3章 5日目 朝

翌朝。

 リビングに入ると、コーヒーの香りが漂っていた。トースターからはパンが焼き上がる音。パンとコーヒー、そしてジャムは決まってマーマレード。サラダとベーコンエッグが食卓に並ぶ。ささやかながらも、一口噛むと、ほろ苦さと甘さが混じり合った、いつもの味がした。「昨日も思ったけど、サラダやベーコンエッグなんて高校生の時に出してもらった事無いよね」 「その代わりトースト2枚食べとったが。もう1枚焼こうか?」 「入らないよ。何歳だと思ってるの」

 向かいに座る母は、食欲がないのか、パンをちぎる手が遅い。明日は帰京しないと。私がいなくなると母は誰と話しながら食事をするのだろう。ふと、伯父の言葉が頭をよぎる。

「お前がこれから残されたものを引き継ぐということは、その『正』だけじゃなく、その『負』も背負うってこと、誰がそれを背負うのかわかってるか?」

 昨夜、確定申告書を読み込んでから、その言葉がより重く響いていた。父の抱えていた問題は、私が漠然と思っていたようなものでは無かった。アパートの空室、高額な維持費、そしてその将来の不透明さ。これまでの私は、都会での自分の生活を築くことに精一杯で、実家の家計のことなど気にもしなかった。ここでどうにかしないといけない。気がした。

「母さん、今日の予定は?」 私は、できるだけ明るい声を出そうと努めた。目の前の母のためにも、私がしっかりしなければならない。

 母は、一瞬考え込むように首を傾げた。「今日はね、特にこれといって大きな用事はないんよ。お父さんのことで、まだ役所や銀行に行かなきゃいけないことはあるけど、それはあなたが東京に戻ってからでも、郵送でできるものが多いし……浩の学校もそうだけど、麻美さんも早う帰ってきて欲しいわいね、当たり前やがね」母の言葉は、私がいる間にできることは少ない、という諦めにも似た響きがあった。私がこの問題に踏み込むのを躊躇しているうちに、母は一人で抱え込んでいたのだろう。

「少し話をしていいかな。アパートのことなんだけど…」

「いいけど…何?」

 廣は昨晩、素人なりに解析してみたアパートの収支について、思っていたより当てにならないという感想を遠回しに話した。

「僕も素人で見たからと言って判断はできないけど、現状を見てみたいんだ。その上で結論を出すべきいい機会じゃないかと僕は思う」

母は、廣が突然そんなことを言い出したことに、戸惑いを隠せない様子だった。

「ええけど。何っちゃないよ、ごく普通やと思うけど。鍵は不動産屋さんに預けとるけんね。」

「何も問題なければそれでいいんだよ。僕が確認したいだけだよ」

「じゃ、不動産屋によってアパートみて、お昼は鍋焼きうどんにしようよ。こっちに帰ってきたのに鍋焼うどん食べてないんだよ」

「ほうじゃね。そういや食べてないね。私も最近食べてない気がするけん、美味しいとこ行こわい。驕っちゃげるけんね。」

車を走らせ、まず不動産屋へと向かった。母が手慣れた様子で応対し、廣は傍らで静かに話を聞く。不動産屋の担当者は、アパートの鍵を渡しながら、最近の空室の多さや修繕費の増加について、簡単な説明を加えた。

「現状、なかなか斡旋できなくて申し訳ないです。厳しい状況でして……」担当者は言葉を濁しながらも、その表情は芳しくない状況を物語っていた。

 廣は冷静に耳を傾け、鍵を受け取ると、そのままアパートへと直行した。

 現場に到着すると、昨日遠目に見た時よりも、その老朽化は明らかだった。何度か塗り替えたであろう外壁は色褪せ、玄関扉はいかにも時代を経てくすんでいた。廣は鍵を使って、空室になっている部屋の一つに入ってみた。こもった空気と、うっすら埃が積もった室内。窓から差し込む光も薄暗く思わせる。最後の住人が出た後に塗り替えたのであろう寿楽壁は重ねた築年数を物語り、壁付のキッチンはいかにも古く時代を感じる。表を張り替えた畳からは井草の香りがしない。今、畳の和室を求める人がいるのだろうか、私の家には無い。何よりここには絶対ゴキブリがいる、それは確信した。このままでは借り手がつくことは難しいだろうと私は思う。

「これで家賃幾らに設定してるの?」 「不動産屋さんに言われて下げたんよ。前は7万じゃったけど、今言うとるんは6万じゃったかな。」 六万が高いのか安いのか、現状埋まってないということは高いと考えるべきだろう。 「駐車場は無いんだよね」 「小さい車やったら2台は置けるけんね。それ以上は近所で借りて貰わんとね」 三部屋で二台分か…… 「付近の相場はいくらなんだろうね」

母は部屋の隅で、どこか悲しげな顔で立ち尽くしていた。彼女もまた、この現状を前に、長年の苦労が報われないことに心を痛めているのだろう。

 廣は、ゆっくりと部屋を見回しながら、ここが「負」動産なのか、母の生活に潤いをもたらす不動産なのか見極める必要を感じた。さてどう向き合うべきか、なかなか難しそうな選択は熟慮が必要でありプロのアドバイスが必要だ。アパートの鍵を返却するついでに、改めて不動産屋に時間を貰った。

「アパート見てきました。相続手続中ではあるんですが、少し相談に乗っていただきたいんですがお時間頂けますか?」

「付近の家賃相場はどれくらいなんですか?」「うちのアパートを今時の人に入って貰えるようにリフォームするとどれ位かかってどれくらいの家賃が見込めますか?」「賃貸希望の方の人気の地域は今どの辺ですか?」一夜漬けでネットから仕入れた知識で矢継ぎ早に質問をぶつける。母は、ただただ唖然としている。どれも母には不安な質問ばかりの様だ。それはこのアパートの経済的な真の姿を露にする作業だからだろう。しかし、不動産屋の社長の返答は、そのどれもがこちらが期待できるような嬉しいものでは無かった。

「仮に今のまま売るとしたら、幾ら位の価格になりますか?」 「もし仮の話で、現状店子のいる状態ということですか?オーナーチェンジということですね…」「申し上げにくいですが、買い手が現れる可能性は極めて低いです。もし仮にそういう方が現れたとしても、かなりの値引き交渉になるでしょう。ちなみにご希望額はありますか?」 「いえ、まだそこまでは。色々聞いた上で、最も良い手段を取りたいと検討している所です。」

 社長は数枚の近隣物件の詳細が記載された紙、マイソクと言うらしい、を渡してくれた。勉強しろ、ということか。

 不動産屋から少し走ったところに美味しい鍋焼きうどん屋があると母の案内で車を走らせた。

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