第2話「見えない敵、動かない味方」
第2話「見えない敵、動かない味方」
公民館の裏口で、僕たちは大人たちの会議を盗み聞きしていた。
——「予算がないから、秋まで待つしかない」
その言葉に、僕たちは凍りついた。
---
火曜日の朝、僕の頭の包帯を見て、担任の山田先生が眉をひそめた。
「村田、大丈夫か?」
「はい」
でも、大丈夫じゃなかった。
昨夜のカラスたちの黒い瞳が、まだ脳裏に焼きついている。
朝の会で、山田先生が重い口調で言った。
「最近、登下校中にカラスに襲われる事故が続いています。十分注意してください」
クラス中がざわめいた。僕だけじゃない。みんな怖がっている。
「先生、いつ頃治まるんですか?」
女子の一人が震え声で聞いた。
「それは……」
山田先生は言いよどんだ。
「自治会で対策を検討中です」
検討中。
つまり、まだ何も決まっていない。
休み時間、健太が僕のところにやってきた。ポケットの中でビー玉をカチャカチャと鳴らしている。
「おい、裕一。昨日の夜、うちの近くにもカラスが来てたぞ」
「え?」
「電線にびっしりと。まるで見張ってるみたいだった」
僕は背筋がぞっとした。
僕の家だけじゃなかった。
「もしかして、僕たちを覚えてるのかな」
健太の顔が青ざめていた。
千春が図書室から戻ってきた。分厚い鳥類図鑑を抱えている。
「調べてきたの」
千春は図鑑を開いて、僕たちに見せた。カラスの写真が載っている。
「カラスの記憶力は想像以上よ。一度敵だと認識した人間の顔を、
三年間。
「それに、仲間同士で情報を共有する。危険な人間がいると、群れ全体に伝わるのよ」
僕は
つまり、僕たちはもうカラスたちにマークされているということなのか。
「どうすればいいんだ?」
健太がつぶやいた。
千春は眼鏡を押し上げた。
「今は
「巣って、どこにあるんだ?」
「この辺りだと……」
千春は学校の地図を広げた。
「神社の大きな木、公園のケヤキ、それに駅前の電柱にも巣がある」
僕たちが普段通る道は、すべてカラスの
帰り道のどこにも、逃げ場がない。
朝から空気が重たい。誰もが空を見上げて歩いている。
まるで包囲されているみたいだ。
昼休み、僕たちは校庭の隅で話し込んでいた。そこに、三人の男子がやってきた。
「おい、裕一。カラスの話、本当か?」
芳雄がランニングシャツの裾を直しながら聞いた。膝には新しい擦り傷ができている。
「どの話?」
「カラスが人を覚えるって話だよ」
昭二が小さなトランジスタラジオを抱えながら言った。
「さっき、ラジオで聞いたんだ。専門家が言ってた」
昭二は「ラジオ少年」と呼ばれるほどの無線マニアだった。このラジオも自分で改造したものだ。
「本当よ」
千春が図鑑を見せた。
「カラスは人間より頭がいいかもしれない」
そのとき、一年生の男の子が泣きながら駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん! カラスが!」
芳雄の弟の
「巣から落ちたヒナがいるの。でも、親ガラスが怖くて近づけない」
僕たちは顔を見合わせた。
「行ってみよう」
芳雄が立ち上がった。僕たちもついていく。
坂の途中、大きなケヤキの木の下に、小さな黒い塊が落ちていた。カラスのヒナだった。
まだ羽根も生えそろっていない。か細い鳴き声を上げている。
木の上からは、親ガラスが激しく鳴いていた。
「ギャアアア! ギャアアア!」
まるで怒り狂っているみたいだ。
「かわいそう……」
千春がつぶやいた。
「でも、近づいたら襲われる」
健太がビー玉を握りしめている。
そのとき、敏夫が小さく言った。
「土曜日の自治会の会議、聞きに行かない?」
「え?」
「大人たちが本気で対策を考えてるかどうか、確かめたいんだ」
僕たちは顔を見合わせた。
確かに、大人たちがどんな話をしているのか気になる。
「でも、子供は入れてもらえないでしょ」
千春が心配そうに言った。
「盗み聞きするんだよ」
信吾が鼻をすすりながら言った。
「おれの兄ちゃんが言ってた。大人は子供がいないところで本音を言うって」
芳雄が弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「お前、いいこと言うじゃないか」
土曜日の夕方五時。
僕たちは公民館の裏口に集まった。健太、千春、芳雄、昭二、敏夫、信吾、そして僕の七人だ。
これが、後に「七人の戦士」と呼ばれることになる僕たちの、最初の集結だった。
敏夫が駄菓子屋から持ち出した「
「昭二、例のやつは?」
芳雄が聞くと、昭二が自慢げにラジオを見せた。
「イヤホンを改造して、
細いコードの先に、小さなマイクがついている。
「これを窓の隙間から入れれば、中の話が聞こえる」
「すげえ」
信吾が目を輝かせた。
僕たちは公民館の裏側に回り込んだ。畳の匂いと
会議はもう始まっていた。
昭二が改造マイクを窓の隙間に差し込む。小さなスピーカーから、大人たちの声が聞こえてきた。
夜の虫の声がやけに大きく感じる。
大人の声がひどく遠くに、虫の声がやけに大きく聞こえた。
蚊取り線香の煙が鼻をつき、汗が頬を伝った。
「カラス対策の件ですが……」
「専門業者に
「百万円?」
「高すぎる!」
大人たちがざわめいている。
「しかし、子供たちの安全のためには……」
「でも、そんな予算はありません」
「市に
「申請から
半年。
僕たちは顔を見合わせた。
「それまで、子供たちはどうすればいいんですか?」
誰かが声を上げた。
「とりあえず、登下校時は大人が付き添うということで……」
「でも、毎日は無理でしょう」
「PTAの当番制にしますか?」
「働いている親はどうするんですか」
責任のなすり合いが始まった。
「そもそも、本当にそんなに危険なんですか?」
「子供たちが大げさに言ってるんじゃないですか」
僕は耳を疑った。
大げさ?
