第2章:サンジェルマンの影、残されたノクターンと暗号(シーニュ)

 エリアーヌ・ド・ヴァロワ教授の失踪事件は、パリのメディアを賑わせ、様々な憶測を呼んでいた。天才数学者の突然の失踪、難解な最新理論、そして謎の暗号が記された研究ノート――。それは、ミステリー小説の題材としては格好の要素が揃っていたが、現実の捜査は難航を極めていた。


 ソフィーは、いてもたってもいられず、エリアーヌ教授が住んでいたというサンジェルマン・デ・プレ地区のアパルトマンの周辺を、一人で訪れてみることにした。


 そこは、セーヌ川左岸に位置し、古くから多くの芸術家や知識人たちが集った、パリで最も洗練された地区の一つだ。石畳の細い路地、歴史を感じさせる建物、そしてお洒落なカフェやブティックが軒を連ねている。


 今日のソフィーは、ネイビーのトレンチコートに、細身のジーンズ、そして歩きやすいレザーのショートブーツという、パリジェンヌらしい活動的な装いだ。首元には、母の形見である銀のロケットペンダントが、コートの下で微かな温もりを伝えている。彼女は、無意識のうちに、そのペンダントを握りしめながら、エリアーヌの気配を探すように、ゆっくりと街を歩いた。


 エリアーヌのアパルトマンは、リュクサンブール公園に近い、静かな通りに面した、美しいオスマン様式の建物だった。警察の黄色い規制線が張られ、入り口には制服警官が立っている。ソフィーは、遠巻きにその建物を見上げながら、エリアーヌがここで、どんな生活を送り、そして何を考えていたのだろうか、と思いを馳せた。


 彼女は、アパルトマンの向かいにある、小さなカフェに入り、一杯のエスプレッソを注文した。窓際の席に座り、ノートを取り出して、THC理論の論文の冒頭部分を改めて読み返す。何度読んでも、その深遠さと独創性には圧倒されるばかりだ。


「……異なる宇宙は、それぞれ固有の『振動数』を持ち、それらが特定の『共鳴点』において調和する時、新たな数学的構造が生成される……」


 ソフィーは、その一節を指でなぞりながら、ふと、エリアーヌが音楽を愛していたという噂を思い出した。彼女は、特にバッハの対位法音楽に深い造詣があり、その複雑な構造の中に、宇宙の調和の雛形を見出していたという。THC理論の「振動数」や「共鳴点」といった概念は、もしかしたら、音楽のアナロジーから生まれたものなのかもしれない。


 その時、カフェの古びたスピーカーから、美しいピアノの旋律が流れ始めた。それは、ショパンのノクターン。切なく、そして甘美な調べが、雨上がりのパリの午後に、静かに溶け込んでいく。ソフィーは、その音楽に耳を澄ませながら、エリアーヌもまた、このカフェで、同じようにコーヒーを飲み、この音楽を聴いていたかもしれない、と想像した。


「……失礼、お隣、よろしいかしら?」


 不意に、低い、落ち着いた声が聞こえ、ソフィーは驚いて顔を上げた。そこに立っていたのは、ジュリアン・ルメール警視、その人だった。彼は、私服姿で、ダークグレーのチェスターコートを颯爽と着こなし、その手には、ソフィーが見ていたのと同じ、エリアーヌのTHC理論の論文のコピーが握られていた。


「ルメール警視……!?」


「やあ、ベルナールさん。奇遇だね。君も、エリアーヌ教授の足跡を追って、ここまで来たのか」


 ジュリアンは、ソフィーの向かいの席に腰を下ろしながら、少し皮肉な笑みを浮かべた。


「それとも、何か、我々警察よりも先に、重要な手がかりでも見つけたのかな?」


 ジュリアンの青い瞳は、まるでソフィーの心の内を見透かすように、鋭く、そして探るような光を放っていた。ソフィーは、彼のその視線に、少し居心地の悪さを感じながらも、毅然とした態度で答えた。


「……私は、ただ、エリアーヌ先生が、どんな環境で、あのような素晴らしい理論を生み出されたのか、それを知りたかっただけです。先生の失踪事件の捜査に、首を突っ込むつもりはありません」


