第3話 上書き団
アジトの居間に到着する。直後の印象は、甘い香り。ふわりと空間に漂うそれは、おそらく……バターの香り。
“死のない男”と対峙したあの日から数えて三日後。直近の休日だからという理由で、“歪み”に関する説明会を開くから来いと、隣席のハスミに呼びつけられたのだ。マンションのエントランスで彼女に迎えられ、一緒に部屋へ上がってきた次第である。
「……いらっしゃい」
黒いエプロン姿のツララが、無表情で俺たちを出迎える。
「おー、めっちゃいい匂いするな! どう、うまく焼けてる?」
「他人事みたいに尋ねないで。 あんたに頼まれて焼いてるんだから」
「わーるかったってば! ごめんごめん」
へらりと謝罪をしたハスミは、がしっと俺の肩を抱き、「ほらほら、今日はアカネのための会なんだからさ。険悪になるなよ」などと続ける。
――全面的にあんたのせいなんだけど?
という彼女の思考は、読むまでもなく分かった。……というか俺もそう思う。とりあえず、席に座って。という彼女の一言に合わせ、椅子に腰を下ろした。
天井に向かって立ち上る湯気、アールグレイの高潔な香り。先ほどツララが運んできてくれたティーカップを手に取る。
「砂糖とミルク、いる?」
「いや、大丈夫だ」
幼く見える俺の外見からすれば意外だったのかもしれない。彼女は一瞬だけ間をおいて、そう、とだけ告げた。ツララはエプロンを外して、キッチンのカウンターに置いてある幾つかの皿を持ってきた。白い陶器の皿には、パウンドケーキが一切れのっている。
「これ……ツララが作ったのか?」
「ええ」
「料理、得意なんだな……」
「得意というほどではないけれど」
その会話を切り上げるようにハスミが立ち上がる。
「さーて準備もできたことだし、歓迎パーティを始めようぜ!」
「……パーティというか、お茶会でしょこれ」
「まーまー野暮なことは言わずに! 今日の主役はお前だぜ、アカネちゃん。上書き団へようこそ!」
的確なツララのツッコミをするりとかわして、彼女は馴れ馴れしく俺の肩を揺する。
「は……? 上書き団?」
眉間にしわを寄せる俺を尻目に、あれ、初耳だっけ? とハスミは白々しく言葉を続ける。
「オレたち三人で“歪み”を上書きしちゃおうぜ! ってことでさ」
ハスミはうやうやしく俺の前で礼をして、手を取る。そしてわざとらしくカッコつけて作った声で。
「オレが団長のハスミだ、よろしくな」
この人たちこんなノリなの……? ちらりと氷柱の方を見れば、普段通りの伏目がちな視線とかち合う。
「なんか、そういうことになってるみたい」
……これ、ハスミが勝手に言ってるだけだな。案の定だけど……。
「聞きたいことが山ほどあるんだが。てか何が歓迎会だ、一言も聞いてない!」
「まーまー、まーまー! とりあえず焼きたてのケーキもあることだし、話は後で、な?」
腹が減っては何とやらって言うだろ。カラカラと陽気に笑いながら、ハスミが強引に仕切ってしまう。そんな流れで、「歓迎パーティ」なんて名目の奇怪なお茶会が始まってしまい、ひとまずはツララが準備してくれたケーキを食べる運びとなった。
生クリームが添えられたパウンドケーキ。その表面は白い粉糖のシロップでコーティングされており、果物のジャム、ピスタチオと思しきナッツが控えめにトッピングされていた。
「これは何のジャムなんだ?」
「アプリコットジャム。つまりアンズ」
「へえ……こんなおしゃれなお菓子、初めて食べる」
というか、そもそも甘いお菓子を食べることすら久しぶりだと言えた。普段は倹約して生活している上、食も細く間食をすることは滅多になかった。
「食べて、いいのか?」
「もちろん。ハスミが貴女のためにって言うから焼いたのだし」
そうか、とデザート用のフォークを生地に刺す。生クリームを掬い取るように一口。口の中にふわりとバターの香りが広がる。しっとりとした食感の中に、主張しすぎない甘み。アプリコットジャムのかすかな酸味と、アクセントになるピスタチオの風味。粉糖のコーティングからは、わずかに柑橘の香りがする。
「……美味しい……!」
「なら良かった」
