第18話 エロと母、崖から落ちそうになってたらどっちを助ける?

「おはようコウちゃん! ゴミの分別までしてくれてありがとね?」


 ようやくエロ漫画を捨てる決心をした愚息に、お母さんはにこにこ笑顔で、する必要のないお礼をクチにした。

 そこから数十分後。

 僕はお母さんとの朝食を終え、学校へ向かう為に家を出た。

 異様に足取りが重い。

 行きたくなくて、身体が拒否反応を起こしているみたいだ。

 正直に白状すると、蠱惑寺さんと顔を合わせたくなくて仕方ない。

 昨日も考えたけど、本当に無視してしまいたいくらいだ。


「……時間ギリギリに行くかね」


 卑怯な事に、僕はホームルームがはじまるチャイムが鳴る寸前に教室に入った。

 僕の席の前に居る蠱惑寺さん、そしてその右隣の薔薇園さんと目が合った。

 なんとなく目をそらして、自分の席へ座る。

 ホームルームが終わると、蠱惑寺さんは僕の方を振り向いた。


「せんせ、今日、明日子ちゃん宅、行きますよね?」

「……うん」


 ほっとした表情の蠱惑寺さんと薔薇園さん。

 特に嫌われている感じがなくて良かった。

 これなら、僕がエロ漫画を卒業する事を、ちゃんと話せるかな。


「話もあるし、お邪魔させてもらうつもりだよ?」

「師匠、話って?」

「放課後ね。ごめん、今結構眠いんだ。学校では寝させて頂戴」

「ほんとだ先生、眼の下のクマさんが凄いです」


 僕の顔面に顔を寄せ、いわゆるガチ恋距離で心配そうな顔をしてくれる蠱惑寺さん。

 条件反射で思わずのけぞり、距離をとってしまう。


「ゐく、近い近い」

「明日子ちゃんとも近くなりたいですー!」

「ういやつよ」


 抱き合って百合百合しいムーブをする二人。

 本当に蠱惑寺さんはチョロかったのだろう。

 昨日出来た筈の関係の溝は、完全に埋まっている様に見えた。

 薔薇園さんが蠱惑寺さんに頬擦り強要して、それを受け入れているから、見えてるんじゃなくて本当に埋まっているのだろう。

 良かった良かった。

 二人の仲が安泰な事に安心した僕は、何の憂いもなく授業を受ける事が出来た。

 後は僕が引くだけだ。

 蠱惑寺さんの漫画はあと三ページだけだけど。

 申し訳ないけどここらで打ち切りエンドとさせてもらおう。

 そうやってばっちり覚悟が決まった今日の放課後。


「――という訳で、僕はエロ漫画描きを卒業するね?」


 薔薇園さん宅にて。

 順序だてて、僕が如何にエロ漫画から卒業する決心に至ったかを説明した。

 元々、お母さんからエロ漫画を描くのをやめろと言われていた事。

 蠱惑寺さんの期待に応えたくて、エロ漫画をこっそりここで描いていた事。

 お母さんが、元々再婚の話を僕にしていた事。

 昨日の夜、再婚予定相手のイケメンと食事に行った事。

 食事中、ずっと気持ち悪かった事。

 何故か知らないが、僕が再婚を本気で嫌がっているとお母さんにバレた事。

 そのせいでお母さんの、再婚という夢を、幸福を、僕が壊してしまった事。

 お母さんの幸せを破壊したなら、自分もそれ相応の罰を受けるべきだという事。

 罰として、エロ漫画描きを卒業するのが一番だと考えた事。

 以上の事を、順番通りに話した。


「……全ては、お母様の為なのですね?」

「そう、かもね。でも、申し訳ないからって気持ちの方が大きいけど」


 むしろ心苦しさしかない。


「師匠、本当にそれでいい?」

「いいんだ」


 蠱惑寺さんは少し考える動作をして僕に聞いてきた。


「せんせ、漫画は今後も、ここで教えて頂けますか?」

「ごめん。それも止めるよ。もう絶対絵は描かない」


 そんなのやってたら、エロ漫画また描きたくなるに決まってるから。


「師匠、ゐくの為の漫画は? 残り三ページ」

「ごめん。申し訳ない」


 がっくりと肩を落としている蠱惑寺さん。

 本当にごめんなさい。


「最低。師匠最低」

「ごめん、本当にごめん……」


 僕はもう謝罪する事しか出来ない。


「謝るくらいなら、あと三ページくらい描いて」


