第9話 涙の雨 下

 -締詩沫暦-1019年4月4日-春-中心城城内


  聖泉せいせんは中心城中央の聖山の上、聖輝教せいききょう大聖堂だいせいどうの中にある。


  彼の行動は迅速だった。長い心の葛藤かっとうの末、彼はついにこの道を選んだ。


  なぜか、アティサは衛兵えいへい巡回じゅんかいを避けることに極めて熟練していた。ほとんど何の障害もなく聖堂内部へと入り、真っ直ぐに聖泉の在りありか――大聖堂の奥深くへと向かった。しかし、彼がドアを押し開けた瞬間、一人の見知った顔にはばまれた。


  雪青色スノーヴァイオレットいろの長い髪、澄んだ金色の瞳、蝶の紋様もんようが施された真っ白な豪華な衣装いしょうに金の装飾そうしょくをまとった少女。明らかに、彼女は王女おうじょだった。だが、彼女は聖泉の前に立ちはだかり、彼をさえぎった。


  「アティサ、何をしようというの?」


  「繊星シェンシン様、老いぼれは貴女から聖泉を少しばかり拝借はいしゃくしたいと」


  「アティサ、たとえお前が連合れんごうの一員だったとしても、聖泉を無造作に使わせたり、ましてや外に持ち出すことなど認められない。これが冒涜ぼうとくを意味することはお前も知っているはずよ。なぜそんなことを?」


  連合——『匠心連合』。数百年前の建国の功臣たちが築いた組織。だがアティサはとっくにリーダーの資格を放棄し、数年前にこの組織を脱退し、民間で無名の普通の工匠こうしょうとなっていた。


  「仮にお前が今も連合の一員だとしても、聖泉を無造作に使わせるわけにはいかない。冒涜だ」


  「融通ゆうずうの余地はないのか?」


  アティサが詰め寄る。その口調は懇願こんがんから一転、鋭く、わずかな脅迫きょうはくを帯びていた。


  「微塵みじんもないわ」


  繊星シェンシンはきっぱりと、一歩も引かなかった。


  アティサは沈黙した。これは彼が予想していた場面だった。だが、予想していたとはいえ、心に一抹の喪失感がなかったわけではない。


  「お前自身がここに立っていること自体がすでに冒涜だ。お前の所業しょぎょうを私が許すはずがないということは分かっているだろう……裏切り者うらぎりもの……」


  アティサは黙ったままだ。慕火ムーカのことを口にすることはできなかった。たとえ話したとしても、目の前の少女は哀れみで聖泉を取らせたり使わせたりはしないだろう。ましてや慕火ムーカは身分証明書もない密航者みっこうしゃなのだ。


  「人を救おうと? それとも自分を救おうと? それとも再び国を挙げての反乱を起こそうと?」


  繊星シェンシンは詰め寄り、アティサの全身の動きを、細部に至るまで観察した。


  「お前が何を言おうと私は信じないわ―――」


  繊星シェンシンの言葉が終わらないうちに、アティサはそでから短剣たんけんを抜き放ち、繊星シェンシンに向かって素早く突き刺した。


  繊星シェンシン刹那せつな、星々を散りばめた法陣輪盤ほうじんりんぱん召喚しょうかんし、一瞬でアティサを撃退した。星々はかせと化し彼を縛り、ひざまずかせた。


  「救いがたい! 警告するわ! 父上はお前の罪をゆるし、お前を生かしておくことを許したかもしれない。でも私は許せない! お前は軽々しく人の命を奪い、自分の立場だけでなおも息をつなぎ、謝罪のひと言すらなかった。お前の今の行いは、まさに付け上がるというものよ!」


  その目尻めじりには一瞬の憐憫れんびんが走った。その瞳はただただ不可解でいっぱいだった。


  「お前はもう……私の記憶の中のあの人じゃない……だから! 私がたとえ一瞬でもお前を許すなんて思わないで」


  「…………それでは、繊星シェンシン……様。どうすれば、私に聖泉の使用を許可してくださいますか?」


  「お前が反逆はんぎゃくしたその瞬間から、お前は聖泉を使う資格を失ったのよ」


  アティサの心は貫かれたようだった。この言葉は、繊星シェンシンの態度を直接示していた。如何いかにしようとも、彼は自らの力で聖泉に近づく機会を完全に失ったのだ。


  ただし……。


  アティサは眼前で術式じゅつしきを操る少女を見つめた。


  「もし繊星シェンシン様がそうなされば、自らの手でもう一つの命を奪うことになります。それでもなお、聖泉の使用を許されないのでしょうか? たとえ私が贖罪しょくざいのためにそうしているとしても?」