頬が自然と綻んだ。ケーキって、こんなに美味しいものなのか。というか、ツララのケーキが特段おいしいのだろうか? 目の前にいるツララはやっぱり無表情だけど、いつもより柔和な雰囲気を感じた。気のせいかもしれないが。
「お店のケーキって言われても信じるレベルだぞ……すごいな、ツララ」
「そう……?」
小さく首を傾げた彼女は、神妙な面持ちである。その様子に人間味が薄くて、彼女のミステリアスさを印象付ける。ハスミの印象が強すぎてあまり違和感を覚えていなかったが、結構この人も不思議だ。
おかわりした二切れ目のケーキも食べ終えて、ぬるくなった紅茶を飲み干す。
「あー美味しかった。やっぱり家事うまいよな~ツララは」
「あんたはもう少し練習したら?」
「えーめんどくさい」
先に食べ終わったハスミはソファで寝転がりながら、皿を洗っているツララに声を投げかけた。パーティだとか言い出した張本人のくせに、招いた俺を放ってくつろぐって…………常識からズレた言動に、もはや突っ込む気力すら失せる。
「そろそろ、本題に入ってほしいところなんだが」
「あーはいはい、なんでも聞いていいぞ」
いままでもったいぶっていた割にあっさりとしている。てか説明するって言いだしたわりに雑! つかめない性格だなあとつくづく思う。
「じゃあ、まず一旦俺が把握してる限りの情報を整理してみる」
声に出しながら、俺が知っている情報を羅列していく。――ハスミはリエゾンとかいうよく分からない世界の住人で、お偉いさんに没収された“書き換えの鈴”を取り戻そうとしてる。それで俺に協力を頼んだ。リエゾン人は「世界のバグ」である“歪み”を正すのが使命で、鈴を使うことで強力な“歪み”も浄化できる。ただし軽度の“歪み”なら鈴が無くても対処可能で、ハスミたちはその任務を遂行している自称「上書き団」ってワケか。情報量が多い!
「……と、俺が知ってる限りこんな感じなんだが、あってるか?」
「うんうん、そんなとこ」
ハスミが得意げに腕を組んで頷く。「となるとー」と間延びした声を発しながら、右手の人差し指を顎に当てて天井を仰いだ。
「ま、とりあえずリエゾンがどんなとこかってのは軽く説明しとこうか」
「ああ」
以前聞いた時には確か、“世界と世界を繋ぐセカイ”とかなんとか言ってたような。思い返しながら彼女の説明を待つ。
「ん~、説明が難しいんだけど……あらゆる世界と繋がっていて、それらを管理してる裏世界。みたいな感じ?」
首をかしげながら、神妙な顔で無意識らしい手振りが宙をうろうろしている。
「なんていえばいいんだろ。こう……WEBサイトのみんなが見れる部分が表の世界だとすれば、そのサイトを構築してるソースコードの部分っていうか」
「あー……何となく分かるような分からないような」
「舞台で言えばバックヤード? いや脚本とかもっと根本的な……なんだろ。ともかくそんな感じ!」
雑だな! まあ、説明が難しいというのは何となく察せられるが。
「で、リエゾンの人間はそのソースコードを書き加えたり、書き換えたりっていう作業ができるわけ」
「それに必要なのが“書き換えの鈴”ってワケか」
「さっすが飲み込みが早い!」
ぱん、と音を立てながら、ハスミは胸の前で両手を合わせて言葉を続ける。
「まー鈴はいわばライセンス? 管理者権限的な!」
「なるほどな。……それで、俺がいないといけない理由ってのは?」
“死のない男”の一件で、確かに超常的な存在や、それを消滅させる能力、リエゾン人の存在はこの目で確かめることができた。それに、あの鈴の力で俺の“歪み”――あの耳鳴りを手放せるのであれば有難い話ではある。だが、そのために今後もあんな危険な存在と向き合わなければならないのか? そこまでして“歪み”を手放すことに意味があるのか? ――それが俺の正直な感想で、浮かんでくる疑問の筆頭だった。
「“歪み”同士が引き付けあうって話もあったよな。それと関係しているのか?」
矢継ぎ早に言葉をつなげる。
「あー、そんじゃ“歪み”の性質に関しても説明しとこうか」
相も変わらず軽薄なノリで、目前に居る異界人はにこやかに説明を続ける。
「“歪み”っていうのはそもそも、その世界に存在し得ないはずの事象だ。そこまでは分かるよね?」
「ああ。時空のバグってやつだろ」
