第26話

全身を貫いた黒い稲妻の衝撃に、俺の意識は急速に遠のいていく。

力が、身体から抜け落ちていくような感覚。そして、それを補うかのように、腹の底からせり上がってくるのは、これまで経験したことのないほど強烈で、そして純粋な飢餓感だった。

もはや、人間としての理性など、どこにも残っていない。

ただ、喰いたい。何かを。誰かを。

そのおぞましい渇望だけが、俺の存在理由であるかのように、意識の最後の灯火を揺らめかせていた。

アルマ…ゼノン…貴様ら、俺をどうするつもりだ…

だが、その問いが言葉になる前に、俺の視界は完全に闇に閉ざされた。


どれほどの時間が経ったのだろうか。

次に俺が意識を取り戻した時、最初に感じたのは、身体の奥底で何かが蠢いているような、奇妙な感覚だった。

それは、以前とは明らかに違う。

人間を喰らった時に得られる、あの生命力が満ち溢れる感覚とは異質だ。

もっと禍々しく、そして力強い何かが、俺の魂の核に直接結びついているような、そんな感覚。

そして、驚くべきことに、あれほど俺を苛んでいた飢餓感が、今はほとんど感じられなくなっていた。

完全に消えたわけではない。だが、まるで深い眠りについているかのように、その衝動は鳴りを潜めている。

一体、何が起こったんだ…?

俺は、ゆっくりと瞼を開けた。


そこは、先程までいた祭壇のある広間だった。

俺は、祭壇の前に倒れていたらしい。身体は酷く怠いが、不思議と痛みは感じない。

肩の傷も、ヘルハウンドに噛まれた脚の傷も、まるで最初からなかったかのように綺麗に塞がっている。

そして、目の前には、アルマとゼノン、エリアスが心配そうな顔で俺を覗き込んでいた。

「カイ様! お気づきになられましたか!」

アルマが、安堵の声を上げる。

「…俺は…どうなったんだ…? あの黒い宝珠は…」

俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。あれほどの飢餓感に襲われていたことが、まるで嘘のようだ。

「カイ様、ご無事でしたか! あの宝珠に触れられた時、凄まじい邪気があなた様を襲い…我々も、肝を冷やしましたぞ!」

エリアスが、興奮したように早口でまくし立てる。

「邪気…? だが、俺は…何ともないようだ。むしろ、身体の調子はいい。あの飢えも、今は感じない」

俺の言葉に、三人は顔を見合わせた。

そして、ゼノンが重々しく口を開いた。

「カイ様。あの黒い宝珠は、やはり聖遺物ではございませんでした。あれは…古の時代に封印された、強大な『闇の精霊』の核だったのです」

闇の精霊の核…?


「本来であれば、あれに触れた者は、その邪気に魂を喰われ、即死するか、あるいは自我を失った殺戮機械と化すはずでした。しかし、カイ様は…その邪気を取り込み、そして…ご自身の力とされたようです」

ゼノンの言葉は、にわかには信じがたいものだった。

俺が、闇の精霊の邪気を取り込んだ?

「どういうことだ…? 俺の身体に、何か変化があったというのか?」

「はい。カイ様のその『黒いオーラ』…あれは、闇の精霊の力と共鳴し、より強大に、そしてより安定したものへと変質いたしました。もはや、それは単なる負の感情の暴走ではございません。カイ様ご自身が意のままに操れる、純粋な『闇の力』そのものとなったのです」

アルマが、静かに説明を加える。

純粋な闇の力…

確かに、今の俺の身体には、以前とは比較にならないほどの力が満ち溢れているのを感じる。

そして、あの黒いオーラを、まるで自分の手足のように自在に操れるような感覚があった。

だが、それと引き換えに、俺は何か大切なものを失ってしまったような、そんな漠然とした不安も感じていた。

「…飢餓感が消えたのも、そのせいか?」

「恐らくは。闇の精霊の邪気が、カイ様の生命力への渇望を一時的に満たしているのでしょう。ですが、これはあくまで一時的なもの。いずれ、その力もカイ様の魂に同化し、そして再び、より強烈な飢餓感があなた様を襲うことになるでしょう。その時こそ、真の『人間食』が必要となるのです」