 いや、それは……。


「また、お母さんの顔を見るたびに、心苦しい思いはしたくない」

「母親とゐく、どっちが大事?」

「それは……」


 母親だなんて、瞬時には言えなかった。

 蠱惑寺さんだって、彼女モデルの漫画が描きたくなるくらい、大切なんだから。

 好きなんだから。


「まあまあ明日子ちゃん。先生困ってますし、ね?」

「ふん」


 さっきからずっと、冷たい瞳で僕を睨みつけている薔薇園さん。

 怖すぎて、今すぐ逃げ出したい気分だ。


「ごめん。でも僕、本気でエロ漫画から卒業したいんだ……」

「先生もお辛いでしょうに、よく決心なされました。ご立派です」


 薔薇園さんは鼻で笑っているが、蠱惑寺さんは僕の考えを受け止めてくれたみたいだ。


「では、これからは普通のお友達としてお付き合いしましょう!」

「………それは」


 どうなんだろう?

 エロ漫画描きを卒業するのに、エロ漫画が好きな子とこれからも一緒に友人やってられるか?

 いや、無理に決まってる。


「まさか師匠……」


 蠱惑寺さんの顔を見るたび、声を聞くたび、話しかけられる度にきっと僕は……エロ漫画を思い出す。

 エロ漫画を描いていた、あの楽しかった日々を思い出す。

 そしたらまた、描きたくて仕方なくなるかかもしれない。

 それはきっと、お母さんへの裏切りにしかならない。


「僕、二人とはもう喋らない。ここにももう来ない。それしか無い」


 ばつん。

 薔薇園さんは、僕の頬を平手打ちした。

 きっと全力だったんだろう。

 血の味がする。


「二人と居ると、エロ漫画の事思いだしちゃう。だから…………ごめん」


 僕の言葉を受けて、蠱惑寺さんはぼうっと呆けた表情をした。

 彼女の瞳から、涙が、大量の涙がしたたり落ちた。


「謝るな! 馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 馬鹿!」


 再び平手打ちされた。薔薇園さんに。

 怒りの形相で。

 鬼の様な形相で。

 何度も何度も、叩かれた。

 痛かったけど、泣きたいほど辛かったけど、僕は避けるつもりはなかった。


「や、やめてください明日子ちゃん!」


 我に返った蠱惑寺さんが、薔薇園さんの腕にしがみついて動きをとめた。


「ゐくもやればいい。多少スッキリす――」


 ばぢん。

 再び頬を張られた音がしたが、僕は痛くない。


「あ、な……にを…………」


 叩かれたのは、薔薇園さんだった。

 掌を痛そうに抑えているのは、蠱惑寺さん。


「明日子ちゃん! 先生に、先生になんてことするんですかっ!」


 今までに見た事の無い、怒りを孕んだ顔の蠱惑寺さん。


「こいつ、ゐくともう喋らないって言った!」

「エロ漫画の事をなるべく思い出さない為とおっしゃっていたでしょう!?」

「でも、そんなの、ひどい! ゐく、泣いてた!」

「確かに泣きました、ですが、本当に泣きたいのは先生です! 一番お辛いのは先生です!」


 いや、それはどうなんだろう? 違うんじゃないかなあ?


「親の為に自分を殺す! それがどれだけ辛いか、明日子ちゃんに分かりますか!?」

「少しは……」

「ゐくはよく分かります! ゐくは、許嫁との結婚が我慢ならなくて! 自分を殺しきれませんでした! それを先生はなさろうとしているんです!」


 そういえば、聖地巡礼の時にそんな話聞いたっけ。

 許嫁の視線が実に嫌らしかったとかなんとか。


「ゐくの許嫁の件と、こいつのエロ漫画を我慢するのは訳が違う! 絶対ゐくの方が辛い! 我慢できない! こいつの方が我慢は簡単! 超絶楽! 絶対!」


 僕もそう思うよ。

 辛さのレベルが蠱惑寺さんとは段違いだよ。桁外れだよ。


「馬鹿言わないで下さい!」


 でも、蠱惑寺さんはそう思ってないみたいで。


「あんなに絵がお上手で! 小さな頃からずっと描いていて! お母様に隠れてでもゐくの為に漫画を描いてくれる! 楽しそうに、本当に楽しそうに描いて下さっていました!」