「ほう、素晴らしい理論、ね」


 ジュリアンは、手にしていた論文のコピーを、テーブルの上に置いた。


「失礼ながら、私には、この論文のどこが素晴らしいのか、皆目見当もつかないがね。むしろ、これは、極めて論理的整合性を欠いた、一種の……そう、数学的幻想ファンタジーのようにさえ思える。エリアーヌ教授は、もしかしたら、ご自身の創造したこの幻想の世界に、あまりにも深く入り込みすぎて、現実との境界を見失ってしまったのかもしれないな」


 ジュリアンの言葉は、冷徹で、そして辛辣だった。しかし、そこには、エリアーヌの才能に対する、ある種の戸惑いや、理解できないものへの苛立ちのような感情も、微かに混じっているようにソフィーには感じられた。


「……先生は、幻想など描いていません」


 ソフィーは、静かに反論した。


「先生は、ただ、私たちにはまだ見えない、新しい宇宙の真理を、指し示そうとされただけです。その言葉が、あまりにも斬新で、私たちの理解を超えているからといって、それを幻想と決めつけるのは、あまりにも早計ではありませんか?」


「ふん、相変わらず、エリアーヌ教授の熱烈な信奉者ですね、貴女は」


 ジュリアンは、面白そうにソフィーの顔を見つめた。


「だが、ベルナールさん、我々警察は、幻想ではなく、事実に基づいて捜査を進めなければならない。そして、現時点での事実は、エリアーヌ教授が、何の前触れもなく、姿を消したということ。そして、彼女の部屋に残されていたのは、この難解な論文と、さらに難解な暗号が記されたノートだけだということだ」


 ジュリアンは、そう言うと、内ポケットから、一枚の写真を取り出し、ソフィーの前に置いた。それは、エリアーヌの研究ノートの一部を撮影したもののようだった。そこには、THC理論の数式に混じって、いくつかの奇妙な記号や、楽譜の断片のようなものが、走り書きで記されていた。


「……これは……」


 ソフィーは、その写真に見入った。特に、楽譜の断片は、彼女の心を強く捉えた。それは、バッハのゴールドベルク変奏曲の、アリアの一部のように見えた。エリアーヌは、この曲に、何か特別な意味を見出していたのだろうか?


「我々の専門家チームも、この暗号の解読を試みているが、今のところ、有力な手がかりは見つかっていない」


 ジュリアンは、ソフィーの反応を観察するように言った。


「君は、数学の専門家だ。そして、エリアーヌ教授の理論にも、誰よりも精通している。何か、気づくことはないかね?」


 ジュリアンの言葉は、挑発的でありながら、同時に、ソフィーの数学的才能に対する、ある種の期待を込めているようにも聞こえた。ソフィーは、しばらくの間、写真の暗号と、頭の中のTHC理論の知識を、必死に結びつけようとした。


「……この楽譜……そして、この記号の配置……。もしかしたら、エリアーヌ先生は、THC理論の特定の概念を、音楽の構造や、あるいは……何らかの幾何学的なパターンに、置き換えて表現しようとしたのかもしれません……。そして、そのパターン自体が、何か別のメッセージを、示している……?」


 ソフィーの頭の中で、いくつかのアイデアが、星屑のようにきらめき始めた。まだ、明確な形にはなっていないが、それは、確かに、何か重要な手がかりへと繋がる、微かな光のように思えた。


「……面白い仮説だな」


 ジュリアンは、ソフィーの言葉に、初めて、ほんの少しだけ興味を示したような表情を見せた。


「だが、それが具体的に何を意味するのか、君は説明できるのかね?」


「いえ……まだ、そこまでは……。でも、もう少し時間があれば、何か分かるかもしれません」


「そうか……。まあ、もし何か気づいたことがあれば、遠慮なく、私に連絡してくれたまえ。君のその……数学的直感とやらは、我々の捜査の、意外な突破口になるかもしれないからな」


 ジュリアンは、そう言うと、エスプレッソの代金をテーブルに置き、颯爽とカフェを後にした。


 一人残されたソフィーは、ジュリアンが置いていった写真のコピーを、改めてじっと見つめた。サンジェルマンの影、そして、そこに残された、謎の旋律(メロディ)。エリアーヌ・ド・ヴァロワは、一体何を、この暗号に託そうとしたのだろうか。


 カフェのスピーカーからは、依然として、ショパンのノクターンが、切なく流れ続けていた。ソフィーは、その旋律の中に、エリアーヌの孤独な魂の響きを、聴き取ったような気がした。そして、その響きに導かれるように、彼女は、この難解な数学的ミステリーの、深淵へと、さらに一歩、足を踏み入れる決意を固めるのだった。

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