銀露の還り
──風が匂いを運んでくる。
満ちた月が、まるで呼吸するように淡く瞬き、
花弁を閉じかけたバラのつぼみに、やさしい銀を落とした。
ロウはいつものように、庭の手入れをしていた。
昼と夜のあわいに咲く、時季外れの睡蓮に水をやりながら、
ふと、静かに足を止めた。
……何かが、帰ってきた。
「……匂いだ」
懐かしい、けれど少し違う。
甘さと、冷たさ。
煙るような月の香りと、土の中に潜る猫の気配。
ロウはゆっくりと顔を上げた。
そこにいた。
「あっ!!──ツキシロじゃねぇか…!!」
銀色の毛並み。
淡い光を纏う、長毛の猫がひとり。
バラのアーチの下、静かに、まるでずっとそこにいたかのように。
「……ったく」
低く、やや掠れた声が漏れる。
「どこ行ってたんだよ、気まぐれ猫」
猫はゆっくりと歩み寄る。
濡羽のような尻尾が、わずかに揺れた。
それが返事の代わり。
ロウはしゃがみ込んだ。
その手が触れるより早く、猫はすとんと彼の胸元へ身を預けた。
「ああ、もう……」
ぶつけるように呟きながらも、
ロウの手は迷わず、猫の背を撫でた。
その毛並みの奥には、言葉よりも雄弁なぬくもりがあった。
「ちゃんと、戻ってきたんだな」
猫は、瞳を細めてロウを見上げた。
その目には、紫と翡翠――ふたつの月が揺れていた。
ロウの腕の中で、猫が小さく喉を鳴らす。
それはまるで、「ただいま」と言っているかのように。
空のどこかで、雲がひとつだけ割れた。
そこから洩れた月光が、ふたりを柔らかく包んだ。
夜がまた、静かに満ちていく。
古びた屋敷の扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
石造りの床を、ロウの足音が静かに打つ。
その胸には、銀糸を束ねたような長毛の猫が、まあるく収まっていた。
「おーい」
声は粗雑に聞こえたが、
その響きの奥に隠れているのは、どうしようもなく柔らかな情だった。
「ツキシロ、帰ってきたぞ」
奥のサロンで本を読んでいたお嬢様が、ふわりと顔を上げる。
セラフはそれに先んじて、静かに立ち上がった。
「……なんと」
眼差しが、夜明け前の湖面のように揺れた。
その碧は、ほんのわずかに金色を帯びていた。
「まぁ……! ツキシロ……!」
お嬢様の瞳が、大きく見開かれた。
ロウは無言のまま歩み寄り、
腕に抱えた猫を、そっと差し出した。
その毛並みは月の光そのもの。
ひと撫ですれば指に冷たさとぬくもりが混じる、不思議な手触り。
お嬢様が両手でそっと受け取ると、
ツキシロは、その腕の中で小さく丸まり──
「……ただいま」
その瞬間、時間が止まった。
部屋の空気がぴんと張りつめ、
蝋燭の灯まで一瞬だけ、揺れるのをやめたかのようだった。
「……え?」
お嬢様の声が、か細く漏れた。
「……お、おい、今……」
「喋りました、ね……?」
ロウが呆けたように眉をしかめ、
セラフが静かに、しかし確かに頷いた。
お嬢様がツキシロを覗き込む。
猫の瞳は、星を閉じ込めたように澄んでいた。
「──うん、ボク、喋れるようになったの」
ツキシロは小さな声で、でもはっきりと続けた。
「……こわかったんだもん。
空が、急に割れたみたいに鳴いた夜があって……
彗星が、すごい速さで落ちてきて、地面まで揺れてたの。
鉄みたいなにおいと、黒い光と、雷みたいな音。
ボク、びっくりして、夢中で走っちゃって……
気づいたら、しばらく、迷子になってた」
セラフが静かに膝をついた。
その細く美しい指が、ツキシロの頬にそっと触れた。
「……それは、怖かったことでしょう。
よくぞ、ご無事で……」
声がわずかに震えていた。
その銀の髪が、月光を編むように揺れた。
お嬢様の腕の中で、ツキシロはぬくもりに頬をすり寄せる。
まるで、やっと本当に“帰ってきた”と感じたかのように。
「もう、大丈夫だよね?