 そりゃ楽しくなきゃ、好きじゃなきゃ描き続けられないよね。

 誰だってそうだろう


「その前は、ゐくの為にお別れのイラストを描いて下さったり! きっと我慢できなくて、続きのページを描いてゐくに渡してくださったり!」


 そんな事もあったあった。

 本当に僕はこらえ性がないよね。

 これからはそうも言ってられなくなるけど。


「もっと前は、ネットに漫画あげてて、ろくなコメントなくて! それでもずっと描き続けてらして!」


 そんな漫画を、何年も何年も、ずっとずっとずっと、ずーっと描いてたね。

 ひとりで。


「そんなの、本当にエロ漫画を描くのが好きな人じゃないと出来ない事だと、ゐくは思います!」


 かもしれないね。きっと、そうかもしれないね。


「エロ漫画を好きじゃなければ! 愛していなければ! 執着していなければ! 先生の御年齢で、ここまで、プロ級の絵を描く事は不可能です! どう考えても、絶対に!」

「確かに、そうかも、だけど……」


 とうとう薔薇園さんが蠱惑寺さんに言いくるめられはじめた。

 それ程までに、蠱惑寺さんの言葉には熱量がこもっていた。

 心が、こもっている。


「先生は、素晴らしい絵を描ける魔法の手を! 捨てるとおっしゃっているのです! ご自分の欲望と共に! 今までの全ての経験と、思い出を、全て! 何もかも!」


 魔法の手なんて言ってくれたのは、蠱惑寺さん一人だけだよ。

 予想外な誉め言葉だったから、妙に照れ臭かったけどね。


「ゐくは元々親のいいなりで! 自分のしたい事なんてなかったんです! ゐくがやった許嫁との婚約破棄は、ゐくの欲望じゃなくて、親からの束縛を捨てただけにすぎません!」


 その結果、蠱惑寺さんは親から見放されたって言ってっけ

 寂しい話だよね。

 その寂しさを埋める為にか分からないけど、あろう事か僕のエロ漫画を求めたと。

 いやそう考えると割とろくでもない話だな。


「ですが先生は、全てご自分の為ならともかく、親の為に! 自分の欲望を捨てるとおっしゃっているのです! これが、ゐくより辛くないなんてありえないです!」


 正直僕には、蠱惑寺さんが過去に感じた辛さがいまいち分からない。

 だから、彼女の言い分が半分も理解できていないのかもしれない。

 けれども、唯一の僕のファンにここまで言ってもらえて、とっても、とってもとっても、とてもとてもとてもとても嬉しい。

 喜び過ぎて、気が付けば涙が出てきていた。


「……先生?」


 蠱惑寺さんは目の前で正座をし、僕を呼んだ。

 つられて僕も正座になる。


「今まで、……ゐくは、先生と一緒に居られて。……漫画を教えて頂けて、聖地巡礼をご一緒できて。……楽しかったです」


 ぼろぼろと、蠱惑寺さんは大粒の涙を流しながら僕にお礼の言葉を述べてくれている。


「ゐくは、先生と出会えて……よかったです」

「僕も、だよ……」


 ぬぐってもぬぐってもぬぐいきれない蠱惑寺さんの涙。

 涙顔のまま彼女はにこりと笑顔になって。


「聖地巡礼の時、先生にリボンを買って頂けて――幸せでした」


 確かに僕も、その時らへんが一番ドキドキしていた記憶がある。


「先生と過ごした日々は、時間は、何モノにも代えがたい、ゐくの宝物です」


 僕が受け取るには、過分な言葉だった。

 僕なんかが貰って良い言葉なんかじゃなかった。

 蠱惑寺さんに期待させるだけ期待させて、あげくこんなオチにしてしまう男には。

 漫画を打ち切りで描きやめてしまう男には。

 明らかに過ぎた言葉だ。


「先生、今まで、ありがとうございました」


 見事な土下座と共に、別れの意味を孕んだ礼をしてくれた蠱惑寺さんだった。

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