第9話「写真という証拠」
九日目の朝、一ノ瀬澪は夢の記憶を頼りに、葛城紗夜の机を改めて調べることにした。
昨夜の夢での会話が、断片的ながら澪の心に残っていた。葛城紗夜の孤独、彼女が経験した記憶からの消去過程。そして、澪だけが彼女を覚えているという不思議な現象。
教室にはまだ数人の生徒しかいない。澪は葛城紗夜の机に近づいた。後ろから二番目の列、窓際の席。相変わらず誰も座っていない空の机。
これまで何度か調べたことはあったが、今度はもっと徹底的に探してみたいと思った。夢の中で彼女と話したことで、何か新しい手がかりが見つかるかもしれない。
澪は机の蓋をそっと開けた。
中は以前見た時と同じように整理されていた。教科書、ノート、筆記用具が整然と並んでいる。まるで持ち主が今朝も使ったかのように、きちんと管理されている。
澪は一つずつ確認していった。数学の教科書、国語のノート、理科のプリント。すべて一年前のものだが、新品同様の状態だった。
その時、机の奥に何かが挟まっているのを発見した。
手を伸ばして取り出すと、それは写真だった。集合写真のようで、何かの行事で撮影されたもののようだった。
澪は息を呑んだ。
写真には確かに、澪のクラスメイトたちが写っていた。成瀬陸、宮内ひより、山田、田中。一年前の顔立ちで、少し幼く見えるが間違いなく同じクラスの生徒たちだった。
そして、その中に見知らぬ少女がいた。
後ろの列の端に立つ、黒髪の少女。表情は少し硬く、カメラを見つめている。澪は心臓が高鳴った。
この少女は葛城紗夜に違いない。
澪は写真を見つめていた。夢の中で会った少女の顔と、写真の少女の顔が重なる。同じ目、同じ口元、同じ髪型。
間違いなく葛城紗夜だった。
写真の裏を見ると、日付が書かれていた。「2023年4月15日 2年B組」。去年の春、新学期が始まって間もない頃の写真だった。
澪は興奮していた。これは決定的な証拠だ。葛城紗夜が確実にこのクラスにいたことを証明する、動かしがたい証拠。
しかし同時に、疑問も湧いた。なぜ澪はこの写真を覚えていないのだろう。去年の春なら、澪も一緒に写真を撮ったはずだ。
澪は写真の中の自分を探した。前列の左から三番目に、確かに澪がいた。一年前の澪で、今より少し髪が短い。
つまり、澪は葛城紗夜と一緒に写真を撮っていたのだ。それなのに、この写真の記憶がない。
澪は混乱していた。なぜ覚えていないのだろう。
その時、教室に成瀬陸が入ってきた。
「おはよう、澪。早いね」
「おはよう」澪は慌てて写真を隠そうとしたが、思い直した。陸に見せてみることにした。
「この写真、覚えてる?」
澪は写真を陸に見せた。
陸は写真を受け取り、じっと見つめた。
「懐かしいね。去年の春の写真だ」
「みんな写ってるよね?」
「うん」陸は写真を指差しながら確認した。「俺もいるし、ひよりちゃんも、山田も。みんなちゃんと写ってる」
澪は葛城紗夜の部分を注意深く観察した。陸はその少女をどう認識するのだろう。
「全員で何人写ってると思う?」澪は尋ねた。
陸は写真の人数を数えた。
「三十三人だね。クラスの人数と同じ」
澪は愕然とした。澪には確実に三十四人が写っているように見える。しかし陸には三十三人にしか見えていない。
「この後ろの列の端は?」澪は葛城紗夜がいる部分を指差した。
陸は澪が指した部分を見た。しかし首をかしげる。
「端?誰も写ってないよ。空いてるだけ」
澪は戦慄した。陸には葛城紗夜が見えていない。写真に写っているにも関わらず、認識できていない。
その時、宮内ひよりも教室に入ってきた。
「おはよう。何の話をしてるの?」
「昔の写真を見てたんだ」陸がひよりに写真を見せた。
ひよりは写真を手に取った。几帳面な彼女は、詳しく写真を見ていく。
「懐かしいわね。去年の春の写真」
「人数は合ってる?」澪が尋ねた。
ひよりは写真の人数を数えた。
「三十三人ね。クラス全員が写ってるわ」
澪は絶望的な気持ちになった。ひよりにも見えていない。澪にははっきりと見える葛城紗夜の姿が、他の人には全く見えていない。
澪は写真を受け取り、改めて確認した。間違いない。葛城紗夜は確実にそこに写っている。
しかし、澪以外には誰も彼女を認識できない。
午前中の授業が始まると、澪は写真を机の中にしまった。しかし、頭の中ではその写真のことばかり考えていた。
なぜ澪にだけ見えるのか。なぜ他の人には見えないのか。
そして、なぜ澪はその写真を撮った記憶がないのか。
昼休みになると、澪は一人で写真を見返していた。葛城紗夜の顔をじっと見つめる。
確実に彼女はそこにいた。クラスメイトと一緒に、少し硬い表情で写真に写っている。
しかし、その記憶が澪にはない。
澪は写真の日付を再確認した。2023年4月15日。去年の春、確実に学校にいた日だ。
なぜ覚えていないのだろう。
その時、澪は気づいた。自分の記憶も、部分的に操作されているのかもしれない。葛城紗夜に関する記憶だけが、抜き取られているのかもしれない。
澪は背筋が寒くなった。記憶を操作する力があるとすれば、それはどれほど強大な力なのだろう。
午後の授業中、澪は他にも写真がないか考えていた。学校には様々な行事があり、その度に写真が撮られているはずだ。
