白華舟 - ごくらくせん -

路地猫みのる

人力車

 ぴちょ、ぴちょ。

 濡れる音は、空がこぼした雫か、自分の体からあふれた雫か。


 ロアールは、簡素な木製の長椅子に腰かけて泣いていた。

 そこは、乗り合い馬車の停留所のようだった。ささくれの目立つ粗末な長椅子と、申し訳程度に広がる穴の開きかけた日よけ。こんな霧雨の夜には、なんの役にも立たないおんぼろ設備だ。


(ここは、どこかしら?)

 ふと、気になって顔を上げるロアール。

 白いおもては若くすべらかで、その皮膚にしだれかかる月光金髪アウローラブロンドは、闇夜にもほの明るく浮かび上がる。

 おずおずと、ロアールが見下ろす両手は、水仕事のために荒れていたが白く小さな女性らしい形だ。赤く、あるいは黒く、ドロドロに溶けだしたあのおぞましい皮膚ではない。

 紫陽花あじさいのような淡い薄紫色の双眸は、一時いっときだけ涙を流すことをやめた。


(炎の中で、私をなじる民衆の前で、私を捨てた家族の前で――私は死んだのではなかったかしら)

 最後の記憶は、天に巻き上がるような激しい炎。周囲に満ちる生き物の焼けるニオイ。なによりも生々しい痛み、熱、苦しみ。

 炎はじっくりと身を焦がした。苦痛が体を引き裂いても、簡単に意識が失われることはない。縄が焼け落ち、両手足の自由を得たロアールは、炎と空気を掻き分けてもだえ苦しみ、焦土の中にようやくの安息を見出したのだった。


 それが今は。

 奥の見えない、霧に包まれた闇。月も星もなく、あるのはおんぼろ停留所だけ。


 ここは、どこなのだろう。何故、こんなところに座っているのだろう。何を待っているのだろう。


 ギッ、ギッ、ギッ。


 金属のきしむ音が、ロアールの意識を打つ。

 闇を探ると、おそらく右の奥のほうから、何かがやってくる。


 ギッ、ギッ、ギッ、キーィ。


 それは、停留所の前で停車した。

 ロアールは、紫陽花の瞳をぱちくりと瞬いて、目の前のそれを見つめる。


 乗り物の名前で言うなら、それは人力車というものだと、書物から得た知識が教えてくれる。馬ではなく人間がく二輪の車。黒いほろと赤い座席のその車は、どうやら一人乗りのようだ。

「さぁ、お嬢さん、どうぞお乗りなさい」

 告げた車夫の声は、意外にやわらかくあたたかかった。

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