第六節 生きてるから、みんなそれをする

第六節 生きてるから、みんなそれをする



 シチュー皿にスプーンを放った玲子は、顔をしかめて言った。


「……まっず! なにこれ」


 お気に入りのエナジードリンクをがぼがぼと飲んでから、蒼司が作ってくれたシチューを口直しに食べた。


「なんなの、この天と地ほどの差は」

「わからない。なんでうまく出来ないんだろう」


 午後九時を過ぎている。

 雑多な部屋の食卓には、ふたつのシチューが並んでいる。

 おいしいシチューとまずいシチューだ。

 玲子はスプーンで詩乃が作ったシチューを示しながら。


「空腹は最高の調味料とか言うけどさ、あんたの作ったこれは、そんな調味料を駆使しても食えたもんじゃないよ」

「とても腹が立つことを言われているのはわかるけど、その通りだから怒れない」

「見てごらんよ。あんたが遅く帰って来たかと思ったら料理するとか言い出して――キッチンがめちゃくちゃ」


 まな板に刃物に鍋に……。

 小さなシンクに洗い物が山のように積まれている。


「あれ、ちゃんと片付けなさいよ」


 玲子の指摘にこっくりと詩乃は頷いた。

 刃物で野菜を切る事なんてしたことがないので、詩乃の手指には小さな切り傷がたくさんできている。


「こんなシチューなら、コンビニ弁当のがマシね」


 玲子は蒼司が作ってくれたおいしいシチューを口に運ぶ。


「こんなうまいシチューなんて簡単に作れるもんじゃないんだから、諦めなって」


 皿を傾けて一気食いして、玲子は「ごちそーさん」と立ち去ってしまった。

 誰が作ったものともわからない料理を食べているじゃないか、と言いたかったが……それ以上に作ったシチューがまずいと言われて悲しかった。

 残ってしまったシチューをシンクに流していると胸がキュッとした。


「どうして、うまく出来なかったんだろう」


 ぽつりとつぶやいてから。


「あした、蒼司に相談してみよう」


 身近に最高の先生がいることに気づき、ちょっとだけ明日が楽しみになった。



* *



 体育館裏に呼び出された蒼司は、田島崇央を筆頭とした男子生徒に取り囲まれていた。

 肩をど突かれて「うわっ!」と尻もちをついた蒼司は、憎々し気に田島を見上げている。


「おまえさ、最近は結構楽しそうじゃん?」

「いいだろ、別に!」


 蒼司が強がるとまわりの男子生徒たちがくすくすと笑った。

 田島は肩を寄せて大きなため息をついてから。


「自分の状況があんまりわかってないみたいだな。俺らのクラウドストレージにどんな動画あるのか、知ってるだろ?」

「……。」

「あんなシコい動画を見ず知らずの女の子に送っちまうような男なんだから、もっと自分を見つめなおした方がいいぜ。まるで理性のない猿みたいな顔してたからな」


 ぐっと押し黙る蒼司の表情に気をよくしたのか、田島はほかの面々に「なあ?」と同意を求めた。


「最近、綾垣さんといい具合になってるじゃねえか。俺を蹴散らして、お近づきになったのか? あァ?」

「違うよ。そんなんじゃない」

「どちらにしても、仲人料が発生する。三万ぐらい払え」

「そんなお金ないよ」

「ないんだったら作って来いよ。俺ら、みんなでメシ行ったりカラオケ行ったり、忙しいんだから」


 胸倉をつかまれて引きずりあげられた蒼司は「よせよ!」と抵抗するが、田島の腕を振り払うことはできなかった。


「わかってるんだよ。おまえは綾垣さんに惚れてる。優しくしてもらいたいって思ってるんだろ。あの猿みたいな顔して、綾垣さんでシコい事をしてるわけだ。いいか、忘れるなよ。俺らがその気になれば、あの動画を綾垣さんに送って――うぐっ!」


 じたばたと暴れる蒼司の拳が、不運にも田島の頬を強く打った。

 頭をぐわりと揺らした田島は「てんめえ……」と怒りをあらわにして、力任せに蒼司を体育館の壁に投げつけた。


「うわっ!」


 建物の壁に背中を打ったらしい蒼司は、そのまま地面に倒れ込んだ。

 男子生徒たちが蒼司を取り囲んで「こいつ、マジになりやがった」「崇央を殴ったら、そりゃよくねえよ」と意見を口にしている。

 田島は怒りに頬を赤くして。


「おまえ、マジで腹立つ奴だな。女みたいな男のくせに、俺の事を殴っ――がああっ!」


 背後から膝の裏を蹴られた田島は、蒼司の脇に倒れ込んだ。

 騒ぎの一部始終を見ていた詩乃は何事もなかったかのように蒼司のもとへ歩み寄った。


「聞きたいことがあるから、来てほしい。彼らとの用事は、もう済んだ?」


 蒼司は当惑に顔を白くしていた。

 まわりの男子連中は、田島の「がああああっ、いあああああってえええ!!!」という呻きに狼狽している。

 膝の裏を足の裏で蹴った。

 膝窩部(しつかぶ)と呼ばれる、太腿とふくらはぎの間――膝の曲がる内側の窪みを足の裏で蹴打したのだ。靴を履いていることも考慮して、だいぶ軽く蹴ったつもりだったが……田島は盛大に悲鳴を上げて転がっている。

