第2節 煉獄のなかで
未だ強烈な光の衝撃に視覚が混乱する中、アレクサンドルの体は突如として綿のように宙を舞い、アパートの壁に激しく打ち付けられた。彼は咄嗟の反応で頭の後ろに腕を入れ込んだことで脳震盪による失神を避けたが、それでも背中と手の甲に猛烈な痛みが襲い、彼の骨は砕かれた。そしてまさにその直後、鼓膜を破らんばかりの爆音が木魂した。
「何が……起こった……」
彼は激しい痛みを堪えて顔を上げる。そして眼前にある光景を目にした時、彼は本気で白昼夢を見たと思った。それほど信じられない光景が彼を待ち受けていたのだ。
彼のアパートはほぼ崩壊して、彼が先ほどまで立っていた台所もすでに焼け落ちていた。更には開けた視界の眼前から見える灰色の巨大なキノコ雲の荘厳さは彼を圧倒した。
そう、彼らの街に落とされたのは原子爆弾だった。
「ああ………」
その光景にあらゆる思考を奪われた彼はただ茫然自失として声にならない声をあげた。否応なく更なる無情な現実が彼に突きつけられる。
「さ……シャ……」
触覚が激痛以外の情報を伝えた。彼の細い左腿に触れる手がある。
「母さん……?」
アレクサンドルに触れるその手は真っ黒だった。それだけではない。彼女の全身は巨大な爆発の結果比喩抜きで真っ黒に変色していた。既に助かる見込みのないことは明白だった。
抗しようのない衝動に呑まれて彼の青い瞳の表面を水分が覆った。耐え難い現実を前にした彼の口から脊髄反射の如き咆哮が放たれた。
「やめてくれ……死なないでくれ!俺はまだ何の恩も返せちゃいない!俺は知ってるんだ!貴女が……体を売ってまで俺を養っているのを!いつも無理して気丈に振る舞っているのを!
ナチ共に占拠されたこんなクソみたいな街で生きていたいと思えたのも……母さんがいたからだよ……!」
激しく慟哭する息子に今際の際の母は告げた。
「サーシャ、あなたは生きている。生きている限り、どんな希望も失われることは無い。私を置いて逃げて……」
「駄目だ!そんなこと……
「お願い、母から子への最後の願いだから……」
「でも……」
それでもアレクサンドルは母を見放せなかった。しかし一方、将来優秀な将軍となる聡明な少年は分かっていた。母に拘泥しようが、意味などないことを……
「ああ、分かったよ、母さん。ごめんなさい!」
その時人間の原型を留めていない母が震える手でアレクサンドルにあるものを差し出した。
それはクローバーを模ったペンダント、今でも彼が肌身離さず持っているものだ。
「これは……ミーシカがね、私と結婚した時にくれたの。私はどんな時もこれに頼って生きてきた。この三つ葉の白詰草の花言葉はね……希望なんだ。きっとサーシャはこれから辛い人生を送る。そんな時は……これを……思い出して……どんな時も人間の心にある希望の炎が潰えることは……な……」
母の体から力が抜けた。息を引き取ったのだった。彼は血だらけの体を震わせて肩身を首にかけると鬼の様な形相で歯を食いしばった。
「母さん!母さん!クソっ!低俗なナチ共が!俺が地獄の果てまで追いかけて全員殺してやる!」
彼は嗚咽しながら激痛と共に立ち上がる。折れた背骨の痛みは相当でほんの少し動いただけで意識が飛びそうだった。それでも彼は憎しみを糧に何とか玄関口まで歩き、モスクワと名がついた巨大な死の集合体を踏みしめた。
「誰か、誰か、生きてないのか?」
しかし街にその声に応えられるものはいなかった。多くは即死、そして生きていた者ももはや声すら出せない状況であった。瓦礫に潰されたまま火災に飲まれる者、
再び冬の強烈な寒さが戻りつつあるこの街は既に巨大な棺桶と化していた。瓦礫に舗装された巨大な一本道、赤く染まったモスクワ川を流れる死体と臓物。彼の家からはっきりと見えたクレムリンの尖塔、そして聖ワシリイ大聖堂は跡形もなく消滅していた。そのあまりの無残さは若き日の将軍に「
「もう二度と、こんな光景を繰り返してはいけない……!」
虚ろな目を保ったまま地獄を黙殺して彼は歩き続けた。
