妖怪誕生秘話
スバ
雨降らし
赤ん坊は通常、生後2・3か月の間に「あー」や「うー」といった母音を放ち、発声の準備段階ともいえるクーイングを行う。生後6カ月ともなると、赤ん坊の口からは「ババ」や「ママ」といった
しかし、少年はそのすべてが遅れていた。生後1年を経過しても、少年にはいまだに発声の兆しすら見られず、彼は生まれた時と変わらないまま
「ねぇ。この子……大丈夫かしら。いまだに名前すら呼んでくれないし、何か悪いところでもあるんじゃ……」
「……明日一度、病院に連れて行ってみよう。もしかしたら、何か分かるかもしれない」
少年が寝静まった後、二人は静かに部屋の明かりを消した。
2日後、両親は少年を病院へと連れ出し、彼へ診察を受けさせることにした。3人が診察室へ入ると、医者はにこやかな表情で検査結果について語り出した。
「何も心配することはありません。赤ちゃんの発語期には個人差がありますから、1歳になっても話し出さないというのはよくあることです。お二人が積極的に話しかけてさえいれば、いずれこの子もその声に反応して喋り出すようになりますよ」
医師の声を受け、二人は顔を見合わせながら大きく安堵の息を漏らした。彼が町一番のやぶ医者であることに気づくのは、もう少し先の話である。
……
それから数日後、少年の体に変化が起きる。
「アァ」
なんと医師の言った通り、少年の口から声が発せられたのである。
「ねぇこの子、今しゃべったわ!」
「ほんとか!」
二人が少年の声を聞き、大きく胸を撫で下ろす。母は少年を抱きかかえ、荒く乱れた呼吸を数回にわたり繰り返した。
「よかった……。本当に、よかった……」
少年の頬に、柔らかな涙が零れ落ちる。目の前で泣き崩れる母と、そんな彼女を慰める父の姿。自分へと向けられた2つの意識を感じ取り、少年は生まれてはじめて「理性」を手に入れた。
……
それから、少年の家にしばしの幸福な時間が訪れる。少年が「おいお」と言うと、母は喜んで少年に「お芋」を食べさせた。父は少年から「おえあい」と聞きつけると、帰り際にこっそりと「お絵描き」セットを携え、少年の喜ぶ顔を心待ちにしていた。いつしか、少年の不完全な言葉は二人にとっての当たり前となり、気づけはそれは日常へと変わっていた。
「ねぇ、○○。私ね、あなたに出会えて本当に嬉しいの。○○がいてくれるから、パパもママも元気でいられるの。私たちの元に生まれてきてくれて、本当にありがとう」
母は信じていた。いつの日か、少年の口から自分の名前が放たれることを。
「○○、他に何か欲しいものはあるかい? 見つかったら、いつでもパパに言いなさい。楽しく遊べるのは、子供のうちだけなのだから」
父の眼は曇っていた。自身の執念を押し付けるかのように、今日も彼は少年の頭を愛でる。
「お前は父さんと似て、きっと賢い子になることだろう」
そう言い残し、父は少年の眠る寝室の明かりを消した。
夫婦は、確かに幸せだった。お互いが自分のできる最大限の方法で少年をもてなし、少年を特別な存在とみなしていたのだから。
しかし、二人の愛は異なっていた。母が純粋に少年の成長を願うのに対し、父が求めるのは行き場のない理想。小さなひびはやがて大きな亀裂を生み、いつしか二人は方向性の違いから対立するに至った。
「どうして、この子にそこまで求めるの。まだ5歳じゃない。きっとこれから、みんなと同じように……」
「違う。もう5歳だ。○○もいい加減話せるようになりなさい。まったく、出来の悪い息子を生んでしまったものだな」
「何よ、その言い方。○○は一生懸命頑張っているじゃない! 毎日、私たちの名前を呼ぼうと必死に練習して……」
「だから、それが出来損ないだという証明じゃないか。いい加減お前も気づけ。○○は、他の連中よりもずっと出遅れていることにな」
いつしか、幸せな時間は
……
ある日の夜、業を煮やした父が鬼の形相で少年の胸ぐらをつかんだ。
「やめてください!」
母の放った必死の抗弁に目もくれず、父が左手で少年の喉元を締める。
「……いい加減にしろ」
少年が息つく暇もなく、父の怒声を浴びせられる。
「いつまでその口を閉じていれば気が済む! 腹立たしい。私がお前に、どれほどの期待を寄せていたか、分かっているのか!」
