第20話 スパイの休日
✿ ✿
「部長、お疲れさまです。週末は確か桜……ンンッ、の……だったのでは?」
部署に戻る桐吾に近づいたのは高橋華蓮だった。桜山守、とハッキリ言わず、咳ばらいで濁して見合いの首尾を尋ねる。久世家御曹司である桐吾の縁談はいちおう秘密事項だ。
「ああ、高橋が気にしてくれていたアレか。無事にキャンセルだ。直接話をつけた」
「直接……さすがです」
華蓮はそっと頭を下げる。見合いが壊れたのは少し安心できた。
だが、桐吾がそうした理由は――澪。意中の女性がいるという点で華蓮の胸はズキンと痛む。自分が、と出しゃばる気は毛頭ないが女心は複雑だ。
「先方とは今後、業務提携があるかもしれない。その場合は高橋もよろしく頼む」
「ビジネスにつなげてらしたのですか。すごいじゃないですか」
「向こうが元々そのつもりだっただけだ」
桐吾はなんでもないと言い切るが、実現すれば莫大な金の動く案件になるはずだった。華蓮はふう、と呼吸を整える。常務の正親から命じられた
「では……澪さんもひと安心ですね」
「そうだな」
華蓮の裏任務は、引き続き澪の調査だった。縁談を壊す原因となった女性について知り、桐吾の弱みを握りたいのは正親の意地。
正親は桜山守との折衝を実子である尚親に任せたい意向だ。尚親は久世建設経営戦略部付役員であり、次々代のトップとなるべく育てられている。つまり従兄弟の桐吾とはライバルにあたるのだった。
桐吾自身は社を背負って立つ気などない。伯父と従兄から勝手に警戒されているのだが、それも仕方ないことだろう。会長お気に入りの桐吾は有能で実力主義だが、前に出て偉ぶらないことから実は社員の人気も高い。
「澪さんは、まだお宅に?」
「ああ」
「まあ……ご家族とは大丈夫ですか? 良いところのお嬢さんなのでは。外出した折に連れ戻されたりとか」
「いや。それはないな」
桐吾は笑いそうになるのをこらえた。澪の実家はもうない。連れ戻されるというと、再び祠に封印という形だろうか。
澪を心配する風の華蓮。桐吾は疑うこともしなかった。澪のことを話せる相手が他にいないので気がゆるんだのかもしれない。
「外には出ていいと言ってある。近所なら慣れたようだし、迷子にはならないだろう」
迷子、という言い方に華蓮は微笑んだ。だが同時に胸がチクリと痛む。子ども扱いではあるが、桐吾が澪のことを大切に守っているのが、その言葉に表れていたから。
✿ ✿
「――もうマンションが見えない」
振り返った澪は、桐吾のマンションが他の建物に隠れてしまったことに一抹の不安を抱いていた。この「こんくりーとじゃんぐる」から生還できるだろうか。
「ふみゃ」
「う、うん」
白玉に「頑張れ」と叱りつけられ、澪はできるだけキリッとした顔を作った。
平日、澪は猫の白玉を連れて毎日散歩に出ていた。ごく近所しか歩いていないが頑張っている。現代に慣れるためだ。
(でも、桐吾さんがいないと怖い)
村から一転、街に放り込まれた澪なのだから心細くなるのは道理だった。せめて桐吾と暮らすマンションが見えれば安心なのだが、似たような四角い建物が建ち並びわからなくなる。
「……今日はどこに行こうかな」
一人歩きの初日はマンションの周りをぐるっと回っただけで逃げ帰った。その後、桐吾と歩いた駅までの道やショッピングモールは制覇した。今日は反対側に向かってみたのだが、目的地はない。
迷って立ちどまっていたら名前を呼ばれた。女性の声だった。
「澪さん――?」
「――あ」
その人を見て澪の顔が明るくなった。立っていたのは華蓮――着替えを買いそろえてくれた良い人、と澪には認識されている。だが実は澪に接触をはかりに来たスパイだ。