彼の満身創痍の肉体はある場所を目指していた。それは市の外れの方にある彼が普段勤めている小さな工場だった。イワノフはキノコ雲の位置から爆心地が赤の広場周辺であることを悟っており、中心部から離れた地区は必然的に被害が少なく、生きている者もいるのではと思ったのだ。痛みが彼の意識の鮮明さを奪っていく。
視界が暗くなり始めた頃、彼は目的の場所へと辿り着いた。
彼が勤めている小さな自動車工場は爆風と熱線で重大な損失を負っていた。しかし、中心部の建築物よりは原形を留めていて、彼は一縷の望みを浮かべるに至った。
だが工場の玄関口で目にしたのは再びの惨状だった。
熱線で壁に貼り付く人の影の跡、飛び散る工場の資材と人の手足、飛び交ううめき声。
工場の中に立つことができる人間は誰一人いなかった。
絶望に沈む彼の元に幾らかのうめき声が手向けられた。
「いわ……ノフ……」
「セミョーノフ工場長……!」
ひどい火傷と肉体の欠損が目立つ中年の男が今にも途絶えそうな声で少年に呼びかけた。
「生きていたか、良かった。」
「大丈夫じゃないですよ!何ですか!このひどい怪我は!僕が直ぐに助けますから!」
彼は肉体を今一度奮い立たせると、服を脱ぎ工場長の爆散した右腕に巻き止血を施した。イワノフはこの男に恩義があった。
余りの長時間労働で彼が部品を取り間違えた時、彼は不手際の為にナチスに射殺されそうになったことが一度あった。そんな時に彼を救ったのが目の前で死にかけている男だった。彼は私費を叩いて多額の賄賂を渡すことで変哲のない少年である彼を救ったのだ。
イワノフは必死の形相で恩人の千切れた腕を縛った。だが、医療知識のない彼に血を止めることはできなかった。ふとした時だった。セミョーノフ工場長が口を開いた。
「私は……まだマシな方だ。他の皆を、見てやってくれ。ここが……駄目になる前に。」
その言葉が真実であることにイワノフは数秒も要さなかった。目の前から目を反らしただけで、そこには筆舌に尽くしがたい光景があった。
既に工場内部の多くは火災で燃え尽き、いくつもの人間は火に焚べられ、既に助からぬ運命になっていた。
彼は恩人を火の手から一番遠い出口にまで運び出すと、周辺の倒れた人間たちの安否を確認した。
その中に一つ生きている有機物があった。
「サー……しゃ……」
それは内臓を撒き散らしながら蠢いていた。これも原型を留めておらず、喉を焼かれた彼らは声すら変化していたがアレクサンドルはそのシルエットで見抜いた。
彼は同じアパートに住んでいる学友だった。サーシャ、と彼を親しく呼ばうその死体は彼の幼馴染であるマクシム・アントーノフだった。
「マクーシカ、しっかりしろよ……おい……お前まで!」
「サーシャ……たすけて……死にたくない……」
力なく訴える声に彼はかつての日々を思い出した。ドイツ軍によってモスクワ各地で子供の教育が禁止される前、彼ら二人はいつも一緒にいた。校庭を駆け回り、子供らしい低俗な冗談で盛り上がったりした。今となっては2度と戻らない在りし日の記憶。その温かさと目の前の残酷な現実のギャップに彼は吐瀉しそうだった。
将来優秀な将軍になる少年は気づいていた。彼の容体は助かりようがないということを。
「もう二度と……もう二度と……」
少年は俯いて呟いた。
「さ、、、しゃ、、、?」
イワノフは歯を食いしばって残酷な現実を告げた。
「正直に言おう……俺にとってお前を助ける余裕はないし、できたとしてきっとお前は死ぬ!だとしたら……俺に出来ることは……!」
その時だった。イワノフの背中で藻掻く彼の恩人が彼の意図を汲みすっと拳銃を渡した。
彼は深々と後ろに頷くと、銃口を足元に向けた。
マクシムも意図を悟った。すると彼の肉体にあった微かな力も抜けた。
「つよく……なれ……友よ。強くなって……もう誰もこんな死を迎えないように……」
イワノフの胸にあるペンダントが濡れた。彼は嗚咽しながら叫んだ。
「約束する!俺は、おれは!これっきりもう泣かねえ!そして、理想を果たす日まで笑うことも無い!
