第一話 ((隣の人、暗そうだな……))

 2025年4月8日。想人と古鈴とがこれから通うことになる、県立双海高校の入学式が行われる日。それぞれの朝。


 想人は目の前の、昔話でも見ない盛られ方の白米を信じられないような目で見ていた。まだ自分は夢の中にいるのではないかと、頬をつねるようなベタベタな事こそはしなかったが、確認のために白米を一口だけ頬張る。もちろん、その前に「いただきます」というのは忘れない。

 ……ほかほかだ。炊き立ての白米特有の少し粘度のある嚙み心地と、ほのかに感じる甘さは現実のものとしか思えなかった。


 さて、現実を受け止めた上で想人がまず考えたのは、朝からこの量を食べられるかという可能か不可能かの問題、そして、可能だったとしてこれを食べた後の自分のコンディションはどのようなものになるかだった。


 答えは考えるまでもない。いくら食べ盛りの高校生とはいえ(なりたてではあるが)、この量を毎朝食べるのは、これから力士を目指す予定がない限りは勘弁してほしいというのが想人の結論だった。


 しかし、想人から見て向かい側の椅子に座り、ニコニコしながら彼が食べる姿を見守る母親を見ると、「こんなにはいらないよ」と言いにくいのは確かだった。

 想人が推測するに、「高校生男児はこれくらい朝からでも食べられるだろう、いや、食べなきゃおかしい」という母親の盛大なる勘違いが、この山を作り上げたのだろう。姉がなまじっかこれくらいならペロリな胃デカ族なばかりに、その勘違いに一定の信ぴょう性が生まれてしまうのだ。

 だが、米の山を半分ほど削ったところで、想人の脳内には「無理」の二文字しか浮かばないようになっていた。


「あの……母さん」


 想人が罪悪感に押しつぶされそうになりながらも自分の現状を告白しようとしたところ、彼の母親、毛利桜は息子の顔を少しじっと見てから、「ああ、なるほど」と言わんばかりに手を合わせる。


「大丈夫!おかずまだまだ用意してあるから!」


「……」


 想人は少し天を仰ぎ、そして時計を見た。7時10分。まだ家を出るには早い時間。「あ、もう行かなきゃ!」は通用しなさそうだ。


「……いただきます」


「……?さっきも言ってなかった?」


 もちろん、彼は言ったことを忘れたわけではない。この「……いただきます」は、夢から覚め、どうしようもない現実を直視し、覚悟を決めた男の宣言だった。



 その一方、同時間。荒谷古鈴はまだベッドに潜り込んでいた。彼女の家は高校まで歩いて15分ほど、車であれば5分以内に着くようなド近所ではあったが、それでもそろそろ朝食くらいは済ませておいた方がいいのは確かだった。


 当然、母親が何度か起こしに来ていた。しかし、「う~ん」「は~い」などの返事はあるものの、一向にリビングまで降りてくる気配がない。


 確かにもう10分ほど寝ていても、朝食込みでもギリギリ間に合わなくもないし、車で送っていくとしたらさらに5分は寝ることが出来る。しかし、入学式の日くらいは、年頃の女の子として、少しはおめかし、とまではいかなくとも、それなりの身支度をしていくべきでは……と考えるのは、母親としては当然の心理だった。


 だが同時に、まあ古鈴ちゃんだしなあ……というもはや悟りに達するレベルの諦めもあった。身なりに全く関心がない、とまではいかないが、「どうせだれも私なんて見ていない」という卑屈さから、苦手な朝の身支度なんてぼさぼさとかじゃ無ければいいやくらいの適当さになってしまった。

 さらに、両親の教育方針が「まあやることやったらあとは好きにのびのびやれよ」くらいの緩さのため、あえて直す必要もなかったのだ。


 まあ、本当にヤバい時間になったら起こせばいいでしょと、彼女の母親、荒谷響子は思考を切り替え、鼻歌交じりに家事を再開した。


 そんな娘の理解者たる響子にも、一つだけ読み違えているところがあった。古鈴はいまだに夢の中と思っていることだ。彼女はすでに目が覚めていた。いや、すでに、という表現はあまり正鵠を射ていない。昨日ベッドに潜り込んだ時からずっと、が適切だろう。


(い、一睡もできなかった)


 それはこれから始まる高校生活に対し、遊園地へ行く前日の幼児のように明日が待ちきれない興奮とじれったさを持て余していたためではない。むしろその逆、高校生活への不安、将来への不安、果ては自分の人生の意味まで考え始めた結果、睡魔が逃げて行ってしまったという、可愛げのかけらもない理由だった。


 そして今でもずっとベッドに潜り込んでいるのは、何も今さら寝たいわけではない。いや、いっそ寝てしまいたいのが彼女の本音ではあったが、入学式からサボるほどの度胸もない。

 ならなぜまだ貝のように布団とベッドの隙間に引きこもっているのかと言えば、それはせめてもの抵抗だった。もうすぐ訪れ、そしておそらく彼女もそれに抗うことのできない、現実というものへの当てつけ。


(あー嫌だ嫌だ嫌だ。なんで義務教育を終えてなお同年代と同じ箱に詰められて揃って腐ったみかんにならなきゃいけないんだ。多様性だのバリアフリーだの口では言うけど、結局のところ大人なんて自分たちの言うことを聞く大人しくて従順で愛想のいい人形を量産したいだけなんだ。今どきオフィスに能面のおじさんおばさんたちが並んでるだけの時代じゃないでしょうに。あークソ。今からでも高校中退してラノベ書いて遊んで暮らしたい……あ、でも入学式すら行ってないとそれって中退になるのか……?)


 彼女のいろんな意味で行き先のない思考は、母親の必殺、布団はがしによって中断された。無論、最低限の身支度をする5分の猶予だけ残して。



 そんな紆余曲折があったものの、結局二人は入学初日から遅刻という微妙にエピソードにもしづらい黒歴史を作ることもなく登校することが出来た。


 クラス分けで知り合いがいるかいないかで一喜一憂する集団の中、少し前傾姿勢になって腹を押さえる想人、寝不足かつ人の群れに突入しなければならないストレスとで今にも吐きそうな古鈴は、確認だけを素早く済ませてさっと移動する。二人とも、移動途中にトイレの位置の確認も欠かさない。


 かくして、教室にたどり着き、黒板に貼ってある席順表通りの位置にそれぞれ腰掛ける。


 毛利想人の隣には荒谷古鈴。荒谷古鈴の隣には毛利想人。

片や朝から野球部合宿の練習後みたいな飯を食わされ、上も下も心配で真っ青。

片や眠れず朝を迎え、フラフラの状態で苦手な人混みに吐き気を催し真っ青。


 周りの和気あいあいとした雰囲気とは完全に隔絶された空間で、周りの様子など伺う余裕もない二人はただ机をじっと見つめている。しかし、隣の席にいる人間の存在くらいは認識していた。


 周りがすぐになれ合う中、うずくまるようにして自分の席から動かない少年。

 もうライン交換とかすら始まっているのに、ずっと一点を見つめる少女。


 互いが互いをまずこう認識したのは、決して不思議なことではないだろう。


((隣の人、暗そうだな……))


 想人は、色々と気を使わないとな……というこれからの心配とともに。

 古鈴は、同じ陰キャなら非生産的な会話をすることもねえだろラッキー!という安堵とともに。


 二人の第一印象は、ひとまずこのようだった。


 しかし、古鈴が抱いた想人の第一印象が打ち砕かれるのには、この時点から5分もかからなかったことを考えると、実に人の第一印象とはタイミングにかかっている適当なものか分かるというものだろう。





 

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