黒い雨のあとで

セクストゥス・クサリウス・フェリクス

第1話「頭上の悪意」


---


「カラスが人を殺すことがあるって、知ってた?」


何を言ってるんだ、千春——僕の頭から血が流れ始めてから三分後のことだった。


---


朝の通学路は、もんじゃ焼きの甘い匂いに包まれていた。


「おい、裕一ゆういち。見ろよ、この虎目玉とらめだま


隣を歩く健太けんたが、琥珀色こはくいろに光るビー玉を器用に指の間で転がしている。昨日、駅前の玩具屋で三十円で買った宝物だ。


「きれいだな」


「今度の日曜日、河原でビー玉大会やろうぜ」


そんな他愛もない会話を交わしながら、僕たち——村田裕一むらたゆういちと親友の健太は学校へ向かっていた。


そのときは、健太と二人きりだった。


けれど、なんて、まだ誰も知らなかった。


木造の家々が軒を連ね、洗濯物が朝風に揺れている。どこからか味噌汁の匂いが漂ってきて、お腹が鳴った。



頭上から、突然の黒い影。


「うわあっ!」


僕の頭に鋭い痛みが走った。何かが爪を立てて、頭皮を引っ掻いていく。慌てて手を上げると、大きなカラスが翼を広げて飛び去っていくのが見えた。


「裕一! 大丈夫か?」


健太の声が遠くに聞こえる。僕は頭を押さえてしゃがみ込んだ。


手のひらに、べっとりとした温かいものがついた。



商店街の魚屋のおじさんが僕の肩を支えて、学校まで付き添ってくれた。頭がズキズキ痛んで、シャツの襟に血がにじんでいる。


保健室で田中先生に手当てをしてもらう。冷たい水で血を洗い流すと、鏡に映った僕の頭には三本の平行線——カラスの爪跡がくっきりと残っていた。


「痛いでしょうけど、我慢してね」


赤チンあかちんを塗ってもらいながら、僕は聞いた。


「先生、最近こんな怪我の子、多くないですか?」


田中先生の手が一瞬止まった。


「今週だけで、もう五人目よ」



僕だけじゃなかった。


「みんなカラスに襲われてる。まるで計画的に攻撃してるみたい」


教室に戻ると、クラスメートたちが心配そうに僕を囲んだ。その中に、千春ちはるもいた。


佐藤千春さとうちはる——僕たちのクラスで一番の秀才。いつも分厚い図鑑を読んでいて、動物のことなら何でも知っている物知り博士だ。


千春は僕の包帯を見つめながら、つぶやいた。


「カラスが人を殺すことがあるって、知ってた?」


教室がしんと静まり返った。


「え?」


千春は眼鏡の奥の目を細めて、まるで図鑑を読み上げるような口調で続けた。


「カラスはとても頭がいい鳥なの。人の顔を覚えるし、自分の巣やヒナを守るためなら人間だって攻撃する」


千春は一度言葉を切って、教室を見回した。


「実は最近、市でも問題になってるのよ。オーストラリアでは実際に、カラスに襲われて亡くなった人もいる」


僕は背筋がぞっとした。



午前中の授業は集中できなかった。窓の外を見ては「カラスが来るんじゃないか」とびくびくしていた。


また来るんじゃないか。


明日も。


給食の時間、隣のクラスの田村がこっそり近づいてきた。


「聞いたか? 今度の土曜日に自治会じちかいで緊急会議をやるらしいぞ」


「緊急会議?」


「カラスの対策についてだよ」


昼休み、僕と健太、千春は校庭の隅に集まった。


「本当に危険なのかな」健太がポケットのビー玉をカチャカチャと鳴らしている。緊張すると、いつもそうするのだった。


「大人たちが何とかしてくれるよ」


僕がそう言うと、千春が首を振った。


「どうかしら」


午後の授業中、教室に流れてきたラジオの音が、僕たちの不安を現実のものにした。


「……自治会長は専門業者せんもんぎょうしゃによる駆除くじょを検討していると発表しました。しかし予算の問題もあり、実施時期は未定とのことです……」



つまり、いつになるか分からない。


また来るんじゃないか——。


放課後、僕は一人で帰った。商店街を通る時、空を見上げる。青い空に、何羽かのカラスが飛んでいる。


また来るんじゃないか——。


夕飯の時、父が工場から帰ってきた。


「カラスにか? 最近多いらしいな」


父は僕の包帯を見て眉をひそめた。


「自治会で対策を考えるって聞いたけど」


母が言うと、父は箸を置いて首を振った。


「予算がない。専門業者は高いし、手続きも面倒だ。結局、何もしないで終わりそうだな」


僕は胸の奥が重くなった。



明日も——。


また、誰かが襲われる。


その夜、僕は宿題をしながら時々窓の外を見た。日が暮れて、街灯がぽつぽつと点き始める。


九時を過ぎた頃、外からカラスの鳴き声が聞こえてきた。


「カアッ、カアッ」


いつもと違う。まるで怒っているような、威嚇いかくするような声だった。


僕は恐る恐る窓に近づいた。カーテンを少しだけ開けて外を覗く。


電線に、黒い影がいくつも止まっていた。


十羽、いや、もっといる。



夜の冷気と一緒に、じっとりとした湿った空気が流れ込んできた。かすかな羽音と、腐葉土ふようどのような匂い。


窓の向こう、電線にびっしりと並んだ黒い影が、一斉にこちらを向いた。


まるで僕の存在を確認するように。


まるで僕を覚えておこうとするように。


静寂の中で、街灯の薄明かりに照らされた無数の黒い瞳が、じっと僕を見つめていた。その瞬間、一羽のカラスが小さく鳴いた。



僕は慌てて窓を閉めた。


ガラス越しに、まだカラスたちの視線を感じる。


心臓がドキドキと鳴っている。


明日もまた——。


布団に潜り込んでも、なかなか眠れなかった。外からは時々カラスの鳴き声が聞こえてくる。まるで何かを相談しているみたいに。


あの日から、僕の中の何かが変わった。


それでも、まだ誰も本当の恐怖を知らなかった——。


あの頃は、どんなに怖くても、それを誰にも伝えられなかった。


窓の外の黒い影たちが、僕たちの運命を変えることになるなんて、その時はまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る