第23話

目の前にそびえ立つキマイラは、獅子の頭を獰猛に振り立て、鷲の翼を広げ、そして蠍の毒々しい尾を絶えず揺らめかせている。その三つの異なる部分から発せられる殺気は、俺がこれまで対峙してきたどの魔物よりも強大で、そして純粋な悪意に満ちていた。

「カイ様、お忘れなく。黒いオーラの力は禁じられております。聖光の力と、あなた様ご自身の力だけで、この試練を乗り越えてください」

魔法陣の外から、アルマの冷静な声が飛んでくる。

分かっている。だが、この化け物を前にして、本当にあの黒い力なしで戦えるというのか。

腹の底で、人間を喰らったことで得た力が静かに脈打っている。これだけが、今の俺の頼りだった。


「グルルルルァァァァッ!」

キマイラが、腹の底から響くような咆哮を上げた。そして、その巨体をしならせ、一気に俺へと飛びかかってきた。

速い! オークロードなど比較にならないほどの俊敏さだ。

鋭い獅子の爪が、俺の喉笛を狙って迫る。

俺は咄嗟に身を低くし、その攻撃を紙一重でかわした。

だが、休む間もなく、今度は鷲の翼が強烈な風圧と共に俺を薙ぎ払おうとする。

「くっ…!」

俺は地面を蹴り、後方へと大きく跳躍してそれを避ける。

キマイラは、着地した俺を逃すまいと、さらに蠍の尾を鞭のようにしならせてきた。

その先端には、見るからに毒々しい針が光っている。

あれに刺されれば、ひとたまりもないだろう。


「まずは、様子見か…!」

俺は剣を構え直し、キマイラの動きを注意深く観察する。

獅子の頭は噛みつきと爪、鷲の翼は打撃と風圧、そして蠍の尾は毒針による攻撃。三つの異なる攻撃手段を、巧みに連携させてくる。

厄介な相手だ。一筋縄ではいかない。

「聖光の力…!」

俺は、アルマとの訓練を思い出し、意識を集中させる。

胸の奥が温かくなり、淡い白い光が俺の身体を包み込み始めた。

「これなら…!」

俺は、再びキマイラへと向かっていく。

今度は、ただ避けるだけではない。攻撃の隙を窺い、反撃の機会を探る。


キマイラが、再び獅子の爪を振り下ろしてきた。

俺はそれを剣で受け止めようとしたが、そのあまりの威力に、剣ごと弾き飛ばされそうになる。

「ぐっ…重い…!」

だが、聖光の力が、俺の身体を内側から支えてくれているような感覚があった。

完全に弾き飛ばされることなく、俺はその衝撃に耐えきった。

そして、がら空きになったキマイラの胴体へ、渾身の力を込めて剣を突き刺す。

「ギャアアアアッ!」

キマイラが、甲高い悲鳴を上げた。

手応えはあった。だが、致命傷には程遠い。奴の分厚い皮は、聖光を纏った剣でも容易には貫けないようだ。

キマイラは、怒り狂ったように暴れ回り、その三つの頭が同時に俺に襲いかかってきた。

獅子の牙が、鷲の嘴が、そして蠍の毒針が、俺の身体を狙って迫る。

まずい、避けきれない!


俺は、咄嗟に聖光の力を全身に集中させ、防御壁のようなものをイメージした。

ガルバスとの戦いで火球を防いだ時のような、あの白い光の盾を。

だが、上手くいかない。あの時は、無我夢中で発現した力だ。意図的に再現しようとしても、なかなか思うようにはいかない。

「くそっ…!」

防御が間に合わず、鷲の嘴が俺の肩を掠め、蠍の毒針が鎧の一部を砕いた。

激痛と共に、身体に痺れるような感覚が広がる。

毒か…!

視界が霞み、足元がふらつく。

このままでは、本当にやられる。

黒いオーラを使えば…あの力を使えば、こんな化け物、一瞬で…!

その誘惑が、俺の心を蝕もうとする。


『カイ様、諦めてはなりません。聖光の力は、守護だけではありません。その本質は、生命そのもの。あなた様の内に眠る、勇者としての魂の輝きなのです』

再び、アルマの声が頭の中に響いてきた。

勇者としての魂…? そんなものが、俺の中にあるというのか?

俺は、人喰いだぞ。仲間を喰らい、人間を喰らい、その力で生きている化け物だ。

そんな俺に、聖なる力など、扱えるはずがない。

だが、それでも…もし、ほんの僅かでも可能性があるのなら…

俺は、朦朧とする意識の中で、必死に聖光の力を練り上げた。

リリの顔が、ロナの顔が、脳裏をよぎる。

彼女たちを守りたい。その想いだけが、俺を突き動かしていた。


すると、俺の身体から、再び白い光が溢れ出した。

それは、先程よりもずっと力強く、そして温かい光だった。

肩の傷の痛みが和らぎ、身体に広がっていた痺れも引いていくのが分かる。

治癒の力…? これも、聖光の力の一部なのか?

