消えちゃってるのかもしれないね」
少女が白井の前に立ち、悠々と身をかがませる。
「ひっ……!」
白井が大量の冷や汗を流しながら、幾たびも恐怖の声をあげる。
「もう、分かりきってることだけど、一応言わせてね」
数十の目玉が、おぞましいほどの冷徹なまなざしを向ける。
『お母さんを殺したのは、お前だな?』
凄まじい殺気が部屋中を埋め尽くし、白井の理性を殺していく。
「ど、どうか! 命だけはお助けください! た、ただ少し、魔が差しただけなんです。子供をさらえば、た、大金がもらえるって聞いて。そ、それに、私には妻と子供もいるんです! ですからどうか、お願いします! どうか、どうか……!」
「ふーん……」
少女が口元に手を置き、露骨に考えるようなそぶりを見せる。
「……いいよ」
「ほ、本当でございますか!」
希望を見据える白井を前に、百目鬼がゆっくりと口角を緩める。
「うん。ほんと、だよ」
その瞬間、少女の全身に宿った百の目が、白井から一斉に目をそむけた。
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