第二話:階段の影で
エレベーターのドアが開いた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われた。
「……おはようございます」
フロアに響くその声に、崇は思わず一瞬だけ視線をそらした。
「……おはよう」
湊は昨日の夜と同じ声で、しかしまるで何もなかったように、いつもの笑顔を張り付けて立っていた。ワイシャツの下に透ける首筋に、かすかに赤い跡。あれを自分が残したのだと思うと、喉の奥が焼けるように疼いた。
(冷静になれ。仕事だ)
崇は自分に言い聞かせるようにデスクへと向かった。頭ではそうわかっていても、視界のどこかに常に湊の存在がちらつく。彼の声、仕草、ふとした瞬間の視線。それが自分を試すように思えて、胸がざわついた。
午前中の会議を終えて、ほっと一息つく昼休み。崇が弁当を手に休憩スペースへ向かおうとしたその時だった。
「崇さん、ちょっと……」
湊が声をかけてきた。顔を寄せ、周囲に聞こえないよう低く囁く。
「……話したい。五階の非常階段裏、誰も来ないから」
言い終えると、湊は何も言わず先に行ってしまった。
(まずい。こんなこと、してる場合じゃ……)
そう思いながらも、崇の足は自然と湊の後を追っていた。
階段裏は、昼の太陽が届かない半暗がり。灰色の壁と鉄の手すり。誰にも見つからない、その閉ざされた場所に湊は立っていた。
「来てくれると思ってた」
笑いながらも、その目は笑っていなかった。
「……昨夜のこと、誰にも言わない。そう思ってるんでしょ」
「違う」
崇は湊の腕を掴んだ。なぜそんな表情をするのか、問いただしたくて。
「俺が……俺が、ちゃんと話さなきゃいけないと思ってた。でも、どう言えばいいのか……」
「謝るの? 後悔してる?」
湊の声は震えていた。小さく、けれど必死に感情を堪えているのがわかった。
「崇さんが俺を見た目で判断して、軽いって思ってるなら……それは、違うよ」
「そんなことは……っ」
言いかけた崇の言葉を、湊の唇が遮った。
強引に、激しく。思考を吹き飛ばすほどの熱を込めて、湊は崇に口づけた。舌が触れ、歯が当たるほどの勢いで重ねられる唇。崇は背中の壁に押しつけられ、湊の手がシャツの下に滑り込む。
「やめろ、湊……誰かに見られたら……っ」
「誰も来ないよ。だから……ここで、俺のこと、思い出して」
湊は膝をついて、崇のベルトに指をかけた。抵抗しようとしたが、次の瞬間、湊の瞳が崇を見上げた。
潤んだような黒い目。何かにすがるように、必死で、まっすぐで。
「俺のこと、見てよ……崇さん。ひとりにしないで」
その声に、崇はもう抗えなかった。
シャツを乱され、ズボンをずらされる。吐息が熱を帯び、非常階段の鉄の冷たさが背中に伝わる。こんな場所で、こんなにも激しく――。
「っ……ぁ、く……!」
崇は壁に手をついて、肩を震わせた。湊の動きに耐えるように目を閉じる。罪悪感も理性も、すべてが遠く霞んでいった。
昼休み終了のチャイムが鳴った。
乱れた服を整えながら、湊はぽつりと呟いた。
「やっぱり、戻れないね」
崇はそれに何も返せなかった。
ただ、心の奥で確かに何かが崩れていく音を、聞いた気がした。
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