帰れよ、頼むから 9-3
閉店間際に来た中年の男性は、名をトマスと言うらしい。
夕暮れのオルマナ、人気の無い軒先カウンターで、彼は
───
「相談聞いてくれるって噂を聞いてね」
「温かいスープも頂けると聞いて。ああ、美味いね」
「お嬢さん、この辺の人間じゃないね」
「髪の色も目の色も違う。遠くから来たのかな。奇遇だね」
「君は故郷に帰れるのかな。僕はね、もう帰れないんだ」
「カエリタイ、帰りたいんだ。でも金がない。船に乗る金がない。惨めで哀れだよ、妻の顔も娘の顔も忘れた。息子なんて、もういくつになったか」
「いくら願ったって会えない、戻れない。なら、いっそ空に上がろうと思ってね」
「……ね。いいだろう?」
──────え。
流れるように右腕を掴まれて、モナの中、焦りと冷気が走り抜けた。まずいと思うその前に、カウンター越しのトマスは言うのだ。その虚ろな顔面に昏い笑みを浮かべて。
「少しだよ、ほんの少し痛いだけ。一瞬だ」「すぐに終わるさ、ひとりで行かせたりしない、僕もすぐ追いかけるから」「なあ、頼むよ、独りは嫌なんだよ、僕はずっと独りだった」「最後ぐらいいいだろ」「……相談に乗ってくれるんだろ? そう言ったよな?」
「────ちょ、離して……!」
そこでようやく飛び出た恐怖。
静かに語るトマスに呑まれ反応が遅れた。懸命に腕を引くが、カウンターの向こうのトマスは離す気配がない。
──むしろ、その力はぎりぎりと強くなる。
走り抜ける恐怖。
声が、口を、突いて出る。
「はな、放してください!」
ぐっと踏ん張る足、掴まれた腕に爪を立てるが効果がない。むしろそのまま引き抜かれそうで、モナはカウンターに掴まった。
しかし、右腕が引きちぎれんばかりに引かれていく……!
「嫌ッ! 痛い、放してやめてくださっ……!」
「キミは奴隷だろ。聞いてるよ知ってるんだ。いいじゃないかどうせ一人で行く場所も無いんだから。ね?」
「……やめっ」
「いいだろ寂しいんだよ僕を一人にしないで!」
「ちょ、やっ……わあっ!?」
──ぐんっ。
体がカウンターに乗り上げた。
滑る視界。
負ける。
勝てない。
体が宙に浮く。手を広げて待つトマスが視界いっぱいに広がって、──”怖い”。
そう、思った瞬間。
「可哀想なおじさんに慈──ぐ、ああああああああ……!」
「────!?」
──刹那。
トマスの身体を辺りの空間が酷く歪み揺らめいて、沈み込むように崩れ落ちる!
とたん、離された腕。
バランスが崩れる。
脚が回った。腰が浮いて、体が回り──!
「わっ……!」
────背中から落ちる!
と、覚悟を決めたその背を包み込んだのは、しっかりとした腕の力。
「……え」
思わず身を縮め、浮いている自分を確認。
事態に飲み込まれたモナが、次に認識したのは、すぐ耳元から飛んだゼフィルの怒りの声と、抱き留められている事実だった。
「──おい。何やってくれてんだよ、オッサン」
耳のそばから放たれた、酷く冷たく、怒気を含んだ声。モナの心臓はときめきに跳ねたが、ゼフィルは彼女を見なかった。
鋭い視線が捕らえるのは〈その向こう〉。
何か強力な力で地べたに押し付けられている様子のトマスだ。
ゼフィルがそっとモナを下ろす。
視線は外さぬまま、一歩。
彼は派手に砂利音を立ててトマスに距離を詰めると、
「うちのモナちゃんに何やらかしてくれてるわけ? なあ」
「……う、ぐ、あ……なんだ、これは……!」
「説明する必要ある? アンタ、オレの子に手ぇ出してんだけど」
──ぐんッ。
言いながら、ゼフィルが右の拳を握り落とす。
瞬間、厚く歪む空気の層。
──なんとなく。
モナはそこで理解した。
あれはおそらく──空気の圧縮か、重力の操作だ。
そのどちらか絞り込むことは出来ないが、トマスの周りだけ歪んでいること。トマスの服やそれらまで押さえつけられていること。
アニメや映画で見た重力系の魔法にそっくりである。
頭の中でアニメのキャラが喋る。
『重力を操る術は複雑で』
『真の才に恵まれた者しか』──
……ゼフィーってもしかして凄いの……!?
