第十章 鳴く夕暮れの 大和撫子
「小町が晩年はすっかり容色が衰えてしまったって伝説もあるね。」
ふいに
「たとえば、この『
老いた小町が、道ばたの卒塔婆に腰をかけて、通りがかった僧に自分の過去を語り始めるって内容なんだって。」
「なんかショックだな。美人も年には勝てないか。」
これは
「……私も、信じたくないな。」
「それって本当に、小町だったのかな。
私……小町は、最後まで自分の過去を語らなかった気がする。
美人で有名だったから、名前にあやかろうとする人もいたんじゃないかな。」
「じゃあ、別人ってことで(笑)」
「ねえ、こんな話あったら面白くない?
老婆の小町とは別に、小町を知ってる老人が出てくるの。
その人は、何十年経っても小町のことを探していて……。
実は、かつての恋人だったって主張してるの。」
「また空想かよ」
圭一が笑いながら言う。
「ひょっとして、その老人が業平だったり、康秀だったのかもよ。」
「それとも――宗貞、だったりして。」
笑がぽつりとつぶやく。
遠くに響いていたセミの鳴き声が笙の音に変わっていった。
――――汗ばむような夏の午後。
気づけば笑は寺の講堂に立っていた。
板の間の冷たさが足裏に伝わり、外からはひぐらしの声が遠く響いてくる。
すっかり様子が変わっているが、数日前訪ねたばかりの場所だ。
2人の人物が向かい合って座っている。
一人は
あれから何年経ったのだろう――顔つきはすっかり大人びている。
そして、もう1人は……小町に違いない。
だがその姿は、この寺で遍昭と再会した時の姿のまま。
まったく変わったように見えない。
「もしやあなたは……小野小町殿ではありませんか。」
素性の言葉に、旅人は目を伏せた。
「……その名は遥か昔に捨てました。」
「では、何ゆえこの寺へ?」
小町は、静かに答えた。
「……亡き宗貞さまの菩提を弔うためです。」
素性ははっと目を見開いた。
「父が……。」
小町は続けた。
「宗貞さまがすべてを知ってもなお、私を受け入れようとされたとき、私は……怖くなったのです。」
「……父は、出家の夜、涙を見せませんでした。
ただ、静かに門を出ていかれた。けれど、私にはわかったのです。失った何かが、深く、心に残っていたのだと。」
小町は初めて素性の目をまっすぐに見つめた。
「あなたには、宗貞殿のまなざしがある。……あの方の、やさしさが。」
「あなたにも、父のまなざしが宿っています。」
ひぐらしの鳴き声が部屋の外から響いてくる。
やがて小町は立ち上がる。
「私はまだ、漂う身。とどまることはできないのです。」
素性は頷いた。
「ならばせめて、ひとつだけ。」
墨と紙を取り出し、素性は即興の歌を書きつけた。
我のみやあはれと思はむひぐらしの
鳴く夕暮れの
(私だけがいとおしいと思うのだろうか、ひぐらしの鳴く夕影に咲く撫子の花を。)
それを聞いた小町は深くうなずいた。
「あなたに受け取って欲しいものがあります。」
そういうと小町は懐から、一つの包みを出した。
中から出てきたものは一つの硯。
「これを、あなたに託したいのです。」
(あ、あの硯……。)
笑はすぐに気が付いた。
縁に筆と蓮の模様がある。
(そうか、小町の想いは小町から素性に受け継がれたんだ。)
「この硯は……私の祖父、小野篁が愛用していたものです。」
「あの高名な小野篁殿の。」
「祖父・篁は、この世と地獄を自由に行き来していたと聞きます。
地獄で大陸の高名な詩人よりこの硯を託されたそうです。
祖父も私も、この硯で多くの言の葉を紡いできました。
これからはあなたに、私の想いも紡いで欲しいのです。」
素性は硯を恭しく受け取った。
やがて、小町は庵を出ると、どこともなく消えていった。
残された素性は一人つぶやいた。
「父上……ようやく、あなたの想いが少しだけ分かった気がします。」
笑は心の中で思った。
(小町の祖父から小町へ、そして素性法師へ。
そんな強い想いの籠った硯を私なんかが受け取っていいの?)
―――笑が現実に帰ったその日の夜。
彼女は自宅の居間にある仏壇の前に静かに座っていた。
まだ小さかった頃、曾祖母から「いつか使いなさい」と渡された、あの硯。
ゆっくりと包みをほどくと、縁に筆と蓮の模様が彫られた、黒光りする硯が姿を現した。
「……やっぱり、同じだ。」
指先で蓮の模様をそっとなぞる。
つい先ほど、自分が“見ていた”硯と、まったく同じ意匠。
それは夢ではない、確かに小町から、素性を経て―――曾祖母へと受け継がれてきたもの。
笑はその硯を手に、仏壇の上に飾られた曾祖母の遺影を見上げた。
(ねえ、ひいおばあちゃん。
この硯で、わたしも書いてみるね。
小町が、素性が、そしてあなたが受け継いできた “想い”を――)
――遺影の中の曾祖母が、一瞬、やさしくほほ笑んだ気がした。
◇◆◇◆
【次回予告】
「第十一章 おのがさまざま 年の経ぬれば」
白髪の老人が語る小野小町の記憶。
――それは夢か幻か。
胸に秘めた和歌が紡がれる。
忘れられぬ人を想うまなざしは、時を越え、笑の心にも静かに届く。
【作者メモ】
“想い”を受け継ぐ硯――。
小野篁から小町、そして素性法師へ。
やがて時を超え、笑のもとへと届く。
現代と平安をつなぐ、その“想い”を描いてみた。
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