 詩乃は蒼司に手を差し伸べて、彼を立ち上がらせる。

 まわりの男子連中が「お、おい……」と詩乃に声をかけてきた。


「まだ蒼司に用事がある?」

「あ、いや……」

「なら、彼を連れていく。別に用事があるなら、明日にしてほしい」


 そう言って詩乃は男子の輪から蒼司を連れ出した。

 田島を慕っている男子生徒のひとりが「びょ、病院に連れて行った方が……」と言った。


「心配しなくていい。ちょっと痛いだけ。すぐに治る」


 本気を出せば靭帯も半月板も壊せた。

 けれども詩乃は『絶対にクラスメイトを壊さない』と決めていた。

 蒼司を連れて歩き出したとき、田島が叫んだ。


「おおおいっ、逃がすんじゃねえよ! 蒼司を捕まえろって……いってえええ――!!!」


 ごろんごろんと地面を転がりながら彼が言った。

 まわりの男子連中が躍りかかってくるかもしれないと詩乃は拳を固めたが、それよりも早く蒼司が「逃げるから!」と腕を引っ張られた。

 蒼司に連れられて詩乃は走った。

 渡り廊下から学校の建物に入って、階段を駆け上がって、人気の少ない理科準備室と音楽準備室の前までやってきた。

 蒼司は廊下にごろんと寝転がって「ハァハァ……」と荒く息を乱していた。

 まったく呼吸を乱していない詩乃が蒼司をジッと見下ろしている。


「助けてくれて、ありがとう……」


 彼はそう言って、なぜだか涙を流した。


「どうして、泣いているの?」

「泣くよ。だって、こんなふうに女の子に助けてもらうって、なんだよ」

「救助に男女もない」

「そうじゃなくって……。そうじゃないんだよ……」


 蒼司は壁際に背を持たせて座り込む。

 詩乃ははす向かいにしゃがみこんだ。


「前にも聞いたけど、なぜ袋叩きにされる?」

「袋叩きって……まあ、間違っちゃいないけど」

「わたしは蒼司が袋叩きにされる理由が知りたい。解決するには、理由を知らなくちゃいけない」


 詩乃は勇気を出して、彼の問題に踏み込んだ。

 どうしてそんなことをしたのか、よくわかっていない。

 彼がいつも辛そうな顔をしているのを……見たくなかった。

 蒼司は「そうだよね」と膝を抱えた。


「さっきのやりとり。どこから聞いてたの」

「けっこう、最初から」


 うん、と蒼司は頷いて「料理する男って、気持ち悪いだろ?」と聞いてきた。

 詩乃はしばし考えた。


「そうは思わない。蒼司の料理はおいしいし、わたしは好き」


 正直に答えたつもりだった。

 彼は少しだけ表情を明るくしてから。


「ありがとう。でもね、きっと詩乃は僕を軽蔑するよ」

「なぜ――?」

「僕は田島に最低な動画を握られてるんだ」

「……最低な動画。意味がよくわからない」


 すると蒼司はぐずぐずと鼻を鳴らして、涙を見せた。


「マッチングアプリでさ、地域で会える女の子を探したんだ。そしたら、すごく気の合うような子がいて……。その子とえっちな動画を送りあおうって話になって、送ったんだ。馬鹿だろう。幻滅するだろ?」

「……。」

「バカだったんだ。相手が女の子じゃなくて、田島だって気づいたときには……もう動画を送ったあとでさ――。あいつら、女みたいな僕でも『そういうこと』するんだなって笑って……。動画をバラまかれたくなかったら、金を出せとか言われるようになったんだ」

「そういうことって?」

「あの、そこをあんまり深掘りしないで……」


 蒼司は頬を真っ赤にして「ごめん、引くよね」と呻いた。

 彼のおかれている環境を理解しようと詩乃は頑張って頭を働かせた。

 マッチングアプリで異性の友達を見つけたが、それは田島だった。田島に『そういうこと』の動画を送った。すると金を要求され、暴力を受けるようになった。


「蒼司、わたしにはわからない」

「どこが、わからないの?」

「『そういうこと』をするとクラスメイトにお金を請求されたり、袋叩きにあうところ。普通は逆だと思う。『そういうこと』を見せるとお金がもらえる」

「そ、それは……女の子の場合じゃないの!? しかも、それもよくない事だよ」


 詩乃はうまく理解できなかった。


「悪い事じゃない」

「悪い事だよ。弱みを握られてるんだ」

「でも、自然なこと。男性が女性に興奮すること、自然なことでしょ」

「そうかもしれないけど……」

「わたしには、ない」


 えっ、と蒼司が詩乃を見つめた。

 詩乃は頷く。

 欲しかったこと。


「眠ること、異性に恋して興奮すること。それと食べること。みんなやる。生きてるから、みんなそれをする。お金を請求されることでも、弱みでもない」


 彼は当惑していた。

 けれども、その悩みが詩乃にとっては『羨ましい』ものだった。


「わたしには、ないから。だから、蒼司が『食べることの楽しさ』を教えてくれたのが嬉しかった」


 詩乃はそう言って立ち上がり、膝を抱える蒼司の隣に座りなおした。


「あっ、あのっ……」

「おいしいって思えること、なかった。別に、蒼司が自涜してる姿の動画を見ても、わたしはなにも思わないと思う。だから悲しい顔をしないでほしい。わたしはその程度で蒼司を嫌いにならない。むしろ、料理を教えないと言われる方が、つらい」


 体育館裏で転がされた蒼司の手は、少し砂で汚れていた。

 そんな手を詩乃はそっと握ってあげて。


「シチューを教えて。昨日、うまくできなかったから、間違っているところを教えてほしい」

「で、でも……僕は――」

「行こう、はやく。夕食が遅くなると、また面倒ごとが起こる」


 今度は詩乃がぐいと蒼司を引っ張った。

 早く帰ってシチューを作り、玲子に食べさせなくてはいけない。


 詩乃だって『おいしい料理』を作ることができることを証明したかった。

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