第三話:帰れない場所

「遅かったね。残業?」


帰宅した崇を出迎えたのは、妻の何気ない声だった。


「……ああ。会議が長引いて」


嘘をつくことに慣れてきた自分が嫌だった。靴を脱ぎながら、ふとリビングの明かりがまぶしく感じられる。息子は既に寝ていて、テーブルには温め直し用のラップがかかった夕食。


「ごめん、先に食べてくれてていいって言ったのに」


「ううん、いいの。明日は早いの?」


「たぶん、少しゆっくり……できると思う」


会話は穏やかだった。どこにも喧嘩の気配はない。ただ、そこにはもう“心”がなかった。


崇は湯気の立つ味噌汁を見つめながら、昼休みの非常階段でのことを思い出していた。湊の表情。あの必死な目。触れた肌の熱。

自分のなかで、何かが確実に変わりはじめていた。




翌朝。社内の自販機前、湊が一人、缶コーヒーを片手に立っていた。


「おはよう」


崇が声をかけると、湊は少し驚いたような顔をした。


「……昨日のこと、まだ怒ってる?」


「怒ってない」


湊はほっとしたように笑ったが、その笑顔は薄かった。


「家、帰った?」


「……帰ったよ。妻と、普通に話した」


湊は何も言わず、ただコーヒーを一口飲んだ。沈黙が落ちる。


「俺さ……家に帰っても、どこにいても、ずっと孤独なんだよ」


その言葉は、ぽつりと地面に落ちるように、静かに吐き出された。


「一緒にいても、お互いに無関心で。誰も俺を見てない気がして。……それがずっと、苦しかった」


崇は言葉を失った。

わかる、と言いたかった。だが、それはあまりにも無責任な気がした。


「崇さんは、帰る場所があるよね。ちゃんとした家庭があって、子どもがいて……俺とは違う」


「それでも、帰りたくない夜がある」


その一言が、湊を見つめる視線に重なった。

ふたりは見つめ合い、言葉の代わりに呼吸で感情を伝える。

そして、その夜――




「ここ……おまえの部屋か」


「うん。狭いでしょ。ひとりには十分だけど、寒いよ。空気も、人も」


玄関をくぐった瞬間、崇は妙に懐かしい匂いを感じた。男ひとりの生活。味のないインテリア、片付いてはいるが、どこか“人がいない”空気。


「ソファ、使って」


湊が缶ビールを二本持ってきた。受け取って、プルタブを開ける。


「……なあ、湊。おまえ、本当は何を望んでるんだ」


湊は黙ったまま、ビールを口に運ぶ。

そして、目を伏せたまま呟く。


「崇さんに、ただ見てほしいだけ。触れてほしい、抱いてほしい……俺がここにいるって、誰かに確かめてほしい」


その声に、崇は本能のように身体を動かした。


ソファに座る湊の手から缶を奪い、そのままキスを落とす。

最初は優しく、やがて貪るように。

湊が肩を震わせながら崇に抱きつく。シャツのボタンを外す指が震えていた。


「……俺、弱いよ。崇さんの前だと、ずるくなる」


「俺だって、同じだ」


互いに罪悪感を持ちながらも、体が離せなかった。

湊の脚が崇の腰に絡みつき、肌と肌が擦れ合う。

ベッドに移ることもなく、ソファの上で重なり合う。


「くっ……ん、っ……あっ……崇、さ……ん……っ」


「……声、我慢しなくていい。ここじゃ、誰にも聞こえない」


夜の帳のなかで、何度も名前を呼び合った。

その声だけが、今のふたりの現実だった。




ソファの上で眠る湊の髪を、崇はそっと撫でた。

帰れない場所が、ひとつ増えた――そう思ったのは、月がベランダから差し込む夜の静けさの中だった。


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