ある侍女の秘めたる祈り
私は、グランヴィル公爵家の末娘――シャルロッテ様付きの侍女をしております、イリーナと申します。
平民の私が、王都でも名高い名門貴族のお屋敷でお仕えすることになるなんて、正直、夢にも思っておりませんでした。
通常、公爵家の侍女といえば――たとえば縁戚筋の子女や、地方の貴族で行儀見習いを兼ねてやってくる令嬢。あるいは、婚外子や没落した名家の娘が仕えることで再起を図るという形で就くのが一般的です。
けれど、私の場合は――少し、事情が違いました。
グランヴィル家には、少々込み入った内情がございます。
とても格式高く、誰もが知る名家でありながら、だからこそ、すべてが表向きの常識だけで動いているわけではないのです。
そんな事情の中で、私は特別に選ばれました。
私自身が優れていたからではありません。
「私が決める」と、シャルロッテ様ご自身が言ってくださったのです。
選定の場で、他の候補を差し置いて。
理由は……いまだによくわかりません。
でも、あの方がそう言ったということ自体が、私にとっては何よりの誇りなのです。
「お嬢様、そろそろお時間です」
私はいつものように、寝室の分厚いカーテンをさっと開け放つ。
朝の光が差し込む中、寝台の上でシャルロッテ様が小さく身じろぎをした。
「……もうちょっと……」
寝言のようにむにゃむにゃと呟きながら、布団をぎゅっと抱え込む。
――ふふ、これもまた日常の一幕。
凛々しい男装の麗人の裏には、こういう姿もあるのは私だけが知る特別。
「……新種の魔物の討伐依頼が出ているそうですよ」
静かにそう告げると、シャルロッテ様はぱちりと目を開けて、ばっ! と布団をはねのけた。
「どこ!? 何匹!? 依頼主は誰!?」
――この方のお傍にいられるなら、私は今日も、何だって頑張れるのです。
そんなある日、突然のことでした。
シャルロッテ様が女装――もとい、令嬢の姿をされると、奥様から通達が下ったのです。
驚きました。いえ、それはもう、とても驚きました。
なにせ、あのシャルロッテ様です。
剣術の稽古に出ては男爵家のご子息を打ち負かし、馬術では騎兵隊に混じって先頭を切るようなお方です。
そんなお方が、ドレスを着る。
レースのついたスカートを、リボンを、パールの髪飾りを……!
(お仕度、絶対にうまくやらなきゃ……!)
私は内心、何かの儀式にでも臨むような覚悟で化粧筆を手に取ったのです。
「嫌だー! 無理無理! 絶対やだー!」
叫ぶシャルロッテ様を、奥様とメイド頭、そして私たち侍女数人がかりでなんとか押さえ込み、支度を始めたのは朝の七時。
着付け。髪のセット。装飾品の選定。化粧。歩き方の指導。途中からエレオノーラ王女も混じり……気づけば、日が傾き始めていました。
けれど――完成した姿を見て、全員が言葉を失いました。
そこに立っていたのは、天井の女神の化身のような――ただ美しいでは済まない、気品と威厳をまとった、まさに『グランヴィル家の令嬢』でした。
あれほど美しい造形をしておきながら、ご本人はまったく気にせず、普段は平気で顔に泥をつけて帰ってくるのです。
あぁ、もったいない。どれほどの逸材を無駄にしているのかと、侍女として何度思ったことか……!
王国内の、どの令嬢よりも美しいと、私は思っております。
そうして満を持して送り出したシャルロッテ様が、数時間後に帰ってこられたとき――ドレスのスカートは大胆に破り取られ、あれほど丁寧に結い上げた髪は見る影もなくボサボサ。頬にはうっすらと泥が……いえ、血痕? え、これは何の……?
(考えるのをやめました……)
何があったのかは、聞かずともわかります。
シャルロッテ様のことですもの、きっとまた、普通ではないことを普通の顔でやってのけたのでしょう。
……いえ、まぁ、いいのです。
私の仕事は、どんな状態で帰ってこられても、シャルロッテ様はシャルロッテ様です。
でも、次にあのような機会が訪れたときには、もっと完璧にお支えできるよう――
とりあえず、お肌の再生用ハーブパックと泥除け用の魔力フィルターを常備しておこうと、強く誓うイリーナでございました。
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