僕の頭の傷は大げさじゃない。
大人たちは結局、僕たちの本当の恐怖なんて分かってくれない。
「実際に怪我をした子もいるわけですし……」
「でも、死ぬほどの怪我じゃないでしょう」
「もう少し様子を見てからでも……」
芳雄の拳が震えていた。
健太のビー玉を握る手に力が入る。
千春の眼鏡が曇っている。
そのとき、健太がバランスを崩して、持っていたビー玉を落としてしまった。
コロコロと転がって、石に当たった。
カチン。
小さな音だったが、会議室の中で話し声が止まった。
「今、何か音がしませんでした?」
僕たちは息を殺した。
「風でしょう」
「そうですね」
話し声が再開する。
「それでは、この件は秋まで
秋まで。
つまり、あと半年は何もしないということだ。
「
パチパチと拍手の音が聞こえた。
僕たちは愕然とした。
大人たちは、僕たちを見捨てるつもりなのか。
そう思わずにはいられなかった。
会議が終わって、大人たちが帰っていく。僕たちは裏口に隠れて、やり過ごした。
静寂が戻ってから、僕たちは小さな声で話し合った。
「ひどい」
千春が涙ぐんでいた。
「俺たちのことなんて、どうでもいいんだ」
芳雄が拳を握りしめた。
「お金がないから、死んでもいいってことか」
健太がビー玉を拾い上げながらつぶやいた。まだ手が震えている。
信吾が鼻をすすりながら言った。
「兄ちゃん、どうするの?」
芳雄は立ち上がった。
「俺たちでやるしかない」
「え?」
「大人たちが守ってくれないなら、俺たちで自分たちを守るんだ」
僕たちは芳雄を見つめた。
「でも、どうやって?」
敏夫が心配そうに聞いた。
「カラスの巣を落とす」
芳雄がはっきりと言った。
「巣を落とせば、カラスたちも諦めるだろう」
千春が首を振った。
「危険よ。親ガラスが怒り狂う」
「でも、このままじゃもっと危険だ」
芳雄の目が光っていた。
「明日から調査を始めよう。カラスの巣がどこにあるか、親ガラスの行動パターンはどうか」
昭二がラジオを抱えながら言った。
「連絡手段も考えないと」
「僕が改造した無線機を作る」
敏夫が頷いた。
「物資の調達は僕に任せて」
「ビー玉での
健太が小さく言った。
信吾が兄を見上げた。
「おれも手伝う」
「お前は危険だからダメだ」
「やだ! おれも戦う!」
「俺たち、七人の戦士だな」
健太がそう呟いて、みんなで顔を見合わせた。
小さく、でも確実に、うなずき合った。
そのとき、公民館の屋根から黒い影が飛び立った。
カラスだ。
まるで僕たちの会話を聞いていたかのように。
まるで
僕たちは空を見上げた。
夕暮れの空に、一羽のカラスが円を描いて飛んでいる。
きっと、仲間に報告に行くんだ。
「人間の子供たちが、何かを企んでいる」と。
僕たちの決意を、あいつらも見ていたのかもしれない。
その夜、僕は布団の中で考えた。
本当に僕たちにできるのだろうか。
カラスと戦うなんて。
でも、大人たちは守ってくれない。
だったら、僕たちで自分たちを守るしかない。
明日から、僕たちの戦いが始まる。
あの夜、僕たちもカラスも、互いを忘れなかった。
七人の戦士と、一羽の黒い影。
これがすべての始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます