第10話「消えゆく記録」



十日目の朝、一ノ瀬澪は昨日のことを思い出していた。


霧島教諭に写真を没収されたことが、どうしても納得できなかった。あの写真は葛城紗夜の存在を証明する貴重な証拠だったのに。


しかし、諦めるつもりはなかった。澪は別の方法を考えていた。


教室に入ると、澪は成瀬陸に声をかけた。


「陸、去年の春の写真、他にも持ってない?」


「春の写真?」陸は首をかしげた。「家にあるかもしれないけど、なんで?」


「昨日見た写真、もう一度確認したいの」


「ああ、あの写真ね」陸は思い出したような表情を見せた。「確か家に同じものがあるよ。今度持ってくる」


澪は安堵した。写真のコピーがあるなら、再度確認できる。


昼休みになると、陸は約束通り写真を持ってきた。


「これだよね?」


陸が差し出したのは、昨日見たものと同じ集合写真だった。日付も同じ、2023年4月15日。


澪は急いで写真を受け取った。


そして、息を呑んだ。


葛城紗夜がいた部分が、白く光って見えなくなっていた。


澪は目を凝らして確認した。確実に昨日はそこに葛城紗夜がいた。後ろの列の端で、少し硬い表情を浮かべて立っていた。


しかし今は、その部分だけが白く飛んでいる。まるで強い光に当てられて、映像が消えてしまったかのように。


「どうしたの?」陸が心配そうに尋ねた。


「この白い部分、昨日はなかった」澪は指差した。


「白い部分?」陸は写真を見た。「どこ?」


澪は愕然とした。陸には白い部分も見えていないのだ。


「後ろの列の端の、光っている部分」


「光ってる?」陸は首をかしげた。「普通に見えるけど」


澪は恐怖を感じた。自分にだけ見える異常現象。葛城紗夜の姿が、物理的に消去されつつある。


「写真、借りてもいい?」


「いいよ。でも何に使うの?」


「詳しく調べたいの」


澪は写真を受け取り、机の中にしまった。授業が終わったら、一人でゆっくりと確認したかった。


午後の授業中、澪は集中できなかった。頭の中では写真のことばかり考えている。なぜ葛城紗夜の部分だけが消えるのか。これは偶然なのか、それとも意図的なものなのか。


授業が終わると、澪は人気のない場所で写真を見返した。


白い部分は変わらずそこにあった。いや、昼休みより少し広がっているような気がした。


澪は戦慄した。時間が経つにつれて、消去の範囲が広がっている。


翌日の朝、澪は再び写真を確認した。


白い部分がさらに広がっていた。昨日は人物の輪郭部分だけだったのに、今は周囲の背景まで巻き込んでいる。


澪は必死に記憶を頼りに、葛城紗夜の姿を思い浮かべた。黒髪の少女、制服姿、少し硬い表情。しかし写真からその姿は消えつつある。


「このままでは」澪は小さくつぶやいた。「完全に消えてしまう」


その日の昼休み、澪は宮内ひよりに写真を見せた。


「ひより、この写真で何か気づくことある?」


ひよりは几帳面に写真を見た。


「去年の春の写真ね。懐かしいわ」


「人数は合ってる?」


ひよりは写真の人数を数えた。


「三十三人。クラスの人数と同じね」


澪は絶望的な気持ちになった。ひよりには最初から三十三人にしか見えていない。葛城紗夜の存在そのものが、記録から抹消されつつある。


「この後ろの列の端、何か変じゃない?」澪は最後の希望を込めて尋ねた。


ひよりは写真を注意深く見た。しかし首を振る。


「特に何も見えないわ。普通の写真よ」


澪は一人、孤独感に包まれた。自分だけが見えている異常現象。自分だけが感じている感情。


その日の夜、澪は写真を詳しく観察した。白い部分は確実に広がり続けている。このペースでは、数日後には完全に消えてしまうだろう。


澪はスマートフォンで写真を撮影した。デジタルデータとして保存しておけば、何かの手がかりになるかもしれない。


しかし、スマートフォンの画面に表示された写真には、白い部分が写っていなかった。まるで最初から何もなかったかのように、普通の集合写真が映っている。


澪は愕然とした。デジタル化しても、異常は記録されない。


翌日、澪は写真を確認した。


白い部分はさらに拡大していた。もはや人型の輪郭すらわからない状態になっている。


澪は成瀬陸に写真を返すことにした。


「ありがとう。借りてた写真」


「どうだった?何かわかった?」


澪は答えに困った。何と説明すればいいのだろう。


「特に何も」


陸は写真を受け取った。しかしその時、不思議そうな表情を見せた。


「あれ?この写真、少し変じゃない?」


澪の心臓が跳ね上がった。「変?」


「なんか、バランスが悪いというか」陸は写真を見つめた。「後ろの列の端が空きすぎてる気がする」


澪は息を呑んだ。陸も何かを感じ取っている。


「前はこんなじゃなかった気がするんだよね」陸は首をかしげた。「誰か写ってたような」


「誰か?」


「うーん」陸は考え込んだ。「思い出せないけど、なんか違和感がある」


澪は希望を見出した。完全に忘れられたわけではない。陸の記憶の奥に、まだ葛城紗夜の痕跡が残っている。


「どんな人だったと思う?」


「わからない」陸は頭を抱えた。「でも確実に、誰かいたような気がする」


しかし、数時間後に陸に聞いてみると、その違和感すらも忘れていた。


