第2話
とある静かな午後だった。
雨は降っていないのに、どこか世界がくぐもっているような、やわらかい曇りの日。
リュカは窓辺の椅子に腰かけて、一冊の絵本を膝に乗せていた。
長くはない物語。
小さな村に迷い込んだ蝶の話で、表紙には可愛らしい挿絵が描かれている。
ページをめくるたび、紙の音が静かに部屋に響く。
その音に引かれるようにして、テアがふらりと歩み寄ってきた。
彼女は、何も言わず、隣にちょこんと座る。
その小さな姿にちらりと視線を向けて微笑んだ。
「おはよう、テア。」
テアは無言のまま、彼の手元の本を覗き込む。
ページの中央には、白い蝶が描かれていた。
しばらくの間、テアはただじっと絵を見ていたが――やがて、小さく指を動かして、蝶の羽をそっとなぞった。
その手つきはとても慎重で、まるで本当に生きているものに触れるようだった。
「これ、気になる?」
リュカが問いかけると、テアはほんの少しだけ首を傾げる。
肯定か否定かもわからない、でも、たしかにそこに興味があるという“気配”。
リュカは小さく笑って、ページを戻した。
「これはね……ある日、小さな蝶が森を抜けて、村にたどり着くところから始まるんだ。」
「この蝶はね、旅をしてるんだって。誰かのそばにふわりと寄って……また、風に乗って消えていく。」
静かに語りながら、物語をなぞっていく。
テアはときどき指先で挿絵に触れたり、紙の端に手を置いたりしながら、それを聞いていた。
言葉はなくても、その姿がすべてを語っていた。
彼女は“聞いている”。
物語のなかの蝶と、その風景と、そしてリュカの声を。
物語の最後、蝶は風に乗って空へ舞い上がり、森へ帰っていく。
そのページを見つめていたテアは、そっと手のひらをその蝶の絵の上に重ねた。
「飛んで行っちゃったね」
と、リュカが小さく呟くと――
テアは一瞬、彼のほうを見て、それから小さく瞬きをした。
まるで「うん」と言っているように。
その仕草に、リュカの胸がやわらかく満たされる。
静かな午後、曇り空のもと。
言葉よりも、ずっと静かで、ずっとあたたかな会話が、確かにそこにあった。
お昼になり、リュカがキッチンで野菜を刻んでいると、そっと足音もなく現れて、テアが隣に立った。
無言のまま、彼の手元をじっと見つめている。
リュカは少しだけ笑って、差し出す。
「これ、じゃがいも。皮むき、できるかな?」
テアはうなずくわけでもなく、ただ受け取って、見よう見まねで手を動かす。
でも、うまくむけなくて、リュカが少し手を添える。
そんなふうにして、ほんの少しずつ、「ふたりで料理する時間」が日常になっていく。
「そうだ、テア、明日散歩に行こう。近くにいい場所があるんだ。」
その一言から始まるテアの初めてのお散歩。
静かに風が吹いた。
春の香りがかすかに混じる、柔らかな空気。
小道の脇に咲く白い花を見つけたリュカが、ふと足を止める。
「この時期になるとね、この辺りに小さな白い花が咲くんだ。とても香りがよくて……それを嗅ぐと、不思議と安心するんだよ。」
テアはその声に導かれるように、小さな花を見下ろした。
風に揺れるそれを、じっと、何かを確かめるように見つめる。
やがて、花に顔を近づけて、ひとつ、深く息を吸い込む。
リュカはそんなテアの様子を、優しい目で見守っていた。
キョロキョロとあたりを見回す彼女に、道端の木の名前を教えてみたり、鳥の声を聞きながら笑ってみたり。
ほんのひとときの、静かな春の散歩。
リュカの中にあるあたたかい記憶が、テアにもゆっくりと刻まれていくようだった。
数ある絵本の中でテアがとりわけ反応が良かったサーカスに連れて行こうと思ったのは昨日の夜の事。
テアを連れて初めてサーカス団を訪れたのは、空が茜色に染まりはじめた夕暮れだった。
ふとリュカは隣を歩く少女を見やる。
テアは無表情のまま、けれど確かにその歩幅はほんの少しだけ早くなっていた。
小高い丘の上に、まるで蜃気楼のように建つ大きな天幕。
風にたなびく布、色褪せた旗、仄かに響く音楽の気配。それらは、現実の境界を滲ませていくようだった。
やがて開演の合図。
会場が静まり返り、光が消える。闇の中、天幕の中心にひとすじの光が射す。
それは天から降る糸のように布を照らし、ふわりと浮かび上がった瞬間、光と煙と影が一斉に踊り出した。
―それはまるで夢の断片が、現実のすぐ隣で息をしているようだった。
テアが、息を呑んだ。
大きく見開いた瞳が、舞台の煌めきをそのまま映して、きらきらと揺れる。
リュカはその横顔を見つめていた。
それはたぶん、まだ「感情」と呼べるものではない。
けれど、確かに今、彼女の心が──“揺れた”。
天幕を出た頃には、すっかり夜が降りていた。
空にはいくつもの星が瞬き、風は昼よりも冷たくなっていたけれど、テアの足取りはどこか軽やかだった。
無言のまま、けれど少しだけ顔を上げ、空を見ていた。
「……綺麗だった?」
小さな問いかけに、彼女はしばらく黙っていた。
答えを探すように、まつげがそっと揺れる。
やがて、ほんの少しだけ、唇の端が上がった。
微笑みというにはあまりにかすかで、けれど確かにそれは、テアが誰かに向けて見せた“初めての表情”だった。
「……うん。」
それは実際音にはなってはいない。
それでもリュカにはそう聞こえた気がした。
胸の奥が、ふと温かくなる。
テアの視線はまだ夜空の先を見ていた。
けれど、その手がすっと、リュカの袖を掴んだ。
ほんのわずかな、重なったぬくもり。
言葉のない感情が、そこに確かに息づいていた。
家に着く頃には、街の灯もまばらになっていた。
「お風呂、先に入っていいよ。」
リュカはそう言って、いつものように微笑んだ。
テアが浴室へ向かうのを見届けてから、ふうっと、息をつく。
玄関脇の椅子に腰を下ろすと、背中が壁に沈んでいくような感覚。
視界が揺れて、額に触れた手が熱を感じた。
「……ちょっと、最近張り切りすぎたかな。」
ぽつりと零した言葉は、誰に向けるでもない。
テアに心配させたくなくて、帰り道はいつも通りを装っていた。
でも本当は、出かける前から微熱があった。
熱に浮かされたような身体を、今日はどうしても止められなかった。
あの子が初めて笑った。
あの瞬間を、一緒に見たかった。それだけだった。
瞼がゆっくりと重くなる。
遠くで水の音が聞こえた。
きっと、テアが湯に浸かった音だろう。
その音を子守唄のように聞きながら、そっと目を閉じた。
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