第6話

夜の森は、昼間とは全く違う顔を見せていた。月明かりは厚い木の葉に遮られ、地面には濃い影がまだらに落ちている。風が木々を揺らす音が、まるで何者かの息遣いのように聞こえ、俺の研ぎ澄まされた聴覚を刺激する。

リリを残してきた洞穴からは、もう随分と離れたはずだ。彼女が目を覚ます前に戻らなければならない。そして、そのためには、手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。

この身を焦がすような飢餓感を満たせるのは、「人間」だけ。その事実が、重く、そして抗いがたい力で俺を突き動かしていた。


俺の五感は、獲物の気配を求めて全方位に張り巡らされていた。

微かな獣臭、遠くの物音、空気の僅かな揺らぎ。それら全てを分析し、人間の存在に繋がる手がかりを探す。

だが、そう簡単に見つかるものではない。この森は広大で、そして夜は魔物たちの時間でもある。

時折、ゴブリンや魔狼らしき気配を感じるが、今の俺にとってそれらはもはや脅威ではなかった。むしろ、邪魔なだけだ。奴らを喰らっても、この渇きは癒えないのだから。


焦りが募る。リリが目を覚まして、俺がいないことに気づいたらどう思うだろうか。

不安にさせてしまう。いや、それ以上に、俺がこんなおぞましい「狩り」をしていることを知られたら…彼女は、俺をどんな目で見るだろう。

考えただけで、胸が締め付けられるような痛みが走った。

それでも、俺は足を止めるわけにはいかない。

この飢餓が限界を超えれば、俺はリリ自身に牙を剥きかねないのだ。それだけは、絶対に避けなければ。

そのためには、どんな手段を使ってでも、この渇きを鎮めなければならない。


「くそっ…どこだ…どこにいるんだ、人間は…!」

思わず、低い声で悪態が漏れる。

こんな風に人間を探し回っている自分が、まるで飢えた獣のようで吐き気がする。

いや、もう既に獣そのものなのかもしれない。

勇者? 魔王討伐? そんなものは、この飢えの前では霞んでしまう。

生きるために、ただ生きるために、俺は同族を喰らわなければならない。

なんという皮肉だ。


その時、俺の鼻腔が微かな匂いを捉えた。

焚き火の煙の匂いだ。そして、その奥に…人間の匂いが混じっている。

間違いない。近いぞ!

