第10話:名も知らぬ君と、新たな旅の序章
オアシスの街シフルでの日々は、まるで砂漠の陽炎のように、現実感を伴わないまま、それでいて穏やかに過ぎていった。時間の流れそのものが、外界とは違う法則で動いているかのような、ゆったりとした数日間。カイに保護された謎の美少女は、その慈しむような時間の流れと、カイの献身的な看病の中で、少しずつ、しかし着実に生命の輝きを取り戻していった。
最初の二日間は、彼女はほとんどベッドの上で過ごした。カイが宿の厨房で特別に作らせた、滋養に富んだスープや、柔らかく煮込んだ果物を口にするのが精一杯。その顔色は、まるで上質な陶器のように蒼白く、言葉を発することも稀だった。だが、彼女の瞳は生きていた。深く澄んだ紫水晶の瞳は、静かに部屋の中を観察し、窓の外の景色を追い、そして何よりも、カイの姿をじっと見つめていた。
カイは、彼女の過去について一切を問わなかった。なぜ高価な海シルクを纏いながら、砂漠の 真ん中で倒れていたのか。何から逃れ、どこへ向かおうとしていたのか。その胸の内に、どれほどの物語と傷を隠しているのか。尽きない疑問はあったが、彼はそれを無理にこじ開けようとはしなかった。傷ついた鳥が手のひらの上で安心するまで、ただ静かに待つ。それこそが、彼が彼女に対して示すことのできる最大限の敬意であり、誠意だと信じていたからだ。
それに、とカイは自嘲気味に思う。彼女のそばにいるこの奇妙な時間は、彼自身にとっても満更ではない、むしろ心地よいものですらあった。
それは、常に警戒と闘争の中に身を置いてきた彼にとって、未知の感覚だった。静かな部屋で、ただ一人の少女の呼吸に耳を澄ます。彼女が眠る間、窓辺で愛剣の手入れをしながら、時折その寝顔に視線を送る。彼女が目を覚ませば、何気ない会話を交わし、食事の世話をする。その一つ一つの行為が、カイの心に今まで感じたことのない、温かく、そして柔らかな感情を芽生えさせていた。心地よい緊張感と、魂が安らぐような平穏。相反する二つの感情が、奇跡的なバランスで彼の内に同居していた。
時折、彼女が見せる表情に、カイは心を奪われた。中庭に咲く名も知らぬ花を、窓辺からじっと見つめる時の、どこか遠くを見ているような儚げな横顔。カイが冗談めかして話す昔話に、小さく口元を綻ばせる瞬間の、子供のような無邪気さ。そして、ふとした瞬間に彼女の瞳の奥に宿る、カイの理解を遥かに超えた、底知れない神秘性。そのすべてが、抗いがたい引力となって、カイをますます強く惹きつけていった。
(…まずいな。これは、かなりまずい)
カイは内心で何度も頭を抱えた。
(こんな清純で美しい少女と、一つ屋根の下で数日間も二人きりで過ごすなど…前の人生の俺が見たら、一体何と言うだろうか。これも異世界転生の醍醐味というやつか…いやいや、下心は断じて禁物だ。俺は紳士でなければならん。そうだ、彼女の保護者であり、恩人なのだから…)
彼の脳内では、理性と本能が激しい戦いを繰り広げていた。長年の経験で培われた冷静な自分が、思春期の少年のように浮足立つ自分を必死に諌める。その葛藤は、誰にも知られることなく、カイの中で静かに続いていた。
しかし、彼の態度は常に穏やかで、思慮深かった。その紳士的な振る舞いは、確実に少女の心に届いていたようだ。最初はカイが部屋に入るだけでも身を硬くし、その瞳に消えない警戒の色を浮かべていた彼女が、日を追うごとに少しずつその鎧を脱いでいくのが分かった。
カイが差し出す食事を躊躇なく受け取るようになり、やがては自らの手で匙を握るようになった。カイが部屋にいることに安らぎを感じるかのように、穏やかな寝息を立てる時間が増えた。そして何より、彼女の澄んだ瞳が、カイをただの「見知らぬ救助者」としてではなく、「信頼できる誰か」として見つめる時間が増えていったのだ。
言葉はまだ少なかった。しかし、二人の間には、言葉以上の確かなコミュニケーションが生まれ始めていた。カイが市場で買ってきた、瑞々しいザクロの実を差し出した時、彼女は驚いたように目を丸くし、そして受け取った赤い実を愛おしそうに見つめた後、カイに向かってはにかむように微笑んだ。その微笑みはまだ蕾のように硬かったが、カイの心には春の陽光のように暖かく差し込んだ。
