第十一章 おのがさまざま 年の経ぬれば

放課後の教室。

窓の外はすでに夕暮れ色に染まりはじめていた。


「これが……その硯なんだ。」


えみは鞄から丁寧に布に包んまれたものを取り出した。

机の上に置かれたのは、黒光りする一つの硯。

縁には筆と蓮の模様が浮かんでいる。


「すご……ずいぶん古そうだね。」


素子もとこが驚きの声を上げる。


「重いな。なるほど、ただの硯って感じじゃないな。」


圭一けいいちも手に取って眺め、思わず真顔になる。


笑は少し照れくさそうに微笑んだ。

その時だった――。

遠くで、風に溶けるように笙の音が聞こえてきた。





――――気づけば、笑は荒れ果てた庵の中にいた。

傾いた柱に雨のしみ、破れた障子が風に鳴っている。

一人の旅姿の僧と、白髪の老人が向かい合っていた。

あれからまた年齢を重ねた素性そせい法師と、どこか只者ではない気配をまとう、謎の男。


「……あの方は、実に気高い人じゃった。春のような声をしていた。

だが、冬のように――己を閉ざす目をしておられた。」

「会われたのですか? 小野小町に……。」


素性の問いに、老人はかすかに目を細めて笑った。


「風のように現れて、風のように消えた……。

わしにとっては、たった一度の、春のようなものでな。」

「……あなたは、どなたですか。在原業平ありわらのなりひら殿? それとも文屋康秀ふんやのやすひで殿?」


その問いに、老人は小さく首を振ると、静かに和歌を口ずさんだ。


    今までに忘れぬ人は世にもあらじ

        おのがさまざま年のぬれば


「わしは、ただの者よ。

名など残すには、あまりに多くを失ったからのう。」


その声はどこまでも穏やかで、深く、そして寂しかった。

笑は、そっと目を伏せた。


――あの老人は、小町と再会できたのだろうか。

それとも、叶わぬまま、この世を彷徨い続けたのか。


答えは、わからない。

けれど、あの瞳には確かに、小町を愛した者だけが宿す、静かな光があった。

笙の音が聞こえてきた。





「―――あれ、寝てた?」


放課後の教室で、素子の声が聞こえた。


「ごめん、ちょっとだけ……。」


笑は顔を上げて、机に置いたままの硯を見下ろす。

窓の外の沈みかけた夕日が硯を照らしていた。

ふと笑が机上の本に目をやると、そこに書かれた和歌が目に留まった。


――今までに忘れぬ人は世にもあらじ……


(この歌って。)


その本の題名は「伊勢物語」とあった。

笑は、指先でページをなぞった。


(――もしかして、あの老人は……。)


けれどその続きを言葉にすることはなかった。

夕暮れの教室に、静かな風が吹いていた。


「いよいよ明日が発表だね。」


素子が話しかけた。


「うん……。」


笑は、もう一度窓の向こうを見る。

夕暮れの空に、ひぐらしの声がかすかに聞こえていた。


(忘れぬ人……か。)


あの老人の和歌が、胸の奥にまだ残っている。

忘れたいのに忘れられない、そんな人がいる。

でも、それは苦しみだけじゃなく――きっと、宝物のようなものでもあるのかもしれない。


ふと視線を上げると、赤く染まった雲が流れていく。

その移ろいの速さに、笑は胸を締め付けられる思いがした。

過ぎゆく時間の中で、何を残し、何を伝えていけるのか。

明日の発表は、ただの学びの披露ではなく――自分自身の答えを試される場になるのだ。

胸の奥に響く“忘れぬ人”の言葉が、その覚悟を静かに促していた。


「ねえ、素子。」

「ん?」

「小町も……最後まで忘れられなかったんだと思う?」


素子は少し考えてから、優しく笑った。


「どうかな。でも……忘れたふりは、してなかったんじゃないかな。」

「……うん、たぶん、そうだね。」


ふと、背後から椅子の音がして、圭一が顔をのぞかせた。


「おっ、姫は現世に帰還したか。」

「もう、からかわないで。」


笑は苦笑して言った。

でもその声の奥には、まだ少し、夢の中の静けさが残っていた。


「じゃ、明日は本番だな。俺もちゃんと覚悟決めとくよ。」


圭一の明るさに、笑は少し救われたような気持ちになった。

窓の外は、もうすっかり夕暮れ。

それでも、胸の中ではあの和歌の余韻が、そっと鳴り続けていた。


(……私は、何を忘れずにいたいんだろう。)


そんな問いが、言葉にならず、ふわりと心に浮かんでいた。




◇◆◇◆




【次回予告】

「終章 乙女の姿 しばしとどめむ」


いよいよ迎える最後の発表。

小町の秘密に迫る仮説を前に、教室はざわめきに包まれる。

笑と仲間たちが紡ぐのは、調べ学習を超えた物語。

そして放課後、三人が見た“あの人影”は――。


いよいよ物語も完結。



【作者メモ】

謎に満ちた小野小町の最期に迫ってみた。

かつて彼女を愛した男たち――彼らは果たして小町と再会できたのか。

その答えを示すのではなく、「忘れぬ人」という和歌に託して余韻を残した。

若き日の美貌も、老いた記憶も、すべては“想い”が紡ぎ出す物語である。

読者それぞれが自分なりの小町像を描いてくれることを願っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る