そうそう! 目を閉じて笑うハスミ。目尻の長い睫毛を眺めながら、こんなに美人なのにどうしてこうも怪しく見えるんだろうと関係ないことを考えだしそうになる。
「でさ、大きく三つの性質があるんだよね。じゃあまず一つ目は?」
あまりにも唐突に会話のボールが投げ渡されたので、一瞬硬直してしまった。すぐに平静を取り戻し、知っている一つを答える。
「“歪み”同士は引き付けあう」
「大正解! そんじゃツララ、二つ目は?」
ツララは突然のフリに若干怪訝そうな表情をした。ように見えたが、やっぱり分類としては無表情の内に入る顔付きだったので、俺の気のせいかもしれなかった。ツララは淡々と言葉を落とす。
「……“歪み”同士が関わることで、侵蝕が緩和される」
「またまた正解!」
クイズ番組の司会者にでもなったつもりなのか。ハスミは大げさに拍手をしてみせる。
「じゃ、最後の三つ目はオレが教えてあげちゃおう」
そう述べた途端に、貼り付けたような笑顔が消え失せた。
「一定レベルまで進行すると、世界から抹消される」
凪いだ気迫に圧倒されて、喉が詰まった。抹消って……? ドオオ、と濁流のように押し寄せるビジョン。鮮烈に焼き付けられた記憶が、脳内で再生される。人間の形を辛うじて残している異形の最期……――光に包まれて、跡形もなく消え失せてしまった男。あれが元は同じ人間であったことをようやく噛みしめた。膝が、震えていた。
「ごめんな、怖がらせちゃったか?」
ハスミが気に病んだ素振りで、気まずそうに俺の顔をのぞきこむ。
「だからこそ、オレの責任でそうなるのは絶対に回避したい。本気だ」
真剣な眼差しに射抜かれる。俺を庇った時と同じだった。
「……要するに、上書き団の活動として他の“歪み”との接触をして侵蝕を緩和し、最終的には貴女の“歪み”を除去したいということ」
皿洗いを終えたツララが、先ほどの説明を補いながら席に着いた。そうしてハスミが、へらりと力なく笑って。
「そういう訳なんだ。協力してもらえないか?」
「……逆に、協力しない選択肢が見当たらないんだが」
――それはそう。……一周回って笑えるくらい、冷静なツララの言葉が耳鳴りとともに届いた。
そんな経緯でハスミたちとの協力を承諾し、上書き団への入団を余儀なくされたわけだが。じゃ~アカネの入団を祝して乾杯だ~! などと謎のハイテンションでサイダーのボトルが開かれ、しばらく「オレたち三人ならどうとでもなるさ!」「いや~ここも賑やかになるなあ」「二人じゃ寂しかったんだよ~」などのハスミの語りを聞き流していたところ。不意に投げかけられた問い……というか決めつけ。
「あ、ところでさ。キミ明日ヒマだろ?」
「なんで決めつけてくるんだよ……?」
失礼な物言いに呆れ声で一言告げてから、まあ確かに予定はないが……と不本意ながら付け足す。
「じゃあ泊まってけよ! アジトに慣れるのも兼ねてさ」
「は……? 何も準備していないが」
「ゲート開いてやるから。荷物とってこい」
「ゲート?」
俺の返答を待たずにハスミは壁に手をかざす。すると、なんだかすっかり見慣れてしまった空間のゆがみが、ぽっかりと口を開いていた。ああ、これのことか。
「準備終わるまで開いとくからさ!」
これアレだな。断ってもYESと言うまで解放してくれないパターンの奴だな……よく分からない悟りを開き、せっかくだからとここに泊まる覚悟を決めた。
「……そういえば、このゲートってのもリエゾン人の特殊能力なのか?」
「あーそうそう! リエゾンを経由することであらゆる世界のあらゆる座標に直行できるんだ」
便利だろ? と毒気もなく笑うから。こいつのことが憎めなくなってしまった。
「これでいいんだろ、これで」
慌てて荷を詰めたリュックサックを床に置く。
「よっしゃ! これで準備は整ったな。オレこういうの憧れてたんだよなー!」
ハスミが無邪気に目を輝かせる。底の知れない魔力と言動に、不釣り合いな子供っぽさ。先日のハザマやレモンといい、リエゾンの住人は俗世を離れた存在ゆえか、皆独特の雰囲気を纏っている気がする。
「待ってる間に準備してたんだ、ゲームやろうぜ!」
俺の袖をぐいと引っ張る。引き入れられた部屋には、薄い液晶画面にいくつかのコードでゲーム機が接続してあった。
「これ最近流行ってるやつだよな」
