その翡翠き彷徨い【第30話 弱き翼の恐れ】

七海ポルカ

第1話



 その日はいつもと同じ、何ら変わらない静かな日だった。


 だがこの日メリクが失ったものの大きさは、後から鑑みれば考えられないほどに大きなものだったのだろう。


 自分はどの国に生まれついた人間だったのか。

 ……これはメリクが長い間考え続けていた根本的な問いであった。


 生まれは別に、定かで無いわけではない。

 故郷はある。

 消えてしまっただけだ。

 エデン中央部に位置する、リングレー地方の地図に名も乗らぬ小さな辺境の村、ヴィノ。

 そこに生きたのは四歳までで、その記憶もすでに劣化してしまった。

 そこには国という組織の中に生きているなどという概念は無かった。


 では歴史深きサンゴールが本当の意味で自分が生まれ落ちた国であったのか?


 いや。本当に生まれ落ちた国であったならあれほど幾千回も、自分の本質の行く先を問いかけたりはしなかった。生まれ落ちて良かったのか、良くなかったのか。そんな答えの無い問いに胸の奥を蝕まれることはなかった。


『今日からここが貴方の家よ』


 あの石の巨城を指差して、そう声を掛けてくれた女性がいた。

 メリク自身、何度かはそう思おうと思ったこともある。

 だがついに心の底からそう思えたことは一度もなかった。

 ヴィノを懐かしむ気持ちも浮かばない中、サンゴールという国にどうしても抱けない郷愁があった。

 その後何の運命の導きか、様々な国を歴訪することになるのだが、ついにこの国こそはと居着き、旅先で懐かしむような土地は持てなかった。


 名前ですら与えられたもの。

 愛すべき国はなく、メリクの一番最初の人生は思えば、常に愛すべき国を持つ人間達との軋轢の歴史だったのかもしれない。

 どれだけ縁を深くしたいと望んでも結局いつも持たざる自分と、所有者である相手の考え方の違いが深い溝となって絆を遮っていた。


 ……かといって全てを捨てて自分を選んでくれとも思わなかったが。


 自分がいつからそういう冷たい人間になったのかは分からない。

 多分一つの物事が理由ではないからだろう。

 思い悩むことを聞いてくれる友を持てなかったのではない。

 多分自分が話していれば、聞こうと試みてくれるような友はいたはずだ。

 だが話さないことを自分で選んだのだと思う。

 空虚感は常に持っていた。しかしそれを満たそうとしなかった。


 それは何故なのか――。

 

 生きることが過去になった『今』、

 自分を第三者的に見る事が出来るようになった今なら、その理由は分かる気がする。

 自分にとって多分、孤独も空虚感も生きる為の『鍵』だったのだ。

 心のどこかで満たされないことを望んだのは、満たされることで失うものの大きさの方が自分にとっては重大だったから。


 冷厳なる心を持つサンゴールの王子。

 王家の血など、望んで得られるものではない。

 そんなことは世の常識だ。

 だからメリクは自分が王位纂奪者だと言われる事自体が、

 不思議な文言だとずっと思っていた。


 メリクは確かにリュティスに近づくことをいつだって望んでいたが、その為に王家の血に取り入ろうと目論んだことは一度もない。

 メリクが望んだのは血などではなく、それ以外の手段で彼に近づくことだった。

 思い悩んだ心は事実なのだから無意識だったのかもしれないが、メリクは自分が孤独でいればいるほどリュティスの心が理解出来るようになるのではないかと、そんな的外れなことを思っていたのだ。


 アミアにもミルグレンにも、その他の優しい友人に妥協して満たされることは多分出来た。だが彼らの優しい世界に浸かれば二度とリュティスの生きる、冷たく厳しい世界には戻れないと思っていた。

 故郷を炎に失ったことも、メリクにとってみれば幼い頃から冷たい王宮の中で理解者を持てなかったリュティスに近づけたのだと思えば、悲しむどころか嬉しいほどのことだった。


 最初は愚かなほどに迷いなく、自分とリュティスは似ているのだと思っていただろう。


 そのリュティスが完全な孤独ではなく、ただ一人グインエルという理解者を持っていたという事実に打ちのめされた記憶は鮮烈だが、本当の事を言うと――リュティスはグインエルの存在にいつだって救われているのだと理解した後も、

 どこかでいや孤独なはずだと……グインエルなどもう遠くの昔に死んだ者ではないかと、いつかリュティスがそのことに気づいて再び絶望する、その時まで自分が孤独を保ち続けていたら、その時こそ肉親のように自分を近しい存在として受け入れてくれるのではないかと、本当はそんな風に思っていたのだ。


 ……そんな酷い、ことを。


 メリクが自分の闇性を一番強く実感していた時期だろう。


 だが、別にリュティスを貶めたかったわけではない。

 メリクは自身が救われたかったのだ。魂の底から。


 その時が来れば。

 そんなことになれば、その時こそ自分はきっとこの人と共に生きる為に、この人の孤独を埋める為にこの世に生まれ落ちたのだと……本当に鍵が鍵穴に合うように、全ての問いの答えが出る。そんな気持ちがあった。


 待ち遠しくて、もどかしくて。


 自分は持たざる国という概念をリュティス・ドラグノヴァの中に探していたのだろう。 無償の愛、同胞意識、苦悩する旅路にいつだって心の中に思い起こしていた。

 ヴィノでもサンゴールでもない。

 自分はリュティスという世界に産み落とされたもの。

 理由も必要無い憧憬と愛情、疑う必要も無い絆。


 ……だが結局、リュティスもメリクの『国』ではなかった。

 リュティスはどこまでもサンゴールという国の第二王子で、メリクはサンゴール人ではなかった。

 国を違え、溝となる。いつもと同じだ。

 

 自分はどこに産み落とされた人間だったのか。

 メリクはついにその答えは得られなかった。

 胸に巣食い続けたその問いをはっきりと自覚するようになったのは、何ら変わり映えの無い、特別でもない、いつものように始まったその日からだった。


 だが何の答えも得られなかったが、ただ一つ思うことがある。

 リュティスは自分の国にはなってくれなかった。

 何度その心無い言葉に傷つけられただろう。

 リュティスを想わなければ、不用意に絶望することもなかっただろうことはたくさんある。


 だがそれでもこの日まで。


 不機嫌そうな顔でリュティスが自分の側に座ってくれていたこの日まで、リュティスという存在があることで、自分が数えきれないほど守られていたのだなとメリクは気づいたのだ。

 そして気づいた時にはもう、手繰り寄せることも出来ないほどに遠ざかってしまう。

 


 ……これもまた、彼の人生ではいつものことだったのだが。


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