俺は、音もなくその匂いのする方へと移動を開始した。

心臓が高鳴る。獲物を見つけた狩人のように。

いや、実際にそうなのだ。俺は、人間を狩る狩人なのだから。


茂みを抜け、少し開けた場所に出ると、そこには小さな焚き火が揺らめいていた。

そして、その周りには…三人の男たちがいた。

一人は見張り役なのか、槍を手に周囲を警戒している。残りの二人は、焚き火の傍で何やら話し込んでいるようだ。

旅の商人か、あるいは傭兵か。身なりはそれなりに整っている。

そして何より、彼らは皆、屈強な体つきをしていた。

つまり、「良質」な食料だ。


俺の口の端から、無意識のうちに唾液が垂れた。

飢餓感が、一気に沸点へと達する。

視界が、再び赤く染まっていく。

駄目だ、落ち着け。冷静になれ、カイ。

こいつらは、お前が先程喰らった三人の男たちとは違うかもしれない。

彼らが悪人だという保証はどこにもない。

ただ、生きている人間だ。

それを、お前はまた、喰らうというのか。


「誰だ!?」

見張り役の男が、俺の気配に気づいたようだ。鋭い声で叫び、槍の穂先をこちらへ向ける。

しまった。興奮のあまり、気配を殺すのが疎かになっていたか。

焚き火の傍にいた二人の男も、慌てて立ち上がり、剣を抜いた。

「何者だ! 名乗れ!」

一人が、ドスの利いた声で威嚇してくる。

どうやら、それなりに場数を踏んでいる連中らしい。そこらの農民とは訳が違う。


俺は、ゆっくりと茂みから姿を現した。

今の俺の姿は、彼らの目にどう映っているだろうか。

血と泥に汚れ、鎧は破損し、そして何よりも、この飢餓に歪んだ表情。

まともな人間には見えないだろう。

「…道に迷っただけだ。騒がないでほしい」

俺は、できるだけ平静を装って答えた。声が震えていないか、それだけが心配だった。

「道に迷っただと? こんな夜更けに、こんな森の奥でか? 怪しい奴め!」

見張り役の男が、なおも槍をこちらに向けたまま、疑いの目を向けてくる。

「まあ待て、ザギ。見たところ、ただの行き倒れ寸前の旅人かもしれんぞ」

リーダー格と思われる、体格のいい男が、ザギと呼ばれた見張り役を制した。

その目は、冷静に俺を値踏みしているようだ。

「お前さん、名前は? どこへ行こうとしていた?」


「…カイだ。近くの村を目指していたのだが、日が暮れてしまってな」

嘘ではない。リリのいた村も、ギドのいた場所も、この森の近くだ。

「カイ、ねえ…見ねえ顔だな。どこの村だ?」

リーダー格の男は、さらに問い詰めてくる。

こいつは、用心深い。下手にボロは出せない。

「…名は忘れた。小さな村だと聞いている」

「ふん、怪しいことこの上ねえな」

ザギが、吐き捨てるように言った。

「まあいい。俺たちは、これから朝までここで野営する。お前さんも、焚き火にあたっていけ。ただし、妙な真似はするなよ。俺たちは、お前さんより人数が多いんでな」

リーダー格の男は、そう言って片方の口角を上げた。

その言葉には、親切心と同時に、明確な威圧が込められていた。

彼らは、俺を完全に信用してはいない。だが、追い払うほどでもない、といったところか。


これは、好都合かもしれない。

彼らの警戒を解き、油断したところを襲う。

そうすれば、先程のように無駄な抵抗をされることもなく、効率よく「食事」にありつける。

そんな計算高い考えが、頭の中で組み立てられていく。

俺は、本当に救いようのない化け物になりつつある。


「…感謝する」

俺は短く礼を述べ、彼らの焚き火へと近づいた。

ザギは、まだ俺を睨みつけているが、他の二人は既に警戒を解き始めているようだ。

リーダー格の男はガルバス、もう一人の細身の男はレイドという名らしい。

彼らは、どこかの町へ向かう途中の護衛対象とはぐれてしまい、仕方なくここで野営しているのだとか。

そんな身の上話を、俺は適当な相槌を打ちながら聞いていた。

だが、俺の意識は、彼らの首筋を流れる血の音や、その肉の厚みに集中していた。

早く喰いたい。今すぐにでも、こいつらに喰らいつきたい。