クラスメイトの話題にもしばしば上がっているゲームハードだ。発売されて間もない頃は品薄状態で価格も高騰していたと聞く。存在は知っていたが、値も張るし興味も薄かったので触れる機会は今までなかった。
「そ! こっちの世界に来てみたら面白そうなのが出回ってたからさ~」
早速買っちゃったんだよね~! けたけたと屈託なく笑って、彼女はコントローラーを俺に手渡す。
「……俺、ゲームなんてしたことないぞ」
「操作教えてやるから! 心配すんなって」
そんなやりとりの数十分後。
……――WINER AKANE LOSER HASUMI
画面の表示、発音良く読み上げられる文字列。
「よし……!」
「はあー!? おかしくね? 初めてとか嘘だろ!」
「あんたが弱いだけでしょ。何も考えずに突っ込むんだから」
文句を垂れるハスミに、試合を見ていたツララが冷たくコメントする。
「えー、こういうのってフィーリングじゃないの?」
「こういうのはテクニック。現実ではあんたの魔力でごり押してるけど、ゲームには制限があるんだから」
対戦ゲームを初めて一時間程度。序盤は慣れない操作で負けてばかりだったが、次第に慣れてきてハスミには連勝中である。負ける度にキャラクターを変えるハスミに、固定キャラで堅実にコンボを狙うツララ。ゲームをプレイする中でも二人の性格が見て取れるのが面白いところだ。
そのうち、連敗を続けたハスミはコントローラーを投げ出して言った。
「あーもうやめやめ! 今度はこっち!」
彼女はゲーム機の電源を切り、取り出したすごろく系ゲームのカセットを差し込む。
「こっちに関しては自信あるからな!」
意気揚々と笑みを深めるハスミの横で、ツララは「この人、アイテムの引きとダイス運は異常に良いから」と教えてくれた。
しばらくはこの調子で、テレビゲームでの対戦が続いた。
「そろそろ腹減ってきたなー」
ゲームにも疲れてきた頃。ハスミの一声を聞き、時計を見れば午後七時だ。確かに俺もお腹が空いてきた頃だった。いい加減やめにするか、とハスミがゲーム機の電源を切る。
「夕飯どうするんだ?」
ケーブルの片づけを手伝いながら尋ねる。
「食材なら一応ある。二人でなんか作ればいーんじゃね?」
「当然のように自分を抜くな」
俺の問いにハスミが答え、それにツララがツッコミを入れた。冷静な彼女も、ハスミに対してはどこか語気が強い。あ、ばれた? と舌を出すハスミ。片づけが終わった途端に、彼女はツララに腕を引かれてキッチンへと連行されたのだった。
「オレこういう作業苦手なんだけどー」
ダイニングテーブルの前でハスミが不服気にこぼす。彼女はたどたどしいピーラー使いでニンジンの皮をむいている最中である。
対してツララは、包丁でするするとジャガイモの皮をむき、熟練した様子で芽を取り除いていく。戦闘でこそ万能感のあったハスミだが、案外こういうところは不器用で、存外に生活力がないことが分かった。
「食べるのなら手伝うのが道理でしょ」
「ちぇー」
ツララの隣でトマトを切っている俺は、そんな他愛もない二人の会話が可笑しく思えて、でも笑ってしまうのも照れくさく。こみ上げる笑いを喉の内で抑えた。
「えっと、他には何の具材をいれるんだ?」
「……ベーコンとか」
今日のメニューはミネストローネスープ。作ったことのないメニューだったが、レシピはツララが教えてくれるそうだ。物の少ない冷蔵庫を開けて探すも、ベーコンは見当たらない。
「無いみたいだぞ。ウインナーならある」
「じゃあそれでいい、鍋に入れて」
「分かった」
「……後は煮えるのを待つだけ」
材料を鍋に入れ終え、ツララが圧力鍋のふたを閉める。
「はー、やっと解放された~!」
「いや、お前ニンジンの皮むいて切っただけだろ」
面倒くさそうに手伝いをしていたハスミが軽やかな口調でそう述べるので、吹き出しそうになる。ハスミはその一言をスルーしてソファーに寝転がり、すぐさまファッション誌を読み始めたのだった。
「アカネが料理できて助かった。いつもこんな調子だから、あの人」
「こちらこそ……その、教えてくれてありがとな」
「別に。気にしないで」
彼女はさらりと流すけれど、落ち着いた様子で懇切丁寧にレシピを教えてくれた。感情の機微が見えないだけで、根は優しい人なのだろうという気がした。
