〔私訳〕雲隠

工藤行人

本編

其之壱 言忌の日

【『源氏物語』第卌一帖「幻」より】

(元日わたりのこと、例年いつもよりねんごろにと仰せ付け遊ばし、親王みこ方、大臣おとどへの御引出物おんひきでもの、皆々への禄賜とうばりなどなべてにわた御用意おもうけなさってとのことにて……)


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 かくて、睦月むつびづきあらたしき年始めに向けて御支度おしたくの御心積もりなど、例年いつもより入微こまやかに仰せおきてらるるも、そこたのもしう見申し上げておりますと、元日ついたち早朝とらひとつと云うに、惟光の子で惟秀と申して、六条の院〔源氏の君〕御傍おそばを離れず、院の御影おんかげよりも御躬おんみ近くにはべって召仕めしつかわるる家礼けらい御随身みずいじんの岡部と御前駈おんさきがけばかりにて、往古むかし微行しのびあるきを思いいださする、お召し慣れたる網代庇あじろびさしの御車に前後まえうしろ御簾みす掛けて絹布すずし下簾したすだれを垂らし「咫尺まぢかき処に申し上げたきことありて」とて出御いでましあらせられたのでございます。

 「今日は縁起でも無いことを忌むべき元日こといみのひなるに、だし夜の明けぬ裡に御行おあるきなさることよ」と惟秀は鬱悒いぶせく気懸かりで、近曾ちかごろは院の御心みこころ従前これまでのように御正気おんうつつざまにても御坐おわしまさぬと、御前にさぶらう皆々もお見受けして心煩こころわずらう最中さなかにあって「如何いかなる御事おんことにて御坐おわするや、源氏の院たる御方おんかたのかくばかり微々たる御供おともにては、良からぬ後聞のちのきこえ出来しゅったいするのでは」と躊躇たゆたわれつつ、かと云うて妨げ申し上ぐる訳にも行かぬので、「さて何処いづちなりともお伴致しましょうぞ」とぞ聞こえさするのでした。

 院は「西山の帝〔朱雀院〕に申し上げたきことのある」と仰有おおせあり、其処そこへ行き往く途次みちすがらにも惟秀は案定さればこそと思いながら、ようよう西山の御寺みてらを院は御眼路おんめじにぞ見及ばるる程にお成りになって、「我躬おのがみは最早、此岸このよをば去るべきぞ。深山窮谷ふかきやまにも入り立ち、釈尊みほとけ前世さきつよたきぎり水をはこんで阿私仙あしせんつかえたと云う故事ためしの如く勤行つとめせんと存ずるからには、奉仕つこうまつ何人なんぴとも無用、此処ここよりそこらは退帰もどりなさい」と仰有おおせあるのです。

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