第14話『客一人、湯一つ、心ふたつ』

 夜の帳が下りるころ、袋田の里は静寂に包まれる。

 山の端に揺れる風が、ひとつ、ふたつと木々を撫でていく。

 水戸屋の囲炉裏には炭の赤が灯り、夕餉を終えた宿の面々がそれぞれの仕事を片付ける頃──門前に、ぽつりと一人の影が立っていた。


 編み笠に僧衣、手には鉄杖。

 男は無言で、ただその場に佇んでいた。


「いらっしゃいませ、ようこそ……湯宿・水戸屋へ」

 睦月が玄関に出て、頭を下げる。


 男はうなずき、静かに言った。

「……一晩、泊めていただけますか。湯に、少しだけ入りたくて」


 その声は枯れていたが、どこか透き通っていた。

 睦月は瞬きし、足元を見る。

 草履の裏がすり減り、足の指に泥がこびりついている。

 ──長い旅だったのだ。


「はい。空きがございます。どうぞ」


 手を差し出すと、男は頷き、鉄杖をついて一歩進んだ。

 その動きに違和感を覚える。視線が彷徨うことなく、足取りに微かな乱れがある。


 ──この人、目が……


 睦月が気づいたその時、奥から声がした。

「睦月ー! お湯、もうすぐ湧くわよーっ!」


 それは、薬草係の紗枝だった。

 小柄な身体に包帯を巻いた腕。薄い藍色の着物を着て、薬草を煎じるのが日課の少女だ。


「千代さんに言われて、湯に白檀と薄荷を少しだけ入れてみたの」

 そう言って笑う紗枝に、睦月は目配せを送った。


「……お客様、こちらにどうぞ。湯殿までお連れします」


「ありがとう」

 僧は頷き、再び鉄杖を軽く鳴らした。


◆ ◆ ◆


 灯籠が点る湯殿の裏庭。

 竹垣に囲まれた湯場に、ほんのり白い湯気が立ち上っていた。


 僧は、睦月の案内で湯舟の端に腰を下ろすと、ゆっくりと衣を解き、湯へと沈んだ。


 目を閉じたまま、口元だけがわずかに動く。

 その姿に、睦月は深く頭を下げ、そっと場を離れた。


 その後を追って、紗枝がこっそりと湯殿の脇に忍び寄る。


 小さな籠に、いくつかの薬草と布を詰めて。

 そっと、湯の脇に置いて──紗枝は声をかける。


「……あの、湯加減はいかがですか?」


 静寂。

 そして、返答。


「……目は見えぬが、わかります。良い湯ですね。香りが、いい」


 紗枝の唇が、すこし綻ぶ。

「よかった。あの……白檀は、心を鎮める香りです。薄荷は、旅の疲れを取ってくれるんです」


「……ふふ。香りだけで、薬の説明までされてしまった」


 湯の表面に波が立つ。男が、微かに笑った気がした。


「あなたも、目が見えないのですか?」


 その問いに、紗枝はほんの少し驚いたように目を見開いた。

 けれど、すぐに頷く。


「はい。……夜になると、ほとんど、何も見えなくなってしまって」


 しばしの沈黙。


「……では、我らは似ていますね。夜の底でこそ、光を探すのかもしれません」


 その言葉に、紗枝は黙って膝を抱えた。

 目に見えぬ同士の言葉。

 言葉の先に、香りが重なり合う。


「僧さま、お名前を伺っても……?」


「名乗るほどの者ではありません。流れの坊主です。ただ、昔ある国で医術を学び、罪人の体を洗っておりました」


「罪人の……?」


「ええ。目を病んでからは、旅に出ました。……命の、残り香を嗅ぎたくて」


 紗枝は、胸元に忍ばせた香袋を握る。


「わたし……母の香りが、まだ消えません。あの人の汗と薬草の匂いが、いつもそばにいる気がして」


「ならば、それは、あなたの中に生きている」


 僧の声が、湯の音に混ざって響いた。


◆ ◆ ◆


 湯から上がった僧は、囲炉裏のそばに座し、粥を啜っていた。

 千代が出した薬湯の粥。


 光圀は、その様子を黙って見守っていた。


「人の旅は、苦しみだけではない。だが、癒しもまた一夜にして得られるものではない」


 光圀が呟いたとき、僧が静かに頭を下げる。


「この宿は、風に似ております。……一晩泊まっただけで、過去の塵が払われるような」


 光圀は、微笑んだ。


「ならば、我が役目も果たせたということか」


 僧は立ち上がり、鉄杖を肩に掛けた。


「行き先は、まだ決まっていない。ですが……あの娘の香りは、覚えていくつもりです」


 その言葉に、紗枝の目が潤んだ。


「また来てくださるのなら、今度は……もっと、香りを選びます」


「選ばれずとも、伝わりますよ」


 そう言って、僧は静かに宿を後にした。


 月が昇り、灯籠が揺れる。

 水戸屋の暖簾が、風にそっと揺れた。


 香りは言葉になり、心は闇を照らす光となる──


 客一人、湯一つ、心ふたつ。


 忘れられぬ夜が、ひとつ灯った。


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