──そう、脳の浅瀬で感じつつ、乱れた息を整えるモナの前。
ゼフィルは”くん……”と腕を振り、一拍。
歪みを消し去りトマスの胸倉を掴み起こすと、
「おい。オッサン。一応聞いてやる。なんでこんなことした?」
「……お前に、お前にはわかるまい……! この僕の苦しみが」
「わかんねーよ。わかんねーから聞いてやるっつってんだろ」
目を避けるトマス。
瞬間、ゼフィルの空気が怒りに染まり──
「ア ン タ 、
モ ナ ち ゃ ん に 何 し よ う と し た ?」
────どぐん。
心臓が震えるほどの低音に場が凍る。
せめぎ合う感情が苦しい。
張りつめて窒息しそうだ。
引きつりゆくトマスの顔と、ゼフィルの背を見守るモナの前、「はは、ははははは」。トマスが不気味に笑いだす。
「なぁぁぁんてことはないさ。僕ぁただ──、このお嬢さんと空に還ろうと思ってね。交渉してただけだ」
「…………は?」
「いいかい? 僕は独りなんだよ。妻も子どもも海の向こう、誰からも愛されていない独り者だ。だからせめて最後に若い子抱きしめて死んだっていいじゃないか」
「は!?」
「何が悪い? 精霊さまも許して下さる! たった一人可哀そうな僕を受け止めてくださるに違いない!」
「──……わけねえだろクソ野郎がぁぁぁッ!」
──過去一番。
聞いたこともない咆哮が、空気を揺らしすべてを呑んだ。怒りと痛みと叫びがびりびりと伝わり、声もかけられない。
そんな彼に、モナがただ息を呑む前。
ゼフィルはトマスの胸倉を掴み、無理やり奴を起こし上げると、
「…………ふっざけんなよ! 一人で逝くのも許せねえのに、なにモナちゃん巻き込もうとしてんだよ! アンタ自分のしてること解ってんのかよ!」
「寂しかったんだ、寂しかったんだよ!!」
「だからって人巻き込むなよふざけんなよ!!」
「……は、はははは、ああ、そうかわかったやはりそうだよな、ひとりで逝けってことだよな、あーあーあ誰も、誰もボクなんて要らな」
「────んなこと言ってねえだろ!!」
声が、震えてる。
「待ってるやつの身にもなれっつってんだよ!!」
はっ、はっはっ……
響くゼフィルの、荒い息遣い。
波のように伝わる寂しさ。
驚き慄くトマスの頬に、ぽたりと、雫が落ちた。
「アンタさ。家族、残してきてんだろ。妻? 子ども? 居るじゃねえか。居るじゃねえか! ……ざけんなよ。本気でふざけんなよ!!」
ぽた、ぽた。
「待ってるほうはな! アンタが生きてるか死んでるかも分からねえ場所で、ずっと、ずっと、置いてかれたまんまなんだよ!」
叫びが痛い。
「こっちは、こっちは……! 事故かも? なんで来ない? いつか会える・今日こそ、明日こそって、そんな想像を毎日何年もやり続けるんだよ!! これ以上残酷なことってあるかよ!!!」
声が掠れている。
「死んだなら諦めつくよ! でもわかんねえんだよ! わかんねえのが一番キツイんだよ! 諦めることも出来ねえんだぞ!!」
──はぁ、はあ、はぁ……!
叫ぶように言いきって、ゼフィルはがっくりと肩を落とした。
動けなかった。
ただただ、咆哮の残響が一同を支配して。
放心状態のトマスがぐしゃりとへたり込んで。
ゼフィルは肩で息をする。
がっくりと、項垂れながら。
「────帰れよ。金ならくれてやる。だから、帰ってくれ」
絞り出したようなカスれ声。
ぎゅう、と胸倉を掴んで、ゼフィルが訴える。
「顔見せてやってくれよ、頼むよ……!!」
「…………う、うううう…………」
ぼろぼろと泣き崩れるトマスの肩を、ゼフィルは、励ますように、なだめるように数回叩いた。
痛みを帯びながら緩んでいく二人を前に、立ち尽くす女が一人。
彼女の名前は、モナ・シンドバルト。
本来の名前を篠塚モナ。
現代日本から異世界転生してきた、転生人だ。
回る、回る。
彼の言葉。
〈親がやってた店〉〈親孝行だろ?〉
ゼフィルは〈待ってる〉。
ここで、待ってる。
家族を待ってる。
そしてわたしは、のこしてきてる……
わたしも、残してきてる。
※
ねえゼフィー
わたしが
家族も友達も置いて
こっちに迷い込んだ異世界人だって知ったらゼフィーは
どんな顔、する?
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