「写真?ああ、普通の集合写真だったよ。特に変わったところはなかった」


陸の記憶からも、葛城紗夜の痕跡が消去されていた。


その日の放課後、澪は図書室に向かった。もしかすると、他にも葛城紗夜の痕跡があるかもしれない。


図書室で、澪は以前に見つけたメモをもう一度確認してみた。様々な本に挟まれていた、葛城紗夜のメッセージ。


しかし、驚くべきことが起こっていた。


メモの文字が薄くなっていた。まるでインクが蒸発しているかのように、文字がかすれて読みにくくなっている。


澪は慌てて他のメモも確認した。どれも同じように文字が薄れている。中には完全に消えてしまったものもあった。


「そんな」澪は呟いた。「これも消されている」


図書室の奥の隠れ家も確認してみた。葛城紗夜がよく座っていたと思われる場所。


しかし、床の足跡も薄くなっていた。埃の積もり方も、他の場所と変わらなくなっている。まるで誰もそこに立ったことがないかのように。


澪は恐怖を感じた。葛城紗夜の存在を示すすべての痕跡が、系統的に消去されている。


その夜、澪は手帳を確認した。これまで記録してきた葛城紗夜に関する情報を見返そうとした。


しかし、信じられないことが起こっていた。


手帳の文字が、部分的ににじんで読めなくなっていた。「葛城紗夜」という名前の部分だけが、まるで水に濡れたかのように崩れている。


澪は必死に読み取ろうとしたが、文字は判別不能だった。


「これも」澪は震えた。「私の記録まで」


澪は新しいページに、改めて葛城紗夜のことを書こうとした。しかし、「葛城紗夜」と書こうとすると、ペンが急に重くなり、文字がうまく書けない。


見えない力が、澪の手を妨害しているかのようだった。


澪は何度も試したが、結果は同じだった。葛城紗夜の名前だけが、どうしても書けない。


翌日、澪は保健室に向かった。カルテがまだ残っているかもしれない。


しかし、田村先生に聞いても、「そんな生徒は知らない」という答えしか返ってこなかった。そして、こっそりとファイルキャビネットを確認してみたが、「葛城」のファイルは見つからなかった。


最初から存在していなかったかのように。


澪は絶望的な気持ちになった。すべての記録が消されている。写真、メモ、カルテ、そして澪の手帳まで。


葛城紗夜の存在を示すすべての証拠が、跡形もなく消去されつつある。


しかし、澪の記憶だけは残っていた。写真の中の葛城紗夜の顔、図書室でのメッセージ、夢の中での会話。すべてを鮮明に覚えている。


「記録は消せても」澪は小さくつぶやいた。「記憶は消せない」


その夜、澪は窓の外を見つめていた。夜空に星が輝いている。その中の一つが、葛城紗夜の魂のような気がした。


小さくて、遠くて、消えそうだけれど、確実に輝いている。


澪はその星に向かって、心の中で語りかけた。


「記録はすべて消された。でも、私の記憶は残ってる。あなたのことを、絶対に忘れない」


風が窓を揺らし、どこかから微かな声が聞こえたような気がした。


「ありがとう」


葛城紗夜の声だった。澪は微笑んだ。


記録は消せても、記憶は消せない。証拠は奪われても、心の中の真実は奪われない。


澪は葛城紗夜の最後の証人として、すべてを記憶に刻み続けるつもりだった。


翌朝、澪は最後の確認として、陸に昨日返した写真のことを聞いてみた。


「昨日の写真、覚えてる?」


陸は首をかしげた。「写真?何の写真?」


澪は愕然とした。陸は写真のことすら忘れている。


「去年の春の集合写真を貸してくれたでしょう?」


「集合写真?」陸はさらに困った表情を見せた。「そんなのあったっけ?」


完全に忘れられていた。写真の存在そのものが、陸の記憶から消去されている。


澪は一人、戦慄していた。記録の戦いには負けた。しかし、記憶の戦いでは勝った。


葛城紗夜は、澪の心の中で永遠に生き続ける。


それが、この戦いの真の勝利だった。


その日の昼休み、澪は図書室に向かった。もう葛城紗夜の痕跡は残っていないだろう。それでも、彼女がいた場所を確認したかった。


書架の奥の隠れ家に行くと、そこには本当に何もなかった。足跡も、気配も、すべて消えている。


しかし、澪はそこに立って、静かに語りかけた。


「紗夜ちゃん、すべての記録が消されました。でも、私の記憶は残っています。あなたがここにいたこと、あなたが感じていた孤独、すべて覚えています」


風が図書室の窓を揺らした。


「私が最後の証人です。あなたの存在を証明する、唯一の証人」


その時、澪の足元に一枚の紙が舞い落ちてきた。見上げると、本棚の隙間から落ちてきたようだった。


紙を拾い上げると、そこには薄い文字で書かれていた。


「ありがとう。あなたがいてくれて、私は救われました」


澪は涙を流した。最後のメッセージだった。


「これからも、心の中で一緒にいてください」


澪は頷いた。約束する。


図書室を出る時、澪は振り返った。もう何も見えないが、確実に葛城紗夜がそこにいる。澪の記憶の中に。


記録は消えた。しかし、記憶は永遠だ。


澪は葛城紗夜と、永遠につながっている。


それが、消えゆく記録に対する、澪の静かな勝利宣言だった。

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