【SF短編小説】サンジェルマンの暗号 ~調和宇宙(コズミック・ハーモニー)の失踪~
藍埜佑(あいのたすく)
第1部:消えた星、パリの謎(パズル)~エリアーヌの挑戦状~
第1章:ソルボンヌの彗星、失踪した調和(ハーモニー)
パリの空が、薄墨色の雲に覆われた初春のある朝。
ソルボンヌ大学の数学科研究棟、その一室で、ソフィー・ベルナールは、淹れたてのカフェ・クレームの温かい湯気に、そっと溜息を混ぜた。芳醇なコーヒーとミルクの香りが、数日来の寝不足で重くなった頭を、わずかに覚醒させてくれる。窓の外には、雨に濡れたカルチエ・ラタンの石畳が、鈍い光を反射していた。
彼女の視線の先、オーク材の重厚なデスクの上には、一枚の論文が、まるで不吉な預言の書のように置かれていた。
タイトルは、『調和宇宙の定理(Theoreme de l'Harmonie Cosmique, THC)とその数論的構造への応用』。著者、エリアーヌ・ド・ヴァロワ。
その名は、現代フランス数学界、いや世界の数学界において、畏敬と、それ以上の不可解さをもって語られる、孤高にして伝説的な天才のものだった。
数週間前、この論文が国際的な学術ジャーナルのオンライン速報版に掲載された瞬間から、数学という静謐なる知の海は、未曾有の大嵐に見舞われた。数百ページに及ぶその論文は、既存の数学のパラダイムを根底から覆すような、あまりにも斬新で、そして難解な概念と記号で埋め尽くされていた。
それは、まるで失われた古代文明の叡智が、突然現代に蘇ったかのような、圧倒的な異質さを放っていた。
しかし、それ以上に世界を震撼させたのは、論文発表の数日後、エリアーヌ・ド・ヴァロワ教授が、パリ・サンジェルマンのアパルトマンから、忽然と姿を消したというニュースだった。
警察は、あらゆる可能性を視野に捜査を開始したが、彼女の行方は杳として知れず、事件は謎に包まれたままだった。
ソフィーは、ソルボンヌ大学の博士課程に籍を置く、若き数学の徒。
そして、エリアーヌ・ド・ヴァロワは、彼女が密かに敬愛し、その背中を追い続けてきた、遠い星のような存在だった。エリアーヌの論文は、ソフィーにとって、あまりにも巨大で、近づき難い山脈のようであったが、それでもなお、その頂きに秘められた風景を一目見たいという、抗いがたい渇望を掻き立てるものだった。
「……調和宇宙……Harmonie Cosmique……」
ソフィーは、その言葉をフランス語で囁いた。
それは一体、何を意味するのだろう。エリアーヌは、この論文で、宇宙の根源的な構造と、そこに潜む「調和」の法則を、数学的に記述しようとしたのだろうか。そして、その探求の果てに、彼女は何を見、そしてなぜ姿を消さなければならなかったのか。
ソフィーは、首にかけていたアンティークの銀のロケットペンダントに、無意識に指で触れた。
それは、幼い頃に亡くした母の形見で、中には両親の小さな写真が収められている。
数学という孤独な探求の道で、このロケットは、彼女にとって心の拠り所であり、母の温もりを感じさせてくれる唯一の絆だった。今日の彼女は、シンプルな黒のタートルネックセーターに、グレーのツイードのパンツという、パリジェンヌらしいシックな装いだ。髪は、艶やかなブルネットのボブで、知的な印象を与える。唇には、ほんのりプラム色のマットなリップを引いていた。
不意に、ソフィーのスマートフォンの着信音が、静寂を破った。ディスプレイには、親友のクロエ・マルタンの名前が表示されている。
「ソフィー! 大変よ! 今すぐテレビをつけて!」
電話の向こうから聞こえてくるクロエの興奮した声に、ソフィーは眉をひそめた。クロエは、ソルボンヌ大学のジャーナリズム学科に在籍し、将来は国際的な調査報道記者になることを夢見ている、行動力と好奇心の塊のような女性だ。肩まで伸びた赤毛を無造作に束ね、いつもカメラと取材ノートを片手に、パリ中を駆け回っている。
「クロエ、どうしたの、そんなに慌てて。また何かスクープでも見つけたの?」
「スクープどころじゃないわよ! エリアーヌ・ド・ヴァロワ教授の失踪事件、新しい展開よ! 警察が、何か重大な証拠を見つけたって、今、ニュースで……!」
「えっ……!?」
ソフィーは、慌てて研究室の隅に置かれた古いテレビのスイッチを入れた。画面には、パリ警視庁の前で、大勢の報道陣に囲まれて記者会見を行う、一人の若い男性の姿が映し出されていた。ジュリアン・ルメール警視。今回の事件の捜査指揮を執る、エリート中のエリートとして知られる人物だ。彼は、非の打ち所のない仕立てのスーツに身を包み、怜悧な青い瞳で、冷静に報道陣の質問に答えていた。
「……本日、我々は、エリアーヌ・ド・ヴァロワ教授のアパルトマンから、彼女が失踪直前まで執筆していたと思われる、一冊の研究ノートを発見しました。ノートには、THC理論に関する記述に加え、いくつかの不可解な暗号や記号が記されており、現在、専門家による解読作業を進めています。我々は、このノートが、教授の失踪の謎を解く、重要な鍵となると考えています……」
研究ノート……暗号……。
ソフィーの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。エリアーヌは、一体何を、そのノートに書き残したというのだろうか。
「ソフィー、聞いた!?」
クロエの声が、再び電話の向こうから響いた。
「これって、絶対、何かあるわよ! THC理論と、エリアーヌ教授の失踪は、間違いなく繋がってる! 私たちで、この謎を解き明かしましょうよ!」
クロエの言葉は、いつもながら突拍子もなかったが、ソフィーの心の奥底に眠っていた、冒険心と探究心に、火をつけた。エリアーヌ・ド・ヴァロワの失踪は、単なる個人的な事件ではない。それは、彼女が生み出したTHCという、人類の知のフロンティアに関わる、壮大な
「……クロエ……。私、やってみるわ」
ソフィーは、静かだが、確かな決意を込めた声で言った。
「エリアーヌ先生が残した、この『調和宇宙の定理』の真の意味を、そして、先生が姿を消した本当の理由を……この手で、突き止めてみせる」
ソフィーの瞳には、数学という論理の光と、ミステリーという未知の闇が交錯する、新たな挑戦への強い意志が宿っていた。しかし、それはあまりにも巨大な山脈への挑戦であることは、彼女自身にも痛いほどわかっていた。
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲間から、弱々しいながらも、確かな太陽の光が差し込み始めていた。それは、まるで、これから始まる、ソフィーの長く、そして困難な謎解きの旅を、静かに照らし出す、天からの啓示のようにも見えた。
ソルボンヌの彗星、エリアーヌ・ド・ヴァロワ。彼女が残した最後の
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