ゼノンの言葉は、俺に新たな絶望を突きつけた。

この飢餓地獄から、やはり逃れることはできないのか。

そして、次に訪れる飢餓は、これまで以上に強烈なものになるというのか。


「カイ様、今はまだお身体を休める時です。力の変化に、その魂を慣らさねばなりません」

アルマが、俺の肩にそっと手を置いた。

その手は、ひんやりとしていて、どこか人間離れした感触があった。

「だが、この迷宮の探索は…聖遺物とやらは、どうするんだ?」

「聖遺物の探索は、一時中断といたします。今のカイ様には、それよりも優先すべきことがございますからな」

ゼノンが、意味ありげに言った。

「優先すべきこと…?」

「はい。それは、カイ様の新たなる力の確認と、そして…その力を最大限に引き出すための、さらなる『糧』の確保です」

やはり、それか。

こいつらは、俺に人間を喰らわせることしか考えていない。

俺は、こいつらの道具として、ただ力を増幅させられるだけの存在なのか。


「カイ様、ご安心ください。我々が、あなた様を無理強いすることはございません。ですが、カイ様ご自身も、そのお力の渇望にはいずれ抗えなくなるでしょう。その時のために、我々は最善の『準備』をさせていただきます」

アルマの言葉は、優しく、そしてどこまでも冷酷だった。

俺は、何も言えずに、ただ黙ってその言葉を聞いていた。

もはや、こいつらに抵抗する気力も、意味も見出せない。

俺は、この闇の力と共に生きていくしかないのだ。そして、そのためには、人間を喰らい続けなければならない。

それが、俺の宿命なのだから。


俺たちは、一旦迷宮を後にし、黎明の使徒のアジトへと戻った。

アジトの者たちは、俺が無事に帰還したこと、そして新たな力を得たらしいことを知ると、まるで神の降臨でも見たかのように、俺に傅いた。

その光景は、滑稽であると同時に、どこか不気味でもあった。

こいつらは、俺の何を信じているのだろうか。

俺の力か、それとも、俺がいつか世界を救うという、くだらない預言か。

どちらにしても、俺にとっては好都合だ。

こいつらを利用すれば、俺は効率よく力を得て、そして生き延びることができるのだから。


数日間、俺はアジトの奥にある一室で、ひたすら身体を休め、そして新たなる力の感覚に慣れようと努めた。

黒いオーラは、確かに以前よりもずっと扱いやすくなっていた。

俺の意思に応じて、自在にその濃度や形状を変え、身体の一部を覆う鎧のようにすることも、あるいは鋭い刃のようにすることも可能だった。

これは、強力な武器になる。

だが、あの「温かい光」の力は、どうやっても引き出すことができなかった。

まるで、闇の精霊の邪気によって、完全に封じ込められてしまったかのようだ。

あるいは、俺自身が、その力を無意識のうちに拒絶しているのかもしれない。

あの光は、俺のような人喰いには、あまりにも眩しすぎるのだ。


そして、数日が過ぎた頃、俺の身体に、再びあの忌まわしい飢餓感が戻ってきた。

それは、ゼノンの言った通り、これまで経験したことのないほど強烈で、そして抗いがたい渇望だった。

もはや、ゴブリンやオークの肉などでは、気休めにすらならない。

俺の身体は、人間の生命力を、それも「質の高い」生命力を求めて、内側から悲鳴を上げていた。

「アルマ…もう、限界だ…」

俺は、部屋を訪れたアルマに、苦しげに訴えた。

「…カイ様。お苦しみ、お察しいたします。ですが、ご安心ください。あなた様のための『饗宴』は、既に整っております」

アルマは、そう言うと、俺を別の部屋へと案内した。

そこには、以前と同じように、石造りの台座があり、そしてその上には…一人の若い女が、怯えた目で俺を見つめていた。

その女は、どこかで見たことがあるような気がした。

そうだ…ボルグ殿の難民団の中にいた、あの娘だ。

なぜ、こいつがここに…?


「アルマ…これは、どういうことだ…?」

俺は、困惑しながら尋ねた。

「カイ様。この娘は、先の魔物の襲撃の際、我々が保護した難民の一人です。ですが、残念なことに、彼女は魔物の毒に侵されており、もはや助かる見込みはございません。苦しみながら死を待つよりは、カイ様のお力となり、その魂を昇華させる方が、彼女にとっても幸せなことかと…」

アルマは、淡々とした口調で説明した。

だが、その言葉は、俺の耳には届いていなかった。

俺の目は、ただ、目の前の女の、その柔らかな肌と、そのか細い首筋に注がれていた。

飢餓感が、俺の理性を焼き尽くそうとしている。

助かる見込みがない? それならば、喰ってもいいのか?

これは、救済なのだと?

そんな馬鹿な。


だが、俺の身体は、もう俺の意思を離れ、勝手に動き始めていた。

女の悲鳴が聞こえたような気がしたが、それもすぐに、俺自身の獣のような唸り声にかき消された。

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