黒い雨のあとで
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話「頭上の悪意」
昭和五十八年、緑ヶ丘町。黒い恐怖は突然、僕たちの頭上に降ってきた。
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「カラスが人を殺すことがあるって、知ってた?」
何を言ってるんだ、千春——僕の頭から血が流れ始めてから三分後のことだった。
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朝の通学路は、もんじゃ焼きの甘い匂いに包まれていた。
「おい、
隣を歩く
「きれいだな」
「今度の日曜日、河原でビー玉大会やろうぜ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、僕たち——
そのときは、健太と二人きりだった。
けれど、これから僕たち七人の戦いが始まるなんて、まだ誰も知らなかった。
木造の家々が軒を連ね、洗濯物が朝風に揺れている。どこからか味噌汁の匂いが漂ってきて、お腹が鳴った。
その時だった。
頭上から、突然の黒い影。
「うわあっ!」
僕の頭に鋭い痛みが走った。何かが爪を立てて、頭皮を引っ掻いていく。慌てて手を上げると、大きなカラスが翼を広げて飛び去っていくのが見えた。
「裕一! 大丈夫か?」
健太の声が遠くに聞こえる。僕は頭を押さえてしゃがみ込んだ。
手のひらに、べっとりとした温かいものがついた。
血だった。
商店街の魚屋のおじさんが僕の肩を支えて、学校まで付き添ってくれた。頭がズキズキ痛んで、シャツの襟に血がにじんでいる。
保健室で田中先生に手当てをしてもらう。冷たい水で血を洗い流すと、鏡に映った僕の頭には三本の平行線——カラスの爪跡がくっきりと残っていた。
「痛いでしょうけど、我慢してね」
「先生、最近こんな怪我の子、多くないですか?」
田中先生の手が一瞬止まった。
「今週だけで、もう五人目よ」
五人目
僕だけじゃなかった。
「みんなカラスに襲われてる。まるで計画的に攻撃してるみたい」
教室に戻ると、クラスメートたちが心配そうに僕を囲んだ。その中に、
千春は僕の包帯を見つめながら、つぶやいた。
「カラスが人を殺すことがあるって、知ってた?」
教室がしんと静まり返った。
「え?」
千春は眼鏡の奥の目を細めて、まるで図鑑を読み上げるような口調で続けた。
「カラスはとても頭がいい鳥なの。人の顔を覚えるし、自分の巣やヒナを守るためなら人間だって攻撃する」
千春は一度言葉を切って、教室を見回した。
「実は最近、市でも問題になってるのよ。オーストラリアでは実際に、カラスに襲われて亡くなった人もいる」
僕は背筋がぞっとした。
また来るんじゃないか——。
午前中の授業は集中できなかった。窓の外を見ては「カラスが来るんじゃないか」とびくびくしていた。
また来るんじゃないか。
明日も。
給食の時間、隣のクラスの田村がこっそり近づいてきた。
「聞いたか? 今度の土曜日に
「緊急会議?」
「カラスの対策についてだよ」
昼休み、僕と健太、千春は校庭の隅に集まった。
「本当に危険なのかな」健太がポケットのビー玉をカチャカチャと鳴らしている。緊張すると、いつもそうするのだった。
「大人たちが何とかしてくれるよ」
僕がそう言うと、千春が首を振った。
「どうかしら」
午後の授業中、教室に流れてきたラジオの音が、僕たちの不安を現実のものにした。
「……自治会長は
未定。
つまり、いつになるか分からない。
また来るんじゃないか——。
放課後、僕は一人で帰った。商店街を通る時、空を見上げる。青い空に、何羽かのカラスが飛んでいる。
また来るんじゃないか——。
夕飯の時、父が工場から帰ってきた。
「カラスにか? 最近多いらしいな」
父は僕の包帯を見て眉をひそめた。
「自治会で対策を考えるって聞いたけど」
母が言うと、父は箸を置いて首を振った。
「予算がない。専門業者は高いし、手続きも面倒だ。結局、何もしないで終わりそうだな」
僕は胸の奥が重くなった。
結局、大人たちは僕たちを守ってくれない。
明日も——。
また、誰かが襲われる。
その夜、僕は宿題をしながら時々窓の外を見た。日が暮れて、街灯がぽつぽつと点き始める。
九時を過ぎた頃、外からカラスの鳴き声が聞こえてきた。
「カアッ、カアッ」
いつもと違う。まるで怒っているような、
僕は恐る恐る窓に近づいた。カーテンを少しだけ開けて外を覗く。
電線に、黒い影がいくつも止まっていた。
十羽、いや、もっといる。
僕が窓を開けた瞬間——
夜の冷気と一緒に、じっとりとした湿った空気が流れ込んできた。かすかな羽音と、
窓の向こう、電線にびっしりと並んだ黒い影が、一斉にこちらを向いた。
まるで僕の存在を確認するように。
まるで僕を覚えておこうとするように。
静寂の中で、街灯の薄明かりに照らされた無数の黒い瞳が、じっと僕を見つめていた。その瞬間、一羽のカラスが小さく鳴いた。
まるで合図のように。
僕は慌てて窓を閉めた。
ガラス越しに、まだカラスたちの視線を感じる。
心臓がドキドキと鳴っている。
明日もまた——。
布団に潜り込んでも、なかなか眠れなかった。外からは時々カラスの鳴き声が聞こえてくる。まるで何かを相談しているみたいに。
あの日から、僕の中の何かが変わった。
それでも、まだ誰も本当の恐怖を知らなかった——。
あの頃は、どんなに怖くても、それを誰にも伝えられなかった。
窓の外の黒い影たちが、僕たちの運命を変えることになるなんて、その時はまだ知らなかった。
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