其之弐 山の法帝

 「何とかげて、おおくの侍臣よりり抜きて遊ばし、其のお召しの有って順服まつらい申し上げますからには、虎の臥す野辺のべわにの寄する浦の際涯はたてまでもお連れ下さいませ……」と惟秀と岡部と両人ふたりなが潸然さめざめと泪して申し上げまするも、「御仏みほとけも初めて世をのがれて山籠もりなされし折は、五人いつたり御許人おもとびとの従い申し上げていたと承るゆえ、然様さようなる物言いともなるであろう。なれど此の車は何処いづくなりとも棄て置きなさい。修業すぎょうの始めぞ、此処ここよりは徒歩かちにてもうづることに致そうよ」と仰有おおせあり、牛を税駕ときはなち遊ばして御車より下御おりおわしまするのでした。

 だし朝月夜あさづくよの程、藐姑射はこや御仙居おすまいにおき遊ばすと、山の御主おしゅうの院も〔朱雀院〕不慮おもわず御瞠目おどろきあらせられ「如何いかがなされしや、明けらぬ彼誰時かはたれどきに……」と玉音のたまながらも、遙けく久闊ひさしきの御対面おんたいめをばお悦び遊ばします。

 六条の院〔源氏の君〕いたたづの如く細やぎ遊ばして御瘠躯ごそうくなれど、往昔むかしのままの御影おすがたのようにも仙院〔朱雀院〕には思さるるので、御互かたみに万感胸に迫り、御兄君おんせうとぎみとして「清々しくも世をるるか、善くこそ御心定おきめめ遊ばしたることよ」とお申し遊ばすと、御弟君おんおととぎみ

 「幻の身を知るからの心もて夢てふ世をば過ぐしはてめや(人たる物など正体しょうだい無き幻なると知りながら、然様さようなる夢幻ゆめまぼろしの如き此岸このよにてながに過ぐしおおすることなど叶わぬであろう)と思い立ちてより、過ぎゆく月日のみだりにながう感ぜられて、文目あやめも知らぬおさなき年の頃の心地までも致しまして」と申し上げなさいますので、山の院〔朱雀院〕も、

 「夢の世と思ひそむるや紫の根さへ枯れ野は風もたまらず(此岸このよをば儚きものと思い染めようと仰有おおせあるか、成る程、紫の対の上〔紫の上〕も儚うなられてすべてを茫々たらしむる風の吹きすさぶことよ)」

御返歌おんかえしうたを遊ばします。

 何事に付けても唯々ただただ六条の院〔源氏の君〕お一人こそ世の御守おんまもり、柱石ちゅうせき屏翰へいかんおむとて御坐おわしますに、如何程いかほどにぞばかりに奥邃おくぶか御志おこころざしなるやと、御法体ごほったいにてあらせらるる〔朱雀院〕とて御心みこころには可憐いじらしうも心惹かれつつ、なれど可惜あたらしうも思し召されて、兎も角も様々なる御感慨をば御抱おんいだき遊ばすのでした。かけて〔紫の上〕のことなど口端くちのはのぼすること無き六条の院〔源氏の君〕は、なまじい彼の上〔紫の上〕のこと話頭わとうとせらばあたなうことにも成り兼ねぬと思し召されて御眼おんまなこに泪をばきららかして御坐おわするのでございます。まことにぞ、何と浅からぬ対の上〔紫の上〕への御志おこころざしにてございましょうや。


 ☁︎ ☀ ☁︎ ☁︎ ☁︎


 その頃、六条院では邸主あるじ御坐おわしまさぬにようよう気附いた人々が打ち騒ぎ、院の〔源氏の君〕お姿をぞお尋覓さがし申し上ぐること云うをちますまい。言祝ことふぐべき元朝がんちょうでもございますのに、国父くにのちちにもなずらえらるる御方おんかたの、御在処も知らさず往方ゆくへも知れずお成り遊ばすので、さなが天壤あめつちかえすが如く皆々驚倒のていとなるは如何いかんともし難きことにてございました。

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