第8話 親衛隊長
3年生の卒業が間近に迫った冬の1989年(昭和64年)1月7日。
以前からテレビやラジオのニュースで 容態の悪化を細かく報道されていた天皇陛下が死去した。
それを
その次の日から年号が平成となり、平成1年ではなく、平成元年と呼ばれた。
テレビは教育テレビ(現Eテレ)を除き、CMのない特番となった。
あまりの段取りの良さに、”みんな ちゃんと準備していたんだ”と及川明人は子どもなりに思った。
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3年生が不規則な登校になったためか、親衛隊と顔を合わせることはまったくなくなった。不特定多数の女子からのからかいは相変わらず多かったものの、いつ何が起きるかわからないという漠然とした不安は薄れていった。
ライトグレーの制服の3年生ら1学年欠けることで、通学バスが満員になることもまずなくなった。山腹の曲がりくねった細い道を下る下校バスの中、及川明人はつり革にぶら下がりながら、眼下に広がる海岸の広範囲にわたる工事をぼんやりと眺めていた。
親衛隊長とは短い区間ながらもバス路線が一緒であることに、だいぶ後になってから気づいた。人目を避けるためにいつもうつむいて周りを見ていない明人が気づいていないだけだった。
また、親衛隊長が一人で明人のことを騒ぎ立てているだけで、残りの二人は付き添いのような存在だった。しかも、3人が揃っていないと彼女の『スイッチ』は入らないらしい。
なので、通学中に親衛隊長一人で騒ぎが起きることはないし、常にうつむいて周囲を見れない明人も彼女の存在に気づくことがなかった。
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昨秋、体育祭の事務的な打ち合わせで明人が1人で親衛隊長の教室を訪れたことがあった。用事を済まし教室を出て薄い木製のドアを閉めた途端、「バリ似!(とても良く似ている!)」という大爆笑が教室から聞こえた。
やはり3年生の間でも明人の『ツミクアキ』としての存在は周知されており、きっと、親衛隊長も『及川明人』ではなく話題の男子である『ツミクアキ』と絡んでみたかったのだろうと最初はそう受け取っていた。
しかし、その後の彼女の言動からは悪意は感じられず、むしろ粘り強さを感じるくらいで、本当に好意があったのかもしれないとさえ思えてきた。
それに対しそっけない態度を貫き通したことを”悪いことしちゃったな”と内心思いつつも、”どっちにしろ彼女が相手にしているのは及川明人じゃなくてツミクアキだし、もうすぐ卒業しちゃう人なんだ”と、自分を正当化した。
ただ…彼女の名前すら知らないままだったことに淡い未練を抱いていた。
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カーブでバスが大きく揺れたとき、「きゃあ!」という女子の叫び声で明人は回想から我に返り、その声の主に背後から強く抱きしめられていたことに気づいた。
親衛隊長だった。彼女の叫び声に反応した周囲の視線が、明人ら2人に集まる。
”最後の最後まで、この人はここまでやるのか!”と驚いた明人だったが、
いつものように会釈をするだけでその場をやり過ごし、彼女も無言で目を合わすことなくうつむいたまま次のバス停で降りた。
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「及川くん」
数日後、屋内の渡り廊下にある校内唯一の自動販売機の前で、明人は親衛隊長に呼び止められた。
彼女1人で他の隊員はいなかった。
「あの時はごめんね。あれはわざとじゃないから」
初夏の衝撃的な出会いから半年間で初めて、2人だけでの会話らしい会話だ。
ただそこには、いつもの無邪気な雰囲気はなかった。
改めて、いや、正確にはしっかりとその姿を見るのは初めてだ。
ライトグレーのブレーザーの制服に中肉中背、自然な淡い茶色が混ざった黒髪のセミロング。
明人の好みの容姿だ。普通の穏やかな出会いだったなら、そして明人に事情がなければ何らかの進展があったかもしれない。
しかし、この時も明人はいつものように苦笑いして会釈して足早に逃げた。
”やっぱり、わざとだったんだ…”
この人との関係は、これ以上深めてもまた元に戻してもいけない。
このまま終わらせるのが一番良いと明人は心に決めていた。
ただ、気がかりなことがあった。
目前に迫ったバレンタインデーだ。
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【第8話補足】
・自動販売機:校内唯一の小さい紙パックだけを取り扱っている白い雪印乳業(現:雪印メグミルク)のもの。4.2と3.6の牛乳、コーヒー牛乳、ウーロン茶のみ。すぐに売り切れる。明人はこの時しか4.2特濃牛乳を飲んだことがない。
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