ロウが見つけてくれて……
お嬢様もセラフも、まだちゃんとここにいて……」
その声はだんだん小さくなりながらも、
確かな言葉の形を結んでいく。
「ボクね、また……この世界で生きたくなったの。
猫だけど、“誰かの隣”っていうの、やっぱり好きだったから……」
お嬢様はツキシロをそっと胸元に抱き寄せた。
耳の奥で、小さな鼓動がふたつ、静かに重なる。
「おかえり、ツキシロ」
ぽろりとこぼれたその言葉に、
ロウもセラフも、ひとつだけまばたきをした。
その夜、屋敷のまわりには、
いつもよりひときわ澄んだ月光が降りたという。
まるで、“帰還”という奇跡を、空までが祝っていたかのように。
「それでね、……あのね」
と、ツキシロがぽつりと声を落としたのは、
セラフが香炉に静かに火を灯し、お嬢様が湯気の立つ花茶を口に運んだそのすぐあとだった。
ロウの肩に再び登ったツキシロが、耳元で何やら囁いた。
「ボク、ほんとはね……ただの猫じゃ、ないんだ」
ロウが眉をしかめる。
「ん? どういうこった?」
ツキシロはしばらく言葉に詰まり、首を傾げた。
小さな額にしわを寄せるような仕草のあと──
「えーと……えっとね……変わる猫、なんだ。ボク。ちょっと……見せる、ね?」
言い終えるが早いか。
ツキシロの毛皮がぽふっ、と膨れた。
まるで風船のようにふくらみ、長毛の中からふわりと毛が舞い上がる。
「ふぁっ……!」
「わっ、目に入った!」
ロウとお嬢様がほぼ同時に、宙を舞った銀の毛を吸い込んでしまう。
「へ……へぶしっ!」
「くしゅんっ!」
そして、次の瞬間だった。
空気がゆがみ、床の陰がふわりと揺れたかと思えば──
二人の姿が、すうっと、溶けるように変わっていったのだった。
光が引いて残されたのは、
鋭く引き締まった四肢と金の瞳を持つ、どこかロウにそっくりなアビシニアン風の猫。
その傍らには、しなやかで滑らかな毛並み、薄蒼の瞳をたたえた、気品に満ちたロシアンブルー風の猫。
屋敷の空気が、一瞬、張りつめる。
セラフの指が止まり、香炉の煙が、まるで異変を察したように逆巻いた。
「──これは、これは……」
セラフの眼が、冴えた夜明けの星のように細く光る。
即座に魔術式の封印を緩め、空気の歪みを鎮めると、ほとんど無言のままその異変を解いた。
くしゃみをきっかけに猫へと変化した二人が、まばゆい光とともに、元の姿へと戻る。
だが、セラフの瞳には、今なおその光景の"残像"が焼きついていた。
──白銀の長毛のツキシロ。
──野生の気魄を宿したアビシニアンのロウ猫。
──そして──
──一秒でも長く見ていたい、ロシアンブルーの気高さと可憐さを纏った“猫お嬢様”。
「……………」
セラフの理性に、決定的なひびが入る。
「お……お嬢様……いえ、その、猫のお姿も……あまりにも、可憐で……ああ、いけません、わたくしの感情が……っ」
耳元が赤らみ、声がわずかに震え、
その端正な顔にありえないほど崩れた表情が浮かぶ。
その様子に、ロウが横目で笑う。
「……セラフ、お前、今ちょっと崩壊しかけてたろ」
「い、いえ……これは違います、これは――気品の暴力なのです……っ」
セラフは顔を覆いながら、真剣に震えていた。
お嬢様は、まだ少しぽやんとした表情のまま、
事態を飲み込めず、ロウとセラフを交互に見つめる。
ツキシロだけが、ぴょんとサイドテーブルに飛び乗って、ふにゃりと笑った。
「ね? ボク、変化猫。
すこーしだけ、いたずらもしちゃうけど……仲良くしてくれる?」
窓の外では、満月がひそやかに頷くように光っていた。
夜は、まだ優しく深まっていく。
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