俺は誰よりも強い将軍になってナチスから全てを取り返す!だから……お前は!安心して眠れ……」
そして彼は迅速に消えかかった生命の灯火を吹き消した。
もう工場は燃え尽きかけていた。外に出るしかあるまいと悟った彼は更に郊外へと向けて歩き出した。
だが彼の足はひどい怪我のせいで牛の如く遅い。
まだ工場からそう遠く離れない内のことであった。
「あぁ、雨が降ってきた。恵みの雨だな……」
イワノフの背中にいる工場長は独語するように言った。
だがイワノフの本能はそれを否定する。全身の血が冷えていくような恐怖感に突き動かされ、彼は叫んだ。
「何かやばい!これを浴びたら死ぬ!」
瞬間、彼の脳裏で一瞬にして本能が叫んだ理由が論理付けられる。
――あの爆弾が炸裂した後、爆煙が雲に向かって立ち昇って、空が曇った。そしてこの雨粒は黒い。ナチスはこの街を破壊するためにあの爆弾を使ったはず。確かにモスクワ中心部から近郊は完全に破壊された。だが、地平線上には街がある。一発では破壊しきれていないんだ。
だが一発ではモスクワを破壊できないのはあの兵器を作った奴ら自身ある程度試算の結果でわかるはず。
だとしたらモスクワを破壊するための「第二の矢」が必要となる。
それがきっとあの雲……毒物を含んだ雲を広範囲に離散させることなんじゃないのか?!
彼の直感と推論は当たっていた。事実この時に降ったのは放射線を含んだ「黒い雨」だったのだ。
この一瞬の閃きの力は後の彼の出世を支えていくことになる。
「瓦礫を探します!そこに隠れれば……!」
探さずともどこも瓦礫だらけであった。だが、もともと彼は非力である上、瓦礫を持ち上げようとすると腰が悲鳴を上げた。
そうして彼が苦慮しているときだった。
「イワノフ、私の下に隠れろ。それでこの雨を凌ぐんだ。」
「え……」
背中にいるセミョーノフはイワノフの背中から降りて、彼を無理やり押し倒した。そしてその上に覆いかぶさった。イワノフの身体が小さかったこともあり、彼の身体は完全に覆われた。
「何してるんですか!それじゃ……貴方は……!」
「けっ、何言ってんだ。お前の勝手な妄想で不安になってるのを鎮めようとしてるだけだ……」
しかし、彼は内心確信していた。聡明なイワノフの予想が外れるはずがないと。
「最強の将軍か……お前ならなれるだろうさ。」
「どいてくれ!俺は……あんたを助けなきゃ!」
だが、イワノフに抵抗する術は無かった。抑えつけられて動きをやめたことで、彼の体を動かしていた脳内麻薬の効果も切れてきた。
――
イワノフが再び意識を取り戻した時、既にセミョーノフ工場長はそばで息を引き取っていた。近くには吐瀉物の跡があった。彼は放射線の影響を受けて地獄の苦しみの中天へと昇っていったのだ。
突然の別れにイワノフは唖然としながら彼は十字を切った。
「東に逃げるんだ……逃げて……救う!皆を!」
空を覆っていた汚染された雲は晴れていた。彼は煉獄の最中にあるモスクワを抜けた。
核の業火に包まれる前地平線から現れたばかりの太陽は既に天高くまで昇っていた。
これがアレクサンドル・ミハイロヴィチ・イワノフが歩むことになる茨の人生の第一歩となる15歳の冬の一日だった。
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