第13話『旗も看板もないけれど』

 朝の霧がようやく山の稜線から離れ、袋田の山里に陽が差し始めた頃──宿「水戸屋」の前庭に、小さな脚立が立てられていた。


 千代は両手に墨と絵筆を構え、真剣な表情で看板の仕上げに取り掛かっていた。


 薄い杉板に自らの筆で描いた文字は、柔らかさの中に凛とした気品がある。


 ──湯宿・水戸屋──


 それだけが、白地に黒で書かれていた。


「“黄門様の宿”じゃないのかって? ……そんな看板出したら、野次馬ばかり集まりますわ」


 千代は、自嘲気味に呟いた。けれどその声には、彼女なりの覚悟と決意が込められていた。


 幕府の御老中、かの名高き“副将軍・水戸光圀”が、名を隠して隠居のふりをして営む宿──それが「水戸屋」である。


 だが、だからこそ看板には“旗”も“紋”も描かない。三つ葉葵の家紋など、もってのほかだ。


 かつての権威ではなく、いまこの地で生きる人々の憩いの場としてありたい──千代は、そんな願いを込めて筆を走らせた。


「お嬢、墨が垂れてますぜ」


 助三郎が脚立の下から声をかけた。


「えっ、あ……!」


 千代は慌てて筆を戻し、墨が袖に跳ねていないか確認する。その様子を見ていた角さんが、縁側から笑い声を漏らした。


「まあええ、手作りの看板に多少の揺れは味じゃ」


「そ、そうですか……?」


「うむ。第一、派手なものじゃなくてええ。旅人が『ああ、ここは温もりのある宿じゃな』と思ってくれれば、それでいい」


 角さんは、少し眩しそうに空を仰いだ。


 ──宿に、灯がともった。


 昨日、かつて光圀が若き頃に助けたという男が訪ねてきて、「昔の貸しだ」と言い残し、修繕に必要な瓦と資材一式を置いて去っていった。そのことで村人たちも本腰を入れ始め、空き家同然だった宿の姿は、見違えるほど整ってきていた。


 軒先には新しい簾がかかり、土間にはわら草履が並び、囲炉裏には湯が沸く。


 それを見た村人たちは一様に笑顔になり──そして言ったのだ。


「水戸様、そろそろ“客”を取りなされ」


「そうだとも。“副将軍”ではなく、“宿の主人”としての働きどきを迎えておられる」


 光圀は、その言葉に目を細めて頷いた。


「──そうか。では……水戸屋、開宿である!」


 その宣言が、この宿の“始まり”となった。


◆ ◆ ◆


「睦月、そっちの帳場の整頓は終わったか?」


「はい。帳面、筆、硯、水差し……すべて揃えてあります」


 無表情のまま、睦月がそう答える。


 彼女は今朝、初めて“女将補佐”の装束に袖を通した。


 浅葱の紬に、黒の前掛け。胸元には「女将補佐・睦月」の名札。


 かつては忍びとして水戸家に仕え、影として生きていた少女が、いまは光の下に立つ。


「おお……まるで違うなあ」


 助さんが感心したように頷き、角さんは「凛々しゅうなったわい」と肩を叩いた。


 しかし、千代だけは少し違った反応だった。


 睦月の姿を見た瞬間──言葉を失っていたのだ。


「千代?」


「……ごめんなさい。なんか……すごく綺麗で、びっくりして」


 素直な言葉だった。睦月は目を瞬かせたあと、そっと頬を赤らめた。


「……千代様にそう言われると、少し……自信になります」


「“様”なんて、やめてくださいってば……!」と、千代が頬を膨らませる。その姿に、周囲の空気が和らいだ。


 その時だった。


「ごめんくださーい!」


 宿の入口から、声がした。


 最初の客がやってきたのだ。


 腰を曲げた薬売りの老人だった。長旅の末、たまたま立ち寄っただけ──それでも、光圀が迎えに出るより早く、睦月が一礼して声をかけた。


「ようこそ、湯宿・水戸屋へ。お足元に気をつけて」


「おや……若いのに、しっかりした口調じゃの。これは……良い宿の予感がするわい」


 睦月は目を伏せたまま、老人の荷を受け取り、下座の部屋へ案内した。


 それが“水戸屋”にとっての、最初の“客”だった。


◆ ◆ ◆


 昼過ぎ、川向こうから旅絵師がやってきた。まだ若く、野帳と筆を手に「このあたりの景色を描きに」と言う。


 囲炉裏で湯を啜りながら、ふと話しかけてきた。


「ここの柱、色がいいですね。古材を磨き直したものですか?」


「はい。もとは荒れかけていたのですが、皆で手を入れて……」


「そうか。丁寧に生きているな、この宿も」


 その言葉に、睦月の心が少しだけ、あたたかくなった。


 ──丁寧に生きる。


 それは、彼女がいま学びつつある“普通の暮らし”そのものだった。


◆ ◆ ◆


 夕方、山の稜線が赤く染まり、宿の灯籠に灯が入った頃。


 光圀は静かに囲炉裏の傍に腰を下ろし、湯呑みを手にしていた。


 ふと、その手が自然と腰紐へと伸び──印籠をなぞる。


 三つ葉葵の紋が、薄暗がりの中で静かに光る。


「旗も、看板も、不要。だが……背負うものは、なくなるわけではない」


 その呟きに、誰も答えはしなかった。


 だが、遠くで笑い声が聞こえる──千代が夕餉の準備でてんてこ舞いになり、助さんが酒瓶を抱えて追いかけられ、睦月がそっと湯の温度を見ている音。


 それらすべてが、“宿”という名の物語を生きていた。


 名を隠し、看板も掲げず、それでも人が集まり、去りがたい灯がともる──


 それが、「湯宿・水戸屋」である。

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