  繊星シェンシンは一瞬、言葉を詰まらせた。『贖罪』という言葉が、この男の口から出ることは、あまりにも信じがたいことだった。


  「今の私がお前の言葉を信じると思う?」


  彼女の言葉に重みが増すにつれ、枷の締め付けも強まり、アティサにさえも圧迫感を感じさせた。しかし彼はよくわかっていた。繊星シェンシンは彼の言葉を信じないわけにはいかないのだと。


  「もし貴女が信じられないなら、まずこの枷を解いてください。あるものを見せましょう」


  「…………」


  繊星シェンシンは彼を凝視ぎょうししたまま、口を開かなかった。彼女は躊躇ちゅうちょしていた。


  「…………口先だけは達者たっしゃな」


  繊星シェンシンは枷の力を弱め、アティサの手がわずかに動かせるようにした。


  彼はポケットから一つの十字架の首飾りを取り出した。これはアティサが慕火ムーカの眠っている間に彼女から取ってきたものだ。繊星シェンシンの首にかかっている首飾りと寸分違わない、同じ銀の十字架だった。


  「繊星シェンシン様はこれが何かご存じでしょう。私個人だけでは貴女に信じてもらえないかもしれませんが、私が救おうとしているその者は、この首飾りを持っていたのです」


  「…………父上の継承者けいしょうしゃへの十六の首飾りの一つ……今や六つしかこの世に残されていない。信頼する者の手を通してのみ他人に渡されるもの。だがどうしてお前が……これを……」


  「では、これを見た後でも、聖泉を持ち去ることを許されないのでしょうか?」


  繊星シェンシンは沈黙した。揺らめく輝きを放つ十字架の首飾りは、アティサが確かに嘘をついていないこと、彼が人を救うために聖泉を求めに来たこと、いわゆる『贖罪』のために来たことを証明していた。しかし、彼が理由なく奪った幾つもの命が、彼女に彼を許すことを許さなかった。


  彼に聖泉を持ち去らせることなど、考えたこともなかった。


  「シェン―――」

  「黙れ!! 少し考えさせて……」


  …………

  しばらくして、アティサの体を縛っていた枷はゆっくりと解けていった。彼は立ち上がり、服のほこりを払い、感謝の意を表すため、極めて標準的な紳士の礼を返した。


  沈黙する王女の横を通り過ぎ、聖泉の傍らへと歩み寄った。彼のそばに忽然こつぜんと現れた輪盤りんぱんから、聖霊瓶せいれいびんと呼ばれる、特注の金縁きんぶちの試験管を取り出し、慎重に聖泉を瓶詰めにした。


  繊星シェンシンはそばで彼の行動をすべて見ていた。その試験管は彼女にとって見覚えがあった。それは彼女の祖父が残した道具であり、彼女もまたこれらの聖霊瓶を持っていた。その助けを借りれば、聖泉の効能は外でも発揮されるのだ。


  アティサは聖泉を詰め終えると、振り返ることなく大門のそばまで歩み、去ろうとした。


  「では、これにて失礼する」


  「アティサ」


  「繊星シェンシン様、他に何か?」


  「お前は私に嫌悪感けんおかんを抱かせる」


  口元に悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべ、繊星シェンシン嘲笑あざわらうかのように、少しの遊び心を隠していた。


  「お言葉ありがとうございます」

  そう言うと、ドアを閉め、聖堂を後にした。


  …………

  アティサが離れている間、慕火ムーカ一人屋根裏部屋やねうらべやで眠っていた。おそらくはいたずら好きの野良猫が屋根を渡ったのだろう。何枚かゆるんだかわらが彼女の窓枠まどわくに落ち、続いて地面に落ちて、小さくない音を立てた。


  この音が眠りの中の少女を目覚めさせた。彼女は眠い目をこすり、窓の外の静かな夜を見た。今こそ絶好の薬草やくそう採りのチャンスだ、そう考えて、彼女は起き上がり、自分のマントを羽織り、フードをかぶり、音を立てないように階下へ降り、注意深くドアを開け、眠っているアティサを起こさないようにした。