シフルに来て五日目の朝。
その日は、いつもより空気が澄み渡り、中庭の噴水の水音がことさら涼やかに響いていた。東の空が白み始め、柔らかな朝の光が窓から斜めに差し込み、部屋の中の塵をきらきらと輝かせている。
カイが目を覚ますと、いつもはまだベッドの中にいるはずの少女の姿がなかった。一瞬、心臓が冷たくなるのを感じたが、すぐに部屋の奥、窓辺に立つ小さな人影を見つけて安堵の息をついた。
少女は、宿から借りた簡素な白いワンピースを身にまとい、窓辺に立って朝の光を全身に浴びていた。その姿は、まるで光から生まれた精霊のようだった。朝日を浴びた濡羽色の髪は、天使の輪のように淡い光を放ち、透き通るような白い肌は、内側から発光しているかのように輝いている。彼女は裸足のまま、ひんやりとした石の床に立ち、じっと外の景色を眺めていた。その足取りは、数日前とは比べ物にならないほど、しっかりとして見えた。
カイはしばらく、その神々しいまでの光景を、息を殺して見つめていた。やがて、彼女がゆっくりと振り返り、カイが起きていることに気づくと、彼は静かにベッドから起き上がり、声をかけた。
「体調は、もうだいぶ良くなったみたいだね」
その声は、朝の静寂を壊さないよう、努めて穏やかだった。
少女はカイの顔をまっすぐに見つめた。その紫水晶の瞳は、以前のような虚ろさや警戒心ではなく、澄み切った湖の水面のような、穏やかな光を湛えていた。そして、小さく、しかし凛とした、はっきりとした声で言った。
「…はい。あなたのおかげです」
その声は、カイが初めて聞く、彼女の本当の声だった。それはまるで、澄んだ風が銀の鈴を優しく揺らしたかのような、可憐で、清らかな音色を持っていた。その言葉と音色が、カイの心の最も柔らかい部分を、不意打ちのように鷲掴みにした。彼の心臓が、ドクン、と大きく、そして不覚にも高鳴った。
「…まぁ、医者のユスフ先生の薬と、ここの宿の食事が良かったんだろ。俺はただ、君をここまで運んできただけだ」
カイは込み上げてくる照れを隠すように、わざとぶっきらぼうに答えながら、ガシガシと頭を掻いた。その仕草に、少女はくすりと小さく笑った。その笑みを見て、カイの心臓はさらにうるさく鳴った。
少しの沈黙の後、カイは意を決して、ずっと聞かなければならないと思っていたことを口にした。
「それで…これから、どうするつもりなんだい? 行くあてはあるの?」
これは、彼女の未来に関わる、重要な質問だった。同時に、この平穏な時間が終わる可能性を秘めた、カイにとっては少しだけ酷な質問でもあった。
カイの問いに、少女の表情からふっと笑みが消えた。彼女は静かに首を横に振り、その視線を床に落とす。その華奢な肩が、わずかに震えているように見えた。長い睫毛が落とす影が、その表情に一抹の寂しさと、先の見えないことへの深い不安の色を浮かべていた。
(やはり、そうか…。何か複雑な事情を抱えているようだ。帰る場所がないのか、あるいは…帰れないのか)
彼女の様子から、カイはすべてを察した。これ以上、彼女を一人にしておくことはできない。いや、したくない。カイの心は、すでに決まっていた。
彼は一つ、深く息を吸い込むと、彼女の前に進み出て、その顔を覗き込むようにして言った。その声には、自分でも驚くほどの真剣さと、優しさがこもっていた。
「もし、もしも行くあてがないというのなら…しばらく、俺の旅に付き合ってみないか?」
少女は、驚いたように顔を上げた。見開かれた大きな瞳が、信じられないというようにカイの顔を見つめている。その瞳には、彼の言葉の真意を確かめようとするような、強い光が宿っていた。
カイは、彼女を安心させるように、悪戯っぽく笑いながら続けた。
「俺はカイ。見ての通り、気ままな旅人さ。特にこれといった大層な目的があるわけじゃない。ただ、この世界の様々な場所を見て回り、知らない街で美味いものを食い、時には強者と手合わせをし…まあ、要するに、一度きりの人生を存分に楽しもうと思っているだけだ」