――「できたから、自分の分持って行って」
まるで母親のようなツララの呼びかけ。その声に反応して、ハスミがキッチンのカウンターまで歩いてくる。俺はスープを煮る間に作ったサラダと一緒に、自分の分のスープを運んだ。少し後で、ツララが人数分のパンを持ってきてくれた。
三人とも席に着き、食事前の挨拶をする。まずスプーンをつけたのはミネストローネスープ。一さじ口に含めば、野菜の甘みとコンソメの旨みが舌を温める。初めて作ったけれど、ちゃんと美味しい。次に掬ったのはウインナー。くるりとそっくりかえった、その見た目が面白かった。
「ウインナーって、圧力鍋にかけるとこうなるんだな」
「私も初めて知った。いつもはベーコン入れてるから」
口に入れれば、ふわりとした歯触りが新鮮だ。普段から自炊はしているが、長く煮る料理はほとんど作ったことがなく、圧力鍋を使うのも初めてで。こうやって何人かで料理をするのも、意外と楽しいものだな、と思ったりして。
――食事を終えて、各々で食器をシンクへ持っていく。
「ハスミ、食器洗って」
「へ、俺?」
「作るときはほとんど任せっきりだったでしょ」
「ニンジンは準備したのに~?」
ツララが冷たい視線を向ける。分かったよもー、と緩慢にハスミが立ち上がった。
「アカネは先にシャワー浴びてきたら」
「えっと、浴室ってどこだ?」
ツララは俺をバスルームに案内して、軽く設備の説明をしてくれた。彼女が去った後、自分の部屋に戻って着替えを持ち出し、更衣室の扉を閉めた。
コックをひねってシャワーを浴びる。暖かい湯に包まれながら、今日一日を回想してみる。……食べたことのないケーキを食べて、触ったことのないゲームで遊び、自分以外の誰かと食卓を囲む。足を踏み入れるときには躊躇っていたはずなのに。あれだけ深刻な事実を告げられた後でこんなに危機感がないのは、我ながらどうかと思うが――俺は一人じゃないと思えたからだろうか。思い返してみても、不安を感じた時間なんてほんの一瞬だけだった。ただ純粋に楽しかったのだ。
誰かと作る夕食が、こんなに美味しくて、一人じゃない夜が、こんなに明るいことを、自分はもう忘れかけていた気がする。肌を滑っていく熱、お湯を止めて石鹸を泡立てる。こんな日々も悪くない……自分は、ここにいてもいいのかもしれない。そう思ったら、なんだかじわりと胸が熱くなって、少しだけ鼻先が痛んだ。
「おーあがったか」
パジャマで居間に戻れば、ハスミに声をかけられた。
「ツララ、次シャワー浴びてきていいぞ」
「じゃあお先に」
ハスミに促され、入れ違いでツララが風呂場へ向かう。
二人になって静かになった居間。どうだった、とハスミが静かに笑んだ。
「何がだよ」
「今日一日、ここで過ごしてみて」
ニヤリと目を細める。シャワーを浴びながら考えていたことを見透かされたようで、どこか悔しい。俺はつん、とそっぽを向いて、一言だけ言った。
「……悪くは、なかった」
素直じゃねえなあ、とハスミは眉を下げて笑う。それをよそ目に、俺は与えられた自室へ戻っていった。
ドライヤーで髪も乾かし終え、することもなくベッドに寝転がる。時刻は二十一時過ぎ、まだ眠くはないな、とぼんやり天井を眺めていた時。コンコン、とドアをノックされた。起き上がってから、何だ? と返せばドアが開けられ、ラフに髪を結んだハスミが立っていた。
「一緒にトランプしよーぜ!」
よく見れば、後ろにはパジャマ姿のツララも立っている。
「……今行く」
フローリングに足を降ろした。
……――ババ抜き、ぶたのしっぽと続いて、大富豪を何度も繰り返すうちに随分夜も更けた。二十五時前、あくび交じりに歯を磨いたら、各々の部屋に戻る。
静かになってから、今更。これって、友人同士のいわゆるお泊り会じゃないかと気付く。思い返せば、今までここまで立ち入った関係の友人はできたことがなかった。そもそも、こういう関係性というのは、長い年月を要するものだとも思っていた。
まだ友人だとすら思っていなかった、それどころか疑っていた相手と、旧友のように遊ぶ、話す、食事をする……――それが本当は新鮮で、認めたくない胸の高鳴りがくすぶっていた。