もしかすると、他の写真にも葛城紗夜が写っているかもしれない。
放課後、澪は再び葛城紗夜の机に向かった。他に何か手がかりがないか、詳しく調べたかった。
机の中をさらに探ると、他にもいくつかの写真を見つけた。
体育祭の写真、文化祭の写真、遠足の写真。すべてにクラスメイトたちと一緒に写る葛城紗夜の姿があった。
澪は一枚一枚確認していった。どの写真でも、葛城紗夜は少し端の方に写っている。まるで遠慮がちに参加しているかのように。
表情もどこか寂しそうだった。笑ってはいるが、心からの笑顔ではない。何かを我慢しているような、無理をしているような笑顔。
澪は胸が痛くなった。葛城紗夜は孤独だったのだろう。クラスの行事に参加しても、本当の意味で仲間に受け入れられていなかったのかもしれない。
その時、澪は一枚の写真に注目した。
文化祭の写真で、クラス全員が教室で撮ったもの。その写真の中で、葛城紗夜だけが少し離れた場所に立っている。
まるで輪に入れないまま、一人で立っているかのように。
澪は涙が出そうになった。どれほど孤独だったのだろう。どれほど辛かったのだろう。
その時、背後から声がかけられた。
「一ノ瀬さん」
振り返ると、霧島教諭が立っていた。いつの間に近づいてきたのか、全く気づかなかった。
「何をしているんですか?」
「机の整理を手伝ってました」澪は咄嗟に嘘をついた。
「その机は使われていません」霧島教諭は冷たく言った。「触る必要はありません」
「すみません」
霧島教諭は澪の手にある写真を見た。その瞬間、表情が変わった。
「それは何ですか?」
「クラスの写真です」
「見せてください」
澪は写真を渡した。霧島教諭はじっと写真を見つめている。
「この写真はどこにありましたか?」
「机の中に」
霧島教諭の表情がさらに厳しくなった。
「机の中を勝手に調べるのは、適切ではありません」
「すみません」
「これらの写真は学校で保管します」
澪は慌てた。「でも、クラスの写真なので」
「管理上の問題があります」霧島教諭は写真をすべて取り上げた。「今後は、余計な詮索はしないでください」
霧島教諭は澪を睨みつけた。その目には、明確な警告の意味があった。
「分かりましたか?」
「はい」澪は仕方なく頷いた。
霧島教諭は澪の前を立ち去った。澪は一人、空の机の前に残された。
写真を奪われてしまった。葛城紗夜の存在を証明する貴重な証拠を。
しかし、澪の記憶には残っている。葛城紗夜の顔、その表情、写真の中での孤独な立ち位置。すべてを覚えている。
家に帰る道すがら、澪は今日の発見について考えていた。
写真という物理的証拠を見つけることができた。葛城紗夜が確実に存在していたことを証明する決定的な証拠。
しかし、その証拠は澪以外には認識されない。まるで澪だけに見える幻のように。
そして、霧島教諭の反応も気になった。なぜあんなに慌てて写真を没収したのだろう。
澪は一つの仮説を立てた。
学校の中に、葛城紗夜の存在を隠そうとする力がある。記録からは名前を消すことはできないが、人々の記憶からは消去している。
そして、澪だけがその力の影響を受けていない。
理由はわからない。しかし、事実として澪だけが葛城紗夜を覚えている。
その夜、澪は手帳に今日見た写真の内容を記録した。日付、場所、写っていた人々、葛城紗夜の位置や表情。すべてを詳細に書き留めた。
写真は奪われても、記憶は奪えない。
澪は葛城紗夜の記録係として、すべてを覚え続けるつもりだった。
窓の外では夜風が吹いている。桜の花びらが舞い散って、街灯に照らされている。
その光景を見ていると、澪は葛城紗夜の姿を思い浮かべた。写真の中で孤独に立っていた少女の姿を。
「大丈夫」澪は小さくつぶやいた。「私が覚えているから。写真の中のあなたも、今のあなたも、すべて覚えているから」
風が強くなり、窓ガラスが軽く音を立てた。その音が、まるで葛城紗夜の返事のように聞こえた。
澪は微笑んだ。明日も、葛城紗夜のために戦い続けよう。
写真は奪われた。しかし、澪の心の中には、葛城紗夜の姿が永遠に刻まれていた。
それは誰にも奪うことのできない、かけがえのない宝物だった。
澪は手帳を閉じ、ベッドに横になった。今日は疲れていたが、心は満たされていた。
葛城紗夜の新たな一面を知ることができた。写真の中の彼女は、生きていた時の姿。仲間と一緒にいても孤独だった、切ない姿。
澪はその記憶を大切に守り続けるつもりだった。
たとえ世界中の人が忘れても、澪だけは覚えている。
それが、葛城紗夜への愛情であり、澪の使命でもあった。
深夜、澪は今日見た写真を思い出していた。
葛城紗夜の表情、立ち位置、他の生徒との距離感。すべてが彼女の孤独を物語っていた。
しかし同時に、確実に彼女がそこに存在していたことも証明していた。
写真は物語る。真実は隠せない。
澪は葛城紗夜の真実を、永遠に記憶の中に保存し続けるつもりだった。
それが、消去される少女への、澪なりの愛情表現だった。
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