ボッチの魔王と卵丼
前書き
完璧主義者の茅野舞桜にとって、予測不能な出来事はシステムのバグに等しい。そして、彼女の思考を乱す最大のバグこそ、底抜けに鈍感な天才、黒木万桜であった。
2018年、梅雨。休憩室で交わされた、勇希という幼馴染みについての会話は、舞桜の完璧なロジックに予期せぬ「異物」を混入させる。それは、舞桜がまだ出会うことのない女性に対する、わずかな好奇心と、そして言語化できない焦燥感だった。しかし、その答え合わせは、万桜の幼い頃の記憶に深く刻まれた、「不条理な」愛の形によってなされる。それは、理屈では決して解き明かせない、複雑で純粋な感情の物語。
そして2025年、共同生活を始めた彼らの日常は、さらに予測不能な事態へと進んでいく。予期せぬ遭遇と、その後の滑稽なやり取りは、舞桜の鉄壁の理性と、万桜の鈍感さとの間に、新たな、そして決定的な関係性の「データ」を刻み込む。
これは、遠い過去と現在の出来事が、まるでパズルのピースのように繋がり、彼らの物語を織りなしていく、知性と感情の物語である。遠い昔の天才たちの魂は、彼らの不器用な日々の中で、何を訴えかけるのか。そして、この奇妙な共同生活の果てに、彼らは何を見出すのか。
★★★★★★
2018年梅雨。
梅雨の合間の晴れ間、
「……
「ん? なんだよ、
「さっき、あなたの口から『
「ああ、
「その『
「そうだけど? それがどうかした?」
(どう、も、したわよ。大アリよ……!)
直感的に、
「……その、
「んー、
「すっげえ
(
「それは、まるで母親のようね」
「母親? いや、違うって。なんていうか、あれだな……うん、
「
「そうそう。高校の卒業式の日だったかな。
(
「それで、一体何があったの?」
「いや、それがさ、なんか飯食えって言われて」
★★★★★★★
西暦2018年3月。
「……
「で、できた」
無機質な声で告げられたそれは、
(なんだ、これ……?)
まず目を引くのは、鮮やかな橙色の輝きを放つイクラの粒だ。それが惜しげもなく、飯全体を覆う絨毯のように敷き詰められている。その上に、まるで無造作に、しかし計算されたかのように転がるのは、真珠のように白く艶めくゆで卵たち。鶏卵のそれもあれば、雀の卵ほどにも小さいウズラの卵がいくつも寄り添い、無垢な顔をして佇んでいる。
そしてその隙間を縫うように、あるいはその上に堂々と鎮座するのは、おぼろげなピンク色のタラコの塊。そのつぶつぶとした質感は、イクラのそれとは異なる、また別の海の恵みの証だ。極めつけは、ぬめるような光沢を放ち、官能的なまでに白い白子が、これ見よがしに一切れ、また一切れと散らされていることだろう。
それぞれの卵が持つ色と形、そして食感の多様性が、視覚に訴えかける。これは丼物というより、卵と魚卵が織りなす「
「……これ、なに?」
「
(うん、
「食え」
その言葉には、一切の躊躇も、疑問を挟む余地もなかった。命令。
一口、また一口と、彼はその「
「
それは、彼女の内心の焦燥が、最も効率的な形で発露した、
(だ、ダメだ! ぜ、ぜってーダメだ! ここで手を出しちまったら、
「通風になるわ。
その言葉は、若き
★★★★★★
2018年梅雨。
「……
「もう二度とごめんだね。あれ食ったら通風になるわ」
「その
「ん? ああ、
(柔道をやっているということは、活動的なタイプね…ポニーテール?
「……なるほど。とても活動的な方なのね」
「そうそう。ていうか、なんでそんなこと聞くんだよ、
ここで
「し、しないわよ! ば、
「そうだよ。この春から東京で暮してる。
「
「だって、
(ん?
「
それだった。
「
「の、残さず? ま、まさか朝まで?」
「
「……」
「いっ痛ぇ~? なにすんだよ?」
蹴りを入れたふたりに、抗議の声を張り上げるが、
「黙れ男の恥」
「そして、女の敵。ビアンカの敵」
★★★★★★
2025年梅雨入り前。
「……ああ、これも夢か」
「なんか用かよ?」
「君たちは、彼に似ているんだ。30年前の
「たちって誰だよ?」
「君によく似た
「ああ。もう一人の
「
まるで見てきたような
「
その問いかけに、
「
ノイマンの口調は、ひどく落ち着いており、先ほどの
そこから二人は、夢中になって
「
ノイマンは、その
「うっさいよ! うっさいよ! このリア充!」
「俺には、
「ああ、
◆ ★ ◆ ★ ◆
洗面台の扉を開けると、そこには湯気が立ち込めていた。浴室から出てきたばかりの
「あ、ごめん!」
(いや、閉めろ)
「あ、ごめん」
一瞬の沈黙。その場に漂う、微かな湯気と、気まずい空気。
「いや、その、なんだ……風呂上がり?」
あまりにも間抜けな
(いいから閉めろ)
「ええ。そうよ」
彼女の返答は簡潔で、感情の抑揚は一切ない。それが、かえって
「そ、そっか……」
「何か、私に用があったかしら?」
その言葉は、
(ともかく閉めろ)
「まず、戸を締めなさい」
「は? ああ……」
(な、な、な、なんで閉めるの? い、い、えー普通出るでしょ?)
その言葉に素直に従い、扉に手を伸ばす。ガチャリ、と音を立てて戸が閉まる。
「あの、服を着たいから、出ていってくれるかしら」
「サーセン!」
だが、彼の思考はすぐに現実に引き戻される。そもそも、彼は何をしに洗面台に来たのか。
――歯磨きだ。
口の中に残る微かな不快感が、その事実を突きつける。しかし、その目的のために、再びあの扉を開けるのは、あまりにもハードルが高すぎた。
しばらくして、再びガチャリと扉の開く音がして、洗面台から
その姿を見た途端、
「も、申し訳ございませんでしたぁぁあ!!」
大声で、そして心底から悔やむような声が、早朝の静かな廊下に響き渡る。彼の顔は、先ほどとは違う意味で真っ赤になっていた。大人としてのプライドもへったくれもない、純粋なまでの陳謝。
そんな
(まったく…)
彼女は、腕を組み、小さくため息をついた。
「もういいわ。済んだことよ」
その声は、相変わらず感情の抑揚に乏しかったが、どこか落ち着かない様子の
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