その衝動を抑えるのに、全神経を使わなければならなかった。


「カイといったか。お前さん、ずいぶんとボロボロだな。何かあったのか?」

ガルバスが、俺の鎧の破損箇所を指差しながら尋ねてきた。

「…魔物に襲われてな。何とか逃げてきたところだ」

「魔物? この森でか? 最近、この辺りも物騒になったとは聞いていたが…」

「ああ、でかい熊のような魔物だった。危うく死ぬところだったよ」

巨熊との戦いは事実だ。それを話すことで、少しでも彼らの同情を買い、警戒心を薄めようという魂胆だった。

「熊だと!? そりゃあ、運が悪かったな。よく生きてたもんだ」

レイドが、驚いたように言った。

「ああ、本当に九死に一生を得た気分だ」

俺は、わざと疲れたような表情を作ってみせる。

その演技が功を奏したのか、ガルバスたちの俺に対する態度は、少しずつ軟化していった。


ザギだけは、まだ俺から目を離そうとしなかったが、それも時間の問題だろう。

夜はまだ長い。

彼らが眠りにつけば、チャンスは訪れる。

俺は、焚き火の暖かさに身を委ねながら、その時をじっと待つことにした。

心の中では、おぞましい計画が着々と進行しているというのに、俺の表情はあくまで穏やかさを装っていた。

この仮面の下にある、飢えた獣の本性を、彼らはまだ知らない。


「しかし、カイといったか。お前さん、見た目によらず腕が太いな。何か武術でもやっているのか?」

不意に、ガルバスが俺の腕をまじまじと見ながら言った。

人間を喰らったことで、俺の筋肉は以前よりも明らかに増強されている。

「…少しばかりな。護身のためだ」

「ほう。その剣も、なかなか年季が入っているようだが」

ガルバスの視線が、俺の腰の剣へと移る。

それは、ロナから譲り受けたものではない。戦場で拾った、ただの無骨な鉄の剣だ。

だが、今の俺にとっては、唯一の武器であり、そして獲物を屠るための道具でもある。

「…ただの安物だよ」

俺は素っ気なく答えた。あまり自分のことに興味を持たれるのは、得策ではない。


やがて、レイドが欠伸を漏らし始めた。

「ふああ…なんだか眠くなってきたぜ。なあ、ガルバス、そろそろ交代で見張りをするか?」

「そうだな。じゃあ、最初は俺とザギでいいか。レイド、お前は先に休んでろ。カイ、お前さんも疲れているだろう。横になるといい」

ガルバスの言葉に、俺は内心でほくそ笑んだ。

計画通りだ。

「…ああ、そうさせてもらう」

俺は、焚き火から少し離れた場所に横になり、目を閉じた。

もちろん、眠るつもりなど毛頭ない。

彼らが完全に油断し、眠りに落ちるその瞬間を、息を殺して待つだけだ。


どれほどの時間が経っただろうか。

焚き火のはぜる音と、レイドの寝息だけが聞こえてくる。

ガルバスとザギは、小声で何やら話しているようだが、その内容までは聞き取れない。

だが、それもやがて途絶え、辺りは完全な静寂に包まれた。

俺はゆっくりと目を開け、周囲の様子を窺う。

三人とも、どうやら眠りについたようだ。ザギでさえ、槍を抱えたまま舟を漕いでいる。

今だ。

これ以上の好機はない。


俺は、音もなく身体を起こした。

そして、抜き足差し足で、最も近くで眠っているレイドへと近づいていく。

彼は、子供のように無防備な寝顔を晒していた。

その首筋には、太い血管が青く浮き出ている。

そこに噛みつけば、きっと素晴らしい「ご馳走」にありつけるだろう。

俺の喉が、ゴクリと鳴った。

もう、我慢の限界だった。


俺は、レイドの口を素早く手で覆い、抵抗する間も与えずに、その首筋へと牙を立てた。

「んぐっ…!?」

レイドは短い呻き声を上げ、全身を痙攣させたが、すぐにその動きは止まった。

温かい血が、俺の口の中に流れ込んでくる。

美味い。今まで喰らったどの人間よりも、生命力に満ち溢れている。

夢中でその血肉を貪る。

力が、力が漲ってくる…!

ロナを喰らった時よりも、あの三人の男たちを喰らった時よりも、さらに強大な力が、俺の身体を満たしていく。

これだ。これこそが、俺が求めていたものだ!