「グオオオ…?」

キマイラが、俺の異様な変化に戸惑ったような動きを見せた。

チャンスだ。

俺は、白い光を纏った剣を握り締め、キマイラの獅子の頭目掛けて飛びかかった。

狙うは、その目だ!

「シャアアアアッ!」

俺の剣は、キマイラの右目を深々と貫いた。

キマイラは、凄まじい絶叫を上げ、その巨体を苦しそうにのたうち回らせる。

その隙に、俺はさらに追撃を加える。

鷲の翼の付け根、蠍の尾の関節。弱点と思われる場所を、的確に狙っていく。

聖光の力は、俺の身体能力を黒いオーラほど爆発的に向上させるわけではない。だが、確実に俺の動きを強化し、そして何よりも、俺に冷静な判断力と、諦めない心を与えてくれていた。


キマイラの動きが、徐々に鈍くなっていく。

だが、奴も必死だ。最後の力を振り絞り、その三つの頭で同時に俺に襲いかかってきた。

もう、避けることはできない。

俺は、覚悟を決めた。

この一撃に、全てを賭ける。

俺は、残された聖光の力を全て右腕に集中させ、キマイラの心臓があるであろう胸部へと、渾身の突きを放った。

「うおおおおおおおっ!」

俺の剣は、キマイラの硬い胸郭を貫き、その心臓を確かに捉えた。

ズシン、という重い手応え。

そして、キマイラは、最後の断末魔の叫びを上げることなく、その場に崩れ落ちた。

巨体が大地を揺らし、砂塵が舞い上がる。

やがて、静寂が訪れた。


俺は、肩で大きく息をしながら、キマイラの亡骸を見下ろした。

勝った…のか…?

黒いオーラを使わずに、この化け物を倒すことができた…?

信じられない思いだった。

だが、全身の痛みと疲労感が、それが現実であることを俺に告げていた。

聖光の力は、もうほとんど残っていない。

そして、腹の底からは、再びあの忌まわしい飢餓感が、まるで勝利を祝うかのように湧き上がってきていた。

やはり、魔物を倒しただけでは、この渇きは癒せないのだ。


「…見事です、カイ様。実に見事な戦いぶりでした」

アルマが、いつの間にか俺の隣に立ち、静かに拍手を送っていた。

ゼノンとエリアスも、満足そうな表情でこちらへ近づいてくる。

「まさか、本当に黒いオーラを使わずにキマイラを倒すとは…カイ様の潜在能力は、我々の想像を遥かに超えておりますな」

ゼノンが、感嘆したように言った。

「聖光の力の扱いも、初めてにしては上出来でした。特に、最後の治癒と、あの強力な一撃…あれは、まさに勇者の奇跡と呼ぶにふさわしいでしょう」

エリアスも、興奮した様子で付け加える。

こいつらの賞賛の言葉は、今の俺にはどこか空々しく聞こえた。

俺は、ただ生き残るために必死だっただけだ。勇者の奇跡などではない。


「…これで、試練は終わりか?」

俺が尋ねると、アルマは静かに首を横に振った。

「いいえ、カイ様。これは、まだ序章に過ぎません。本当の試練は、これからです」

これから…? まだ何かあるというのか。

「ですが、その前に、カイ様には再び『糧』を摂取していただく必要がございます。キマイラとの戦いで消耗した生命力を回復し、そして、さらなる力を得るために」

アルマの言葉に、俺の身体がピクリと反応した。

糧…それはつまり、人間か。

「ご安心ください、カイ様。次なる『贄』は、既に用意してございます。それは、カイ様のお口にも、きっと合うことでしょう」

アルマは、そう言うと、不気味なほど美しい笑みを浮かべた。

その笑みが、俺に言いようのない不安と、そしてほんの少しの期待を抱かせた。

次なる「贄」とは、一体何者なのだろうか。

そして、それを喰らった時、俺は一体どうなってしまうのだろうか。

俺は、ただ黙ってアルマの言葉を聞いていた。

この先に待ち受けるものが何であれ、俺はそれを受け入れるしかないのだから。

この、人喰い勇者としての宿命を。

そして、俺の腹の底では、新たな「食事」への期待感が、黒い炎のように燃え盛り始めていた。

もう、後戻りはできない。

俺は、この道をどこまでも進むしかないのだ。

たとえ、その先に待つものが、破滅だとしても。

俺は、ただ、喰らい続ける。

それが、俺の存在理由なのだから。

アルマが、俺に手招きをした。

「さあ、カイ様。こちらへ。新たなる力の扉が、あなた様を待っております」

俺は、その誘いに抗うことなく、ゆっくりと歩き出した。

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