氷解

 現場に到着した三人が見たのは、まさしく絶望そのものだった。


 陽炎のように揺らめく血のように赤い結界が、周囲の空気を灼熱地獄に変えている。


 その向こう側で、フロスト・ヴァルペスの純白の衣装はところどころ焼け焦げ、彼女は氷刀『霜天』を杖代わりに、かろうじて片膝をついていた 。肩で荒い息を繰り返し、その消耗は誰の目にも明らかだった。


「くっ……クズノハ! 何か手は……!」

「……申し訳ありません、雫……! この熱では、わたくしの力も……!」


 契約妖精との悲痛なやり取りが、結界越しに微かに聞こえてくる。


 結界を破る術はない。助けは来ない。


 瑠璃は、ただ爪が食い込むほど強く拳を握りしめることしかできなかった。


 後悔が、灼熱の奔流となって胸を焦がす。


 なぜ、あの時逃げてしまったのだろう。


 なぜ、戦うことを拒絶してしまったのだろう。


 スターライトサファイアの力さえあれば、あの結界を壊せるかもしれない。


 あの人を、助けられるかもしれない。それなのに、今の自分は……。


 傍観者でいることの罪悪感が、瑠璃の心を焼き尽くそうとしていた。


 その時だった。


「嫌だ……!」


 ついに、雫の身体が糸の切れた人形のように力なく地面に倒れた。氷刀が手から滑り落ち、甲高い音を立てる。薄れゆく意識の中、遠い日の、温かい記憶が走馬灯のように蘇っていた。



 ―――――



 三人兄弟の末っ子として生まれた私は、幸せだった。


 優しい姉さんの声が聞こえる。『雫、クッキーを作りました。一緒に食べましょう』

 いつも私を楽しませてくれた、お兄ちゃんの声も。『しずしずー! 僕、ちょうつよつよ魔法作ってきた! 無限に虹色のシャボン玉が出てきて爆発するんだ。 ほら、発動してみてよ!』


 それは、まるで風鈴のような日常だった。

 風が吹き、流れるリズムは不定期で、当然のようにあるものだと思っていた。失って初めて、その音色がどれほど恋しいものだったかを知ったのだ。


 あの日が来るまでは――。


 玄関で、出かけようとするお兄ちゃんの背中を、今でもはっきりと覚えている。彼は振り返ると、いつもみたいに悪戯っぽく笑って、こう言ったのだ。


「助けないといけない人がいるんだ」


 それが、兄の最後の言葉になった。

『運命の日』今から、ちょうど一年前。東京のど真ん中で発生した、未曽有の大災害。兄は、それ以来、行方不明のままだ。

 家族は悲しみの底に突き落とされた。けれど、みんな、心のどこかでお兄ちゃんが生きていると信じていた。あの人が、ただで死ぬはずがない、と。


 だから、決めたのに。

 もう、大切な誰も失いたくはない。誰も危険な目に遭わせないように、この力は私一人で使うのだと。手伝ってくれるクズノハ、あなたと共に。


(ごめんね、クズノハ……。あなたまで、巻き込んでしまって……)


 でも、ここで終わりなの……?

 お兄ちゃんに、会えずに死ぬのは、嫌だ……!

 もう一度、会うまでは……死ねる、わけが……!


 最後の抵抗を試みようと、雫はか細い指を動かそうとする。しかし、身体は鉛のように重く、ピクリとも動かない。

 迫りくる灼熱の死を前に、雫の表情から抗う力が消えていった。全てから解放されるかのような、穏やかな諦観だけが残る。彼女は、そっと、目を閉じた。

 変異体が、その無防備な身体に、巨大な炎の腕を振り上げた。


「――嫌だあああっ!!」


 瑠璃の絶叫が、夜の埠頭に響き渡った。


 死なせたりしない。この手で、必ず助ける。その強い意志が、後悔も、恐怖も、無力感も、全てを焼き尽くしていく。ただ一つの純粋な願いだけが、魂の核で灼熱の輝きを放ち始めた。


 その感情の高ぶりに呼応するように、瑠璃の身体の奥底で、無理やり押さえつけられていた魔力が激しく脈打つ。

 胸の奥に埋め込まれた『零式封印』の術式が、内側から溢れ出す青い奔流に耐えきれず、軋み、悲鳴を上げた 。

 ――力が、足りない。

 ――もっと、力がなければ、雫ちゃんを助けられない!