レイドを喰らい終え、俺は次にザギへと向かった。

彼はまだ、眠りこけている。

哀れな男だ。最後まで俺を警戒していたというのに、その警戒心も、睡魔には勝てなかったらしい。

俺は、レイドの時と同じように、音もなくザギに近づき、その命を刈り取った。

二人分の人間の生命力を取り込み、俺の身体はもはや人間のものではない何かに変貌しつつあった。

筋肉はさらに膨張し、鎧が内側から裂けそうだ。

五感は極限まで研ぎ澄まされ、世界のあらゆる情報が、俺の脳内へと流れ込んでくる。

そして、あの黒いオーラ。巨熊を倒した時の、あの力が、再び俺の身体の奥底で胎動を始めているのを感じた。

まだだ。まだ足りない。

最後の一人、ガルバス。あいつを喰らえば、俺はさらに強くなれる。

そして、この黒いオーラを、完全にコントロールできるようになるかもしれない。


俺は、ガルバスが眠っている場所へと向かった。

彼は、リーダー格だけあって、他の二人よりも警戒心が強かったはずだ。

だが、今の俺の気配を察知することは、もはや不可能だろう。

俺は、既に人間の域を超越した存在なのだから。

ガルバスの寝顔は、意外なほど穏やかだった。

まるで、何の苦労もなく生きてきたかのように。

だが、それももう終わりだ。

俺が、その命を喰らい尽くしてやる。


ガルバスの首筋に手を伸ばした、その瞬間。

「…やはり、お前だったか、カイ」

不意に、ガルバスが目を開け、俺の名前を呼んだ。

その声は、眠りから覚めたばかりとは思えないほど、はっきりとしていた。

そして、その目には、恐怖も驚きもなかった。ただ、冷たい光だけが宿っている。

しまった…! こいつ、眠っていなかったのか!?

罠だ…!

俺は咄嗟に後方へ飛び退こうとしたが、遅かった。

ガルバスの身体から、凄まじい闘気が放たれ、俺の動きを封じ込める。

「なっ…!? この力は…!?」

ただの護衛ではない。こいつ、相当の手練れだ…!


「仲間を二人も喰らっておいて、まだ足りないか、化け物め」

ガルバスはゆっくりと身体を起こし、俺を睨みつけた。

その姿は、もはやただの傭兵ではない。

歴戦の戦士だけが持つ、研ぎ澄まされた殺気を放っている。

「なぜ…気づいていたのなら、なぜもっと早く…!」

「泳がせていただけだ。お前がどこまでやるのか、何者なのか、見極めるためにな」

ガルバスは、腰の剣をゆっくりと引き抜いた。

その剣身は、月明かりを反射し、不気味な光を放っている。

「だが、もういい。お前の正体は分かった。そして、お前のような存在を生かしておくわけにはいかない」

その言葉は、死刑宣告にも等しかった。


俺は、ギリリと歯を食いしばった。

油断していた。完全に、こいつの掌の上で踊らされていたのだ。

だが、まだ終わったわけではない。

俺は、二人分の人間を喰らい、以前とは比較にならないほどの力を得ている。

そして、あの黒いオーラも…

「…面白い。ならば、力尽くで喰らってやるまでだ」

俺は低く唸り、黒いオーラを全身から立ち昇らせた。

周囲の空気が、ビリビリと震えるのが分かる。

これが、俺の新たな力。

人間を喰らうことで得た、禁断の力。


ガルバスは、俺の異様な変化を見ても、全く動じる様子を見せなかった。

ただ、静かに剣を構え、俺の動きを待っている。

こいつ、本気で俺と戦うつもりか。

この、人間を超越した俺と。

愚かな。

だが、その油断が命取りになることを、すぐに教えてやる。

俺は、黒いオーラを纏った剣を握り締め、ガルバス目掛けて突進した。

この戦いで、俺はさらに強くなる。

そして、この世界の全てを喰らい尽くしてやる…!

そんな狂気に満ちた思考が、俺の頭を支配し始めていた。

もう、誰も俺を止めることはできない。

俺は、最強の捕食者なのだから。

ガルバスの剣が、俺の剣と激しく衝突する。

火花が散り、金属音が夜の森に響き渡った。

ここからが、本当の狩りの始まりだ。

どちらが喰うか、喰われるか。

その答えは、すぐに出るだろう。

俺は、勝利を確信していた。

この圧倒的な力の前に、ひれ伏さない者などいないのだから。

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