「あらためまして、久世部長にはいつもお世話になっています。高橋華蓮と申します」
「こちらこそ先日はありがとうございました。森沢澪です」
ペコリとする澪と挨拶し、華蓮はやっと澪のフルネームを手に入れた。
澪の出自はまったく不明。人物や経歴を調べるにも名前すらわからない状態で困り果てていたのだ。桐吾の最近の行動を洗ったが、澪とどこで会っていたのかも謎――デートの痕跡がないのは、突然祠から出てきた澪が悪いのだが。
「みゃおーぅ」
ひと鳴きすると白玉は華蓮の足もとに寄ってふんふん嗅いだ。華蓮の相好が崩れる。華蓮も猫は好きなのだった。
「猫ちゃんの散歩なんていいですねえ。あ、おめめの色が違う! この子は部長の?」
「いえ、私の……白玉だけは連れて来たんです」
「白玉っていうんですか。きれいな毛並みですし」
そっと身をかがめる華蓮の手を白玉はペロ、とする。美味しそうだ。
「ふふ……猫ちゃん連れて、公園に行かれるんですか? あっちに大きめのがありますよね」
「そうなんですか? じゃあ行ってみようかな」
目標を定めたもののきょろきょろする澪に、華蓮は同行を申し出た。
歩きながら華蓮は引っ越しを考えているのだと説明した。この街も候補のひとつで、今日は有休を取り不動産屋に行ってみるつもりなのだと。まったくの嘘だが、澪はよくわからないままにうなずく。
「お仕事はお休みなんですね」
「はい。私がいなくても部長はぜんぜん問題ないですよ」
「でも高橋さんのこと、すごくほめてました」
「そ、そうですか……嬉しいです」
桐吾の評価を伝えると、華蓮は照れたように頬を染める。きちんと働いている華蓮のことが澪はうらやましくなった。
「私もお仕事ができればいいんですけど……」
「ええと、でもおいくつですか? すごく若いように見えますが」
「二十一、です」
「はあ……じゃあ学生さんなんじゃ」
「あ。ええと」
澪は言葉を濁す。桐吾は「大学生の年齢」と言っていたが、澪には大学の制度などわからなかった。設定を詰めておかなかったのは桐吾のミスでもある。だがこんなところで知人に会うと思わないじゃないか。
黙ってしまった澪のことを、華蓮は勝手に誤解した。どこかの良い大学に通っているが、家出の件があって授業に出席しづらく悩んでいるのだろう。学費だって親持ちなら、いっそ退学して働いてしまいたい――というのは苦労知らずのお嬢さんらしい発想だと思った。
「失礼ではありますが……ご家族とはお話しできました? 家出、したんですよね」
「……いえ、ちゃんとは」
澪は曖昧に答えた。
(家出。これ家出なの? あの祠は壊れちゃったし、帰る家なんてない)
澪のこと、桐吾はもう一度封印しようとするのだろうか。今は偽物の妻という役割があるから一緒に暮らしてくれるけど。
考えると澪はますますしょんぼりしてしまう。華蓮はなんだか澪がかわいそうになって励ました。
「ああ、ご両親も怒ってらっしゃるのかな。そうか、久世部長ってやり手のビジネスマンですからむしろ信用できないかも。大事なお嬢さんが悪い大人にだまされてるみたいに思われたんでしょうね」
「私、だまされてるんですか?」
びっくりする澪に華蓮は吹き出して笑ってしまった。
(なんて素直な子なんだろう――部長が守ってあげたくなるのもわかっちゃう)
「そんなわけないですよ。澪さんのことを話すと、部長の声がやわらかくなるんです。自信持っていいですからね」
何故か澪を力づける感じになってしまい、華蓮は自己嫌悪におちいる。とんでもない嘘つきになった気がして嫌だったが――それでも澪に好感を持ってしまうのは止められなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます