『月の顔(かんばせ)を紡ぎたくて』

万華実夕

プロローグ:旅立ちと受難

「そうかい、そんなに――

あの狼男に、見惚れてしまったのかい」


くす、と笑う気配。

けれどそれは、ボクの心の奥に、どこかほのかな不安を灯した。


「……ほんとうに行くんだね。

だけど、お前はまだ若い。

ひとりで地上に降りるには、あの世界は少々、雑多すぎるよ」


滲むような光が、ボクの身体をそっと包む。

月の民の手によって紡がれた毛皮は、あたたかく、ふわふわとした手触りだった。


「これは“変容と感応”の大地で、友達をつくるための毛皮。

お前にしか着こなせない、世界でたったひとつの贈り物だよ」


「けれど、忘れてはいけない。

この地で見たこと、聞いたこと――

月の民のことは、誰にも話してはならない。

それが、約束」


ふわりと風が吹く。

藤のようにしだれた、薄紫の髪が揺れた。


「さあ、お行き――」


「あなたの描く世界に、

わたしたちは祈りを込めている」


――そうやって、あんなに優しく送り出してもらったのに。


──隕石って、

なんなのさ、もう!!


あのとき、ボクはまだ“猫のまま”だった。

『ツキシロ』って、名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいと、はじめて知った。

あたたかな膝の上。ぬくもりの指。

乳白色の皿に浮かぶミルク。


──変容と感応の世界で、

ボクは初めて『居場所』というものを抱きしめた。


けれど、ある夜。

空が鳴いた。


星の裏側から、骨の髄を軋ませるような振動音が、世界を震わせた。

それは彗星なんていうレベルではなかった。

まるで、天から落ちてくる鉄槌のように。

それは“隕石”という名の災いだった。


「──あんなの落ちたら、世界が壊れちゃう」


僕は猫の本能で、それを悟った。

恐怖が脊髄を駆けのぼるより先に、

ツキシロは“この世界から一旦身を隠す”ことを選んだ。


月の映る水面へ。

銀の露がふと落ちたような静けさで──

僕は、姿を消した。


それは銀露隠れ《ぎんろがくれ》と呼ばれる、

変化猫だけが知る“月光の通り道”。

月が照らす湖や風呂や池に、猫の姿を溶かすようにして跳び込めば、

その奥には、時間の止まったひとつの境界がある。


そこは、誰も傷つかず、誰にも見つからない、

やさしい冷たさを湛えた、月光の胎内。


ボクはその中で、長い夢を見た。


名を呼ばれたあの日。

ぬくもりの指先。

『家族』というものの記憶。


そして──

背が高くて、ぶっきらぼうで、

でも誰よりやさしい庭師。

変わらぬ強さで屋敷を守っていた、

ロウのことを。


彗星は、やがて去った。

空は静けさを取り戻し、

庭にまた花が咲き始めたころ、


ツキシロは目を覚ました。


会いたい。

ロウに会いたい──。


“ありのままのボクを見て”って。

ふたたび、ひとりの生きものとして生きるんだって。


そうやって、心に誓ったんだ。


「──今度こそ、

 あの人の隣を離れるもんか」って。

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