第2話 影の男

Ⅰ|“影”を連れて歩く男

あの男を初めて見たのは、裏通りの喫茶店だった。


日も傾きかけた午後のひととき、古びたソファに腰を沈めた彼は、なにやら椅子の脇に小声で語りかけていた。


「それは違う。あれは彼女の望んだことじゃない」


誰もそこにはいない。

だが、彼の目は空虚ではなく、何かに明確に向いていた。

目線の先は……床に伸びた、自分自身の影だった。


以来、男は「影の男」と呼ばれるようになった。


朝には公園で影と将棋を指し、夜はバーで影に酒を注いだ。

あるときは、交差点で影とケンカし、突如として地面に膝をついて「ごめん、ごめん、俺が悪かった」と泣き崩れた。


その様子は、誰にとっても狂気の沙汰だったが、不思議なことに彼の影は常に「少しだけズレていた」


太陽の向きに関係なく、影は背後にいるべき時に前に、右にいるべき時に左にいた。そしてなぜか、彼の影はときに「二つ」になることさえあったという。


彼の存在は、やがて都市の噂となり、影の異常さに魅入られた者も現れたが、彼自身はやがて忽然と姿を消した。


いや、厳密にはこうだ。


「男は消えたが、影だけが残った」。


Ⅱ|妻・理沙子の記録

私の名前は影山理沙子。

芳樹よしきそう呼んでいた夫は、三年前に姿を消した。


最初は病気だと思っていたの。うなされる夜が増え、鏡を見て「俺の影が笑ってる」と怯えるようになって。


精神科にも通わせたわ。けれど彼は、薬の副作用よりも「影の機嫌の悪さ」を怖れていた。


最後に交わした言葉を今でも覚えている。


「俺はもう、こいつに半分、乗っ取られてる。だけど……残りの半分は、きっとお前にあるから」


そう言って、彼は自分の影にキスをした。

そして翌朝、寝室には影だけが残されていた。


光の差さぬ場所に、夫の影だけが落ちていた。まるでそこに、まだ彼が“いた”かのように。


それから私は、影を探す旅に出た。


ある街では、壁に映ったまま動かぬ影を見た。

ある村では、影同士が喧嘩しているのを見た者の話も聞いた。

そして最近、この都市に来た。


路地裏に「影の民」と呼ばれる奇妙な集団がいると聞いたのだ。


彼らは言う。

「影とは記憶の残滓。執着が強ければ、形を得てこの世に残る」と。


ならば私は――

夫の影を、この手で拾いあげ、もう一度、夫に“戻して”やりたい。


Ⅲ|都市の端にて

ある雨の日、理沙子は裏通りの喫茶店にたどり着いた。


夫が通っていたという、その場所。

誰もいないはずの空間に、一つだけ、影が落ちていた。

誰のものでもない、でも確かに彼に似ていた。


理沙子はそっと影に語りかけた。


「芳樹……私、あなたの残した“半分”を、取り戻しに来たよ」


すると、影が微かに揺れた。

床に染みついていたはずの黒い輪郭が、彼女の指先に吸い込まれてゆく。


次の瞬間、窓の外を歩く人々の影が――

どれも一瞬、立ち止まり、振り返った。


まるで、彼女の旅の終わりを、全員が見届けたかのように。


🔚結び

彼女は今も、時折この都市を訪れる。


日傘を差しながら、地面を静かに見つめて歩くその姿を見かけたら、あなたもそっと目を凝らしてほしい。


もしかしたら、彼女の足元に――

誰かの影が、そっと寄り添っているかもしれない。

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