  身軽な彼女は夜の闇の中をすり抜け、夜間の巡回や交代する衛兵を巧みに避け、彼女が入城したあの隙間すきまへと戻った。


  その隙間はもう狭くはなかった。今の大きさなら、彼女が身をかがめれば普通に出入りできる。周囲の人間にアティサが突然大量の薬草を購入するのを怪しまれないように、彼女は毎晩、ノミを持ってこっそり隙間を広げ、去る時に石やわらふさぎ、隙間が発見されないようにしていた。そうすれば、必要な薬草を採りに城外へ出られるのだ。


  彼女は慣れた手つきで隙間を通り抜け、橋の下の支柱を伝って対岸へとこっそり移動した。


  「……次は……何だっけ?」


  薬の影響で、彼女の思考はすでに少しにぶくなっていた。考える速度さえかなり遅くなっていた。


  「ああ、思い出した。こっちだ」


  少女は森の奥へと向かい、彼女がよく知り、補充が必要な四種類の薬草を採集した。これにはもうすっかり慣れていた。


  茎艮けいこん心夜藤しんやとう茯神薈ふくしんかい、マンドレイクの根。一刻いっこくもかからずに彼女はすべて集め、急いで城内へ戻り、家路いえじを急いでいた。


  慕火ムーカが暗闇の中を軽やかな足取りで進むにつれ、彼女は家の前に戻ってきた。しかし……何かがおかしい。


  彼女の記憶は良くないが、これほど早く忘れるほどではない。出かける時はドアをしっかり閉めた覚えがある。だが今、ドアは開いていた。地面には言葉にしがたい赤い染みが残り、不快な生臭なまぐさい匂いが漂っていた。


  血だ。


  遠くから家の中まで続いている。屋内は明かりがついていなかったが、月明かりで家具がめちゃくちゃに散らばっているのがはっきりと見えた。普段食事をするテーブルもひっくり返っていた。刹那、彼女の脳内に一つの恐ろしい推測が浮かんだ。それは彼女が初めて『恐怖』という名の感情を微かに感じさせた。死にかけていた時でさえ、このような極端な不快感はなかったのに。


  彼女はすぐに首を振り、その考えを追い払った。明かりをつけようとしたが、ぼんやりとしてスイッチの場所がわからなかった。仕方なく、月明かりを頼りに周囲をかろうじて見分け、草刈り用のナイフを胸の前にかざした。これで自分を守れるはずだ、そう思って。


  鮮やかな赤い血痕けっこんは、見る者を慄然りつぜんとさせるほどにゆがみながら、階段を下りて地下室へと続き、また歪みながら屋根裏へと戻っていた。


  彼女は震えながらナイフを握り、つばを飲み込んだ。一歩、また一歩と階段を踏みしめる。


  **――きしみ――**


  彼女は慌てて振り返った。何もなかった。下を見ると、踏んだ床板が音を立てたのだ。その音が部屋の空気をさらに重くし、彼女の心臓の鼓動こどうを制御不能に速めた。


  一歩、また一歩。呼吸はますます荒くなった。目の前の未知なるものは、まるで怪物のように思え、ますます後退したい気持ちに駆られた。


  しかし、彼女は後退しなかった。一体何が起きたのか知りたかった。


  ついに屋根裏にたどり着いた。自分の部屋のドアは半開きだった。彼女はゆっくりと押し開けた。


  一瞬、『恐怖』が波のように押し寄せ、彼女をその場に釘付けにした。全てを奪われ、何も持たぬ、空っぽのからのようだった。瞳孔どうこうは縮み、顔面蒼白がんめんそうはく、涙が溢れんばかりだった。


  アティサがみすぼらしく少女のベッドの端に座り、息も絶え絶えだった。彼の片腕は無理やり引きちぎられたように、すでに失われていた。ただ、見るも無惨むざんな鮮血が断肢だんしから絶え間なく流れ出ているだけだった。脚には無数の傷が走り、彼の短剣はそばに落ちていた。胸の十字架の首飾りはひび割れに覆われ、今にも砕け散りそうだった。


  明らかに、通りから家の中まで続いていた血痕はすべて、慕火ムーカの目の前にいる、一ヶ月以上も共に過ごし、温もりと笑い、父のような存在だった人―――アティサから流れ出たものだった。


  血の海の中の父親が微かに顔を上げ、愛おしい養女ようじょを力なく見つめた。彼の瞳はかすみ、澄んだ金色の輝きは灰色がかり、鈍く、生気を失っていた。


  「慕火ムーカ……今晩は……よく……眠れたか……」


  彼の口調はゆっくりと、落ち着いていた。責めるような響きは微塵もない。彼の一言一言、そのゆっくりとした呼吸の一つ一つが、娘への深い愛情に満ちていた。


  その馴染み深い人の声が耳に届き、瀕死ひんしの人の別れの言葉が耳に届き、手にしたナイフが床に落ちる音がして、初めて彼女は涙によって絶望から引き戻された。


  「アティ…サ…! こ、これは!……どうして……??」


  薬のせいで、彼女の感情はほとんど消えかけていた。しかし今回は、恐怖、喪失、恐れ、悲しみが一瞬で入り混じった。あの強力な薬さえも、心の奥底から湧き上がるこの感情を抑え込むことはできなかった。



  「はは………………こんな……姿……見せて……すまない……」


  父はゆっくりと言った。一語一語が口から出るたびに、彼の全身は微かに震え、血をき、流れ落ちる血は止まる気配すらなかった。


  「話さないでください! 今すぐ包帯を巻きます! 包帯……包帯! ここにあったはず!」


  彼女の手はひどく震えていた。急いで引き出しから包帯の巻きを取り出し、倒れた父のそばに戻った。包帯を巻こうとしたが、震える手ではとても巻けるものではなかった。その手は恐怖で、人に包帯を巻くことすらできない状態だった。


  「ゴホッ、慕火ムーカ……もういい……俺の時間は……もともと……残り少ない……行く時だ……」


  彼は泣く娘を慰めようとし、指先で彼女の髪をそっと撫でた。まるで旅立つ前の名残惜しさのように。


  「そんなこと言わないで! あなたは生きる! 必ず生きる! 私……私……!」


  彼女は包帯を手に持っていたが、思考はどうすればいいのか全くわからなかった。


  包帯を巻く? 彼女が戻る前にもう手遅れだった。


  娘の涙は情けなく溢れ出た。彼女はほとんど涙を流したことがなかった。入城したばかりのあの苦難の旅の時でさえ、一滴も涙を流すことはまれだった。


  「慕火ムーカ……」


  彼の残った片腕がそっと娘を抱き寄せ、泣く子を自分の胸の中へと優しく引き寄せた。彼女の頭を撫でながら、泣く心を落ち着かせようとした。


  彼女は父が絶え間なく失われていく命を感じた。呼吸はますます弱く、鼓動は消えかけていた。彼女はもはや心の奥底の悲しみを抑えきれず、彼の胸に飛び込んで声をあげて泣いた。


  「泣くな……慕火ムーカ……ゴホッ……」

  「アティサ……」


  「聞け……俺の娘よ……俺は……何か大切にし、愛おしむ者を……持ったことはなかった……しかし……俺は……一度たりとも……養子にしたことを……後悔したことはない……」


  荒い息を切らせながら、彼はゆっくりと言った。言葉はほとんど全ての力を失っていた。彼は分かっていた。時間がもうほとんど残されていないことを。


  「首飾り……すまない……ちゃんと……持って帰れなかった……申し訳ない……」


  全身の力を使い果たして、彼は首飾りを娘の首に掛け直した。十字架はひび割れに覆われ、今にも壊れそうだった。


  続いて、父のそばに落ちていた短剣がゆっくりと手に取られた。


  「……これが……俺の……最期さいごだ…………慕火ムーカ……」


  目は泣きれて真っ赤になり、涙が服のえりを濡らしていた。彼女はもう考えることができなかった。今、彼女はただアティサの胸の中で、最期の時を共に過ごしたかった。


  アティサはゆっくりと、愛おしい子を抱きしめながら、彼女の耳元でささやいた。


  それは命の最期の遺言ゆいごんだった。


  「我が子よ……俺を憎め……だが……生きよ……永遠とわに……永遠に……決して……運命に……追いつかれるな……」


  短剣が背中から、娘の心臓を貫いた。


  血がしたたり、短剣が落ちた。


  泣き声はついに静かになった。


  それが―――死だった。


  銀色の十字架が砕け散った。

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