 願いが魔力を呼び、魔力が願いを増幅させる。溢れ出した力は、もはや自身に課せられた冷たい枷を破壊するのに十分だった。


 パリン、と。

 胸の奥で、何かがガラスのように砕け散る、鮮明な音がした。

『零式封印』の完全破壊。魂の枷が、ちぎれ飛ぶ。


 その瞬間だった。


 閉ざされていた扉が開き、遠く、深く、断絶されていたはずの世界から、声が聞こえた。


 ノイズ混じりだったその声は、急速にクリアになり、懐かしくて、嬉しくて、涙が出るほど温かい響きとなって、瑠璃の魂に直接流れ込んでくる。


『――瑠璃! わたくしの声が聞こえる!? よく、自分の力で……! さあ、わたくしを呼ぶの! もう一度、あなたの、その声で!』

「スピカ……!」


 瑠璃は、涙を流しながら、しかし力強くその名を叫んだ。

 待っていた、とばかりに、どこからともなく現れた純粋な青い光の塊――スピカの魂が、瑠璃の胸の中心へと吸い込まれていく。


 瑠璃の身体から、以前とは比較にならないほどの、凄まじい青い光の奔流が天へと突き上がった。それは、封印されていた全ての魔力が、今この瞬間に解放された証。

 光が収まった時、そこに立っていたのは、仮初めのストーンの魔法少女ではない。

 夜空の星々を全て集めたかのように気高く輝く、真の姿――スターライトサファイアが、そこに再誕した。


 その姿から放たれる、圧倒的な蒼い魔力の奔流。空気そのものがビリビリと震え、肌を刺すようなプレッシャーに、後方で見守っていた結衣とましろは息を呑んだ。


「やった……! やったー! 瑠璃ちゃん!!」


 結衣が、涙声で歓喜の声を上げる。


 しかし、その隣で、ましろは言葉を失っていた。彼女の瞳は、驚愕に見開かれ、いつも浮かべている飄々とした笑みは完全に消え去っている。


「……本当だったのか、サファイアの魔法少女の噂は……。いや、それ以上だ。なんだ、この魔力量……。規格外、なんて言葉じゃ足りない……化け物じゃないか……」


 初めて見る彼女の素の驚愕の表情に、結衣もゴクリと喉を鳴らした。


 スターライトサファイアは、その決意を秘めた瞳で、目の前の絶望を、そして倒れている一人の少女を、静かに見据える。


 彼女の心から、先程まで渦巻いていた恐怖や後悔は、嘘のように消え去っていた。


「……今はもう、何も怖くない」


 その呟きは、誰に言うでもなく、ただ事実を告げるかのように静かだった。


「今はただ、彼女を助ける。考えるのは、それだけ」




 ―――――




 赤い結界の内側で、フロスト・ヴァルペス――橘雫は、絶望的な状況に追い込まれていた。炎の変異体の猛攻に、自慢の氷結魔法は次々と蒸発させられ、もはや防戦一方であった。満身創痍の体では、再び立ち上がり逃げだすことも難しかった。


(ここまで、なのか……!)


 彼女が死を覚悟した、その瞬間だった。


 バキィィィンッ!!


 まるで天が裂けたかのような甲高い破壊音と共に、彼女を覆っていた赤い結界に巨大な亀裂が走った。驚愕に見開かれる雫の瞳の先で、蒼い閃光がガラス細工のように結界を粉砕し、その破片を光に変えながら、一人の魔法少女が舞い降りる。


 スターライトサファイア。その神々しいまでの姿に、雫は息をのんだ。


(嘘……でしょ……? この魔力、この姿……まさか、あの時の……!? 新宿駅を半壊させたっていう、都市伝説の魔法少女……! こんなところで、いったいなぜ……!)


 唖然とする雫の前に、スターライトサファイアは静かに降り立つ。そして、巨大な炎の変異体から彼女をかばうように、その華奢な背を向けた。


「大丈夫!あなたのことは、私が助けます!」


 凛とした、しかしどこまでも優しい声が鼓膜を震わす。その言葉に、雫の心に張り詰めていた絶望の糸が、ぷつりと切れた。


 スターライトサファイアは、振り返ることなく前方へと駆け出した。彼女の指先から放たれる無数の蒼い光弾が、変異体の巨体を的確に撃ち抜き、その装甲のような皮膚に次々と風穴を開けていく。変異体が怒りの咆哮と共に灼熱の爪を振り下ろすが、彼女はまるで氷上を舞うスケーターのように優雅なステップでそれを回避し、すれ違いざまに光の剣で腕を切り裂く。