今日の事を思い返すと笑みがこぼれ、それがなんだか悔しい。……でも、それよりも、友人と呼べそうな人に出会えたことが、その日の俺には単純に嬉しかった。楽しかった一日の余韻に、落ち着かなくて寝返りを打つ。じんわりと暖かいその気持ちは、とくとくと鳴る鼓動の中に居座っている。布団の中でうごめくたび、だんだんと目が冴えてくる。……いよいよ本当に眠れそうもなかった。
この興奮にうずいて、意味もなく居間へ行ってみる。だれもいないはずのその部屋に、人の気配がした。気付かれないように、暗い廊下からちらりとのぞいた。窓の外の三日月、ぼんやりとした光。肩を覆う透き通った髪の毛が、月光を通して青白く映える。ツララだった。
「…………眠れない?」
振り返った彼女が声を発する。それに応じて俺は小さくうなずいた。どうやらツララは水を飲みに来たらしく、手の中にはグラスがあった。
「眠れないのなら、少し話をしてもいいけど」
「えっ」
「……私もそんなに眠くないから」
「じゃあ、頼む」
夜風にたなびくカーテン、濃紺の空が見下ろしている。
「えっと、今日はありがとな。……楽しかった」
予期していなかった言葉なのか、彼女は無言で俺の目を見た。少し驚いているのだろうか。
「……私も、退屈しなかった」
「もし良かったら……また一緒に料理、してくれないか?」
「ええ、構わない。次は、甘いものでも作る?」
「そうしよう」
今日の話も一段落ついて、しばしの沈黙が訪れる。唐突かもしれないけど、彼女に聞きたいことがあった。話を切り出すのは苦手だったが、頑張って口を開いた。
「その……ツララは、どんな世界に住んでるんだ?」
「私に帰る世界はない。故郷の世界はあるけれど、ここが家代わり」
「そう、なのか」
タブーに触れてしまったのではないかと口をつぐむが、ツララは柔らかに俺の目を見据えた。
「気にしなくていい。私はここでの生活の方が気に入ってるから」
「……どんな世界に住んでいたか、聞いてもいいか?」
「ええ」
彼女は俺の質問に応じて、少しだけ身の上を話してくれた。彼女は氷を司る一族の末裔で、あるとき故郷が襲われたらしい。一族の中で一人生き残って、その時に保護してくれたのがハスミだという。だから故郷へ戻っても誰もいないし、その世界でやりたいこともなく、恩人であるハスミと暮らしているのだという。
――窓の外を一緒に眺めて、俺とツララは少しの間話を続けた。彼女は、過去のことはもう割り切っている様子で、ただ淡々と話すばかりだった。あまりに感傷を表に出さないので、その過去は途方もない昔の話なのかもしれないとさえ思えた。
話しているうちに、徐々に瞼が重たくなってくる。緩やかな眠気に誘われて、自然とあくびがでた。ツララは立ち上がって、空になったグラスをシンクへ置いた。
「そろそろ部屋に戻ったら?」
「……そうする。おやすみ、ツララ」
「おやすみなさい」
廊下でツララと別れて、再び部屋に戻った。暗く沈んだベッドの上で、心地よい眠りの波に飲まれていった。
――翌朝、目を覚ますころには、もう窓の外は明るくなっていた。顔を洗い、歯を磨いて、三人でダイニングテーブルを囲う。朝食はスクランブルエッグとトースト、昨晩のミネストローネスープだ。食べ終えて支度をしたら、そろそろ帰らなければ。
「じゃ、ゲート開くぞ」
「了解」
いつもの強気な笑みに、微かに笑い返す。目の前に出現する空間の境目、ゲート。
「またな」
「おう、気をつけて帰れよ~……って、ここ通るだけだけど」
おどけるハスミに対して、俺とツララは呆れ顔だ。分かったからもう行くぞ、とリュックサックを背負って。
ゲートに入る直前、ツララに声を掛けられた。
「……時間があったら、今度はケーキでも焼こう」
「うん」
頷いて、手を振って。ゲートのほうに振り返り、足を踏み出す。……――帰るのが惜しいなんて、来るときには思いもしなかったのに。ふ、とらしくもなく声が漏れた。
……――暗転する景色が、しだいに色を取り戻す。気付いた時には、背後のゲートは無くなっていて。まだ涼しい午前中の室内、自分一人だけが、古い板張りの床に立ち尽くしているのだった。
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