顔を近づけ、父が少年の目を睨みつける。
「優秀な家庭教師を雇い、専門の教材を買い揃え、さらには卓越したかかりつけ医まで用意した。お前のために私は、できるすべての労力を注いだのだ。なのにお前は、一向に成果を出さない。勉学はおろか、私へ誠意を見せることも!」
けたたましい声が空気を圧迫する。
「あなた! やめて!」
「子は、親のために生きるものだ。生を受け、学をいつくしみ、その恩を返すのが決まりだ。なのに、お前は……。お前は……!」
父が握ったビール瓶を勢いよく少年の頭へと振りかざす。
その瞬間、少年は初めて、「死」の先端にふれた。幾千もの眩い記憶の数々が、
「逃げて!」
漠然とする意識の中、少年がその眼にとらえたのは、最愛の母が目の前の鬼へと、体を犠牲として飛び込む姿であった。唐突な反撃に合い、父が思わず少年から手を離す。
「早く逃げて……! 私が、お父さんを止めているうちに!」
「離せ! お前まで私の邪魔をする気か!」
本能的に少年は家の外へと飛び出した。ここに居てはいけない。一刻も早く、この場から離れなくては。遠ざかる母の声を後に、無我夢中で暗闇に染まった農道を駆け抜ける。
数億もの雨が空から零れ落ちる。それでも少年は足を止めることなく、行く先も覚えないままにひたすら走り続けた。生きるために。家の内に潜む鬼から、1里でも遠くへ離れるために。
衣服にしみ込んだ雨は体温を奪い、徐々に少年の身体を蝕んでいく。疲弊しきった脚は制御を失い、やがてそれは巨大な
「……」
少年は悟った。もうじき、自分は死ぬ。命の終わりが近づいているのだと。数分後に自分は土へと還るのだと。天を仰ぎ、少年が暗雲の立ち込める空へと白い息を吐き捨てる。
……しかし同時に、少年は高揚もしていた。それは少年にとって初めての体験であった。
雨とは、かくも心地よいものであったろうか。冷雨はこの身体に植え付けられた醜い嫌悪感を洗い流してくれる。いやしくも、
小さな指先は次第に自由を失い、やがてぴくりとも動かなくなった。
……
ぴしゃり。水面を蹴る音が夜雨の中に鳴り響く。少年がその音におぼろげな理性を取り戻し、ゆっくりと目を開く。
「おやおや、可哀そうに」
ある一人の花魁が、倒れ込む少年の前へと姿を見せる。彼女は少年の胸元へと手をあて、小さく
「ふーむ……」
花魁がいぶかしな表情で少年から手を離す。
「これはもうだめだねぇ。
少年は死の恐怖を一切見せることなく、安らかな笑みを浮かべた。
「……そうかい。覚悟はきまっているんだね」
降り注ぐ
「童よ。其方はまだ、生きたいか?」
少年はゆっくりと
「ふふっ。お主、良いな。まるで希望というものを感じない。……気に入った」
花魁が不気味な笑みを浮かべ、少年の頬へと手をあてる。
「其方、名は何と申す」
淡い
「……そうか。
少年が口元をつぐみ、花魁の顔を睨みつける。
「ふふ、いい顔をするのう」
花魁が濡れた布地を口元にあて、小さく微笑む。
「童よ。一度しか言わぬからよく聞け。其方、今日でその名を捨てよ」
花魁が再び少年の身体へ触れるとともに、周囲を薄紅色の光が包み込む。やがてそれは、巨大な桜の大樹へと変わり、少年の胸元へいくつもの花びらを散らした。
「いいかい。お主は今日から、妖怪『雨降らし』としてこの地に生き続けるのじゃ」
百花繚乱の光が、少年の魂へ新たな生命を吹き込む。花魁が手を遠ざけると同時に桜の光は蜃気楼のように薄れ、やがてそれは無に帰した。
「お主は、何もしなくていい。ただそこに、居ればよいのだ」
少年の額に優しく接吻をし、花魁が緩慢な動作で少年から身を退ける。
「では、
花魁が少年へ背を向け、ゆっくりと傘を開く。
「……最後に、一つよいか?」
振り向きざまに花魁が少年の顔色をうかがう。
「どうして、話せないふりなんかしているんだい?」
冷ややかな風が二人の間を通り抜ける。
「……から」
久しくも、懐かしい声が、
「必要、なかったから」
花魁が少年の一言に
「……そうかい」
そう言い残し、花魁は闇夜の奥へと姿を消していった。
「……綺麗だ」
遠くの高山に
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