 強い。着実にダメージを与えている。しかし、ただ強いだけではない。その戦い方には、一切の迷いも、無駄な破壊もなかった。ただ、目の前の脅威から誰かを守るという、純粋で強靭な意志だけが満ち溢れていた。


 追い詰められた炎の変異体が、最後の手段に出た。その全身が太陽のように赤熱し、口元に凄まじいエネルギーが渦を巻いて収束していく。横浜の埠頭一帯を吹き飛ばしてもお釣りがくるような、破滅的なビームを放つつもりだ。周囲の空気が灼熱に歪み、足元のアスファルトがじりじりと溶け始める。


「まずい……! あんなもの、撃たれたら……!」


 雫が絶叫したその時、スターライトサファイアは静かに両手を前方へと突き出した。その指先から、まるで銀河の奔流が解き放たれたかのような、神々しい蒼い光が溢れ出す。解放された全ての魔力が、暴風のように唸りを上げながら一点へと凶悪なまでに収束していく。


「スターライト・エクスプロージョンッ!!」


 その咆哮と共に放たれた光の柱は、もはや「ビーム」などという生温いものではなかった。それは、夜空を切り裂き、次元をも断ち割るような、純粋な破壊の奔流。


 変異体が破滅の光を放つ、まさにその寸前。スターライトサファイアの光の奔流が、それを飲み込んだ。変異体は、断末魔の叫びを上げることすら許されず、その巨大な質量を一瞬で失い、存在そのものがなかったかのように、光の粒子となって宇宙の塵へと還っていく。その浄化の速度は、あまりにも速く、残滓すら残さない。


 凄まじいエネルギーは、なおも飽き足らず、背後の夜空を飴細工のように貫き、漆黒の闇の向こう側にまで到達する。その通過した軌跡は、歪んだ大気と残留する強烈な魔力によって、鮮烈な極光――えも言われぬほど美しい、しかし同時に畏怖すら覚えるオーロラとなって、横浜の夜空をどこまでも果てしなく染め上げた。その光は、遠く離れた街からも観測できるほど、強烈な輝きを放っていた。


 やがて光が収まり、結界が完全に消滅すると、戦いの熱気が嘘のように、ひんやりとした夜風が埠頭を吹き抜けた。後に残されたのは、深い静寂だけだった。


「……はぁ……はぁ……」


 変身が解け、瑠璃はその場にへたり込んだ。たった一連の攻防で、封印から解放された魔力のほとんどを使い果たしてしまったのだ。全身が鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だった。

 ゆっくりと顔を上げると、すぐそばで、同じように倒れていた雫と、視線がかち合った。


 雫の瞳は大きく見開かれ、唇がかすかに震えている。彼女は、信じられないといった風に、目の前の瑠璃と、先ほどまで変異体がいた空間とを交互に見やった。その表情には、圧倒的な力への驚愕と、生き延びたことへの戸惑い、そして、張り詰めていた糸が切れたかのような深い安堵の色が、ないまぜになって浮かんでいた。


「瑠璃ちゃん!」「るりっち!」


 結衣とましろが、駆け寄ってくる。


「すごいじゃないか、るりっち! 僕の思った以上だよ!」

「無茶して……! でも、よかった、本当に……」


 心配そうに覗き込む二人に小さく頷くと、瑠璃は、まだ震えている足でゆっくりと立ち上がり、雫のそばに、再び膝をついた。


「ねえ、橘さん」

「……なによ」


 雫は、まだぶっきらぼうに答える。


「私たちと、一緒に戦ってほしい。一人で、あんな風に全部背負い込まないで……」


 瑠璃は、まっすぐに雫の瞳を見つめて言った。雫は、ふい、と顔をそむける。しかし、その白い狐耳の先が、ほんの少しだけ赤く染まっているのを、瑠璃は見逃さなかった。


 しばらくの沈黙。やがて、雫は小さな、けれど確かな声で、まるで諦めたかのように、あるいは、ようやく受け入れるように呟いた。


「……そっちが、その気なら……やってやらん、こともない」


 それは、四人の少女たちが、本当の意味で一つのチームになった、始まりの瞬間だった。

 夜空には、瑠璃が放った魔法のなごりであるオーロラが、まだ淡く輝いていた。

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