第一章

第一節 雨の誕生日

第一節 雨の誕生日



 その日は、珍しく大東亜気象台の予報が外れた。つまり気象庁も予報を外したわけだ。


 午前中の陽射しは失せ、バスの窓を打つ雨脚が心なしか強くなった気がする。

 大東亜戦争が1942年に終結してから、かれこれ100年が経つ。長きに渡って満州の気象観測を担ってきた旧軍の関東局気象台が、今日も予報を的中させてしまうところが……なんとも嫌味なところだ。

 奉天の市街で買ったビニール傘からしずくが落ちる。

 天候は崩れたが、五十嵐慧(いがらし けい)の気持ちは軽やかだった。

 仕事は定時に終わり、約束の時間までに自宅へ帰れる。

 妻の里穂が予約したという『エーデンハーヴン』のデコレーションケーキが、いささか不安ではある。新京郊外に開店したというスカンジナビア系の焼き菓子店で『楽園の港』と直訳できる。カルダモン入りのシナモンロールが名物だと妻は話していた。

 今日は誕生日ケーキを予約しているはずだから、シナモンロールが冷蔵庫から登場することはないだろうが……一抹の不安がある。

 なぜなら、五十嵐慧はシナモンが苦手だからだ。

 リビングのソファでスマホを眺めながら「あーっ、見てみて! 新しいお店だって。うわっ、すっご……。これ、おいしそーっ!」と眼を輝かせていた里穂の姿が、いまも瞼の裏に浮かんでくる。

 彼女は「ねえ、葉(よう)の誕生日がもうすぐでしょ? そのときのケーキって、ここで頼んじゃおうか?」と提案してきた。

 慧は乗り気ではなかった。


「誕生日ケーキって、まだ葉は五歳だぞ。そんな大人っぽい味のケーキじゃなくて、駅前のデパートでいいんじゃないのか?」

「もー、慧はわかってないなァ! こういうのはね、わたしに任せときなさいって!」


 里穂のうきうきした顔を思い出すと不安がありながらも、微笑ましい気持ちになる。

 さて、彼女がどんなケーキを用意してきたのか……。

 雨がひどく窓を打ち始めた。

 バスは新奉天市の第三住宅区である『花影台』に停車した。

 新たに再開発された住宅街で、二階建て、三階建ての住宅がひっそりと雨のなかに佇んでいる。駐車場があり、庭があり、人々の生活がある。

 傘を差し、心なしか軽やかな足取りで慧は三年前に購入した自宅に向かっていた。

 今年から私立の日本人学校へ通っている葉は、最初こそ学校へ行きたくないとランドセルを放り投げていたが、いまでは友達も出来て楽しく通ってくれている。


 葉が、またひとつ――年を重ねる。


 自分の子どもが成長するというのは、代えがたい幸福を与えてくれるのだと知った。

 慧は大変ながらも幸せな生活を花影台で送っていた。葉という可愛くて仕方のない太陽を中心に。



 自宅の前に差し掛かったとき、五十嵐慧は歩調を止めた。

 背の高い、スーツ姿の男がビニール傘をさして自宅の門の前で佇んでいた。

 彼は背を向けていたが、慧の気配に気づいたのか……ゆっくりと振り返る。

 見たことのない男だった。

 慧は警戒しながらも自宅へと再び歩み出す。

 彼は無言のまま慧を見るともなく見つめながら、一歩も動かなかった。

 そして慧が自宅の門の前に至ったとき……背の高い白人の男は「五十嵐さん?」と英語で問いかけてきた。


 慧はなにも答えなかった。


 お互いのビニール傘から、大粒のしずくが夏の汗のように流れ落ちる。

 白人の男は右手に傘を、左手にケーキの箱を手にしていた。

 息が詰まった。

 けれども、緊張や焦燥を悟られないよう気を引き締める。

 男は言った。


「息子さんの誕生日とは、不運な雨だ。今年はあまり祝う気にはならんでしょうな」

「どういう意味でしょうか」

「いまは日満未来学術協会の特別研究員ときた。いい再就職先を見つけたもんだな」


 この一言に疑念は確信に変わり、不安は恐怖と怒りに震えた。

 傘を持つ袖を濡らしながら、彼は──ロシアの詩を諳んじるように言葉を継いだ。


「奥さんは戦略管制部付だが、よく話を聞けば後方情報支援課だったそうじゃないか。朝霞での勤務が長かったのに、なぜ満州へ? あんたの都合か?」

「おまえ……」

「まあ、そう気を悪くしないでくれ。ここにケーキもある。それにこんな雨の日だ。外で立ち話もなんだし、なかで話そう」


 彼はそう言って五十嵐の自宅を得意げに示した。

 自宅はなんら変わらない、いつもの外観をしている。それなのに、まがまがしい地獄の入り口に見えた。

 男は言った。


「飼い犬がいるんだろう? そいつはどうした」

「……。」

「まあいい。そのあたりもゆっくり話そう」


 彼はにっこりと笑った。

 五十嵐は隙を見計らっていたが、そんな都合のいいものは白人の男から感じられなかった。なによりも、見知らぬ男が自宅のリビングの窓の向こうに佇んでいた。


 ひどく胸をかき乱す笑みを浮かべて。

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