彼は言葉を切り、彼女の目をまっすぐに見つめて、さらに続けた。
「君が何者で、どんな過去を持っているのか、俺は知らない。君が話したくないのなら、無理に話さなくていい。俺は何も聞かないと約束する。ただ、これからの長い人生、たった一人でいるよりは、誰かと一緒の方が心強いこともあるだろう? 俺は見ての通り、これでもそこそこ腕には自信があるつもりだ。君一人の安全を守ることくらいは、できると思う。もちろん、旅の途中で君が行きたい場所が見つかれば、そこまで送り届ける。退屈は…させないつもりだが…どうかな?」
カイは、差し出した自分の手を、彼女に見せるように広げた。そこには、剣を握るためにできた硬いマメと、幾多の戦いでついた古傷があった。それは、彼の言葉が単なる口先だけのものではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。
少女は、カイの言葉を、そしてその手を、黙ってじっと見つめていた。その瞳の中で、様々な感情が揺れ動いているのが見て取れた。驚き、戸惑い、不安、そして、かすかな希望の光。
長い、長い沈黙が流れた。中庭の噴水の音だけが、静かに二人の間を満たしている。
やがて、少女の表情が、ふっと和らいだ。固く閉ざされていた蕾が、春の陽光を浴びてゆっくりと、一枚、また一枚と花弁を開いていくように。彼女の唇に、これまで見せたことのない、完璧で、そして心からの美しい微笑みが浮かんだ。
その瞬間、カイは息を呑んだ。
世界のすべての色彩が、その微笑みの中に凝縮されたかのようだった。それは、カイがこの世界に来てから、いや、前の人生を含めても、今まで見たどんな美しい景色よりも、どんな高価な宝石よりも、彼の心を根こそぎ奪っていく、圧倒的な光景だった。その微笑みの前では、星々の輝きさえも色褪せて見えるだろう。
「……はい」
花が開くように微笑んだまま、彼女は答えた。
「カイ様と、ご一緒させてください」
その声は、微かに震えていたが、そこには確かな決意が込められていた。彼女はそう言うと、カイの前で、貴婦人が騎士に礼を尽くすかのように、丁寧な仕草で小さく頭を下げた。
「カイ様」という、思いがけない敬称に、カイは一瞬面食らったが、それ以上に、彼女が自分の提案を受け入れてくれたという喜びが、胸いっぱいに広がっていった。
こうして、カイと、まだ名も知らぬ美少女の二人旅が、この砂漠のオアシス、シフルの街から、正式に始まることになったのだった。
その翌日。
二人は旅立ちの準備を整えた。カイは市場で頑丈な水袋と保存食を多めに買い込み、少女のためには、砂漠の強い日差しと夜の冷気から身を守るための、上質なフード付きのマントを新調した。少女は、最初は高価なものを贈られることに恐縮していたが、カイの「旅の仲間への先行投資だ」という言葉に、はにかみながらもそれを受け取った。
旅立ちの朝、二人はまず医者のユスフの家を訪れた。ユスフは二人の旅立ちを知ると、目を細めて喜び、「若者よ、そのお嬢さんをくれぐれも大切にするんじゃぞ」とカイの肩を叩き、そして少女には、旅先で役立つであろう数種類の薬草と軟膏を、餞別だと言って持たせてくれた。
次に、二人は「砂漠の月影亭」に戻り、宿の主人に丁重に礼を述べた。主人は数日間の宿代と食費を頑なに受け取ろうとしなかったが、カイが「これは世話になった礼ではなく、次に来た時に最高の料理を食わせてもらうための予約金だ」と言うと、ようやく豪快に笑ってそれを受け取った。女中たちも名残惜しそうに、二人、特に美しく物静かな少女に、干し果物や焼き菓子をたくさん持たせてくれた。
シフルの人々は、皆、温かかった。短い滞在だったが、二人はこの街で、人の情けというものの有り難さを改めて感じていた。
街の門まで、ユスフと宿の主人、そして顔なじみになった数人の街人が見送りに来てくれた。
「カイ殿、お嬢さん、道中お気をつけて」
「またいつでもこの街にお寄りください!」
温かい言葉に見送られ、二人は街の人々に深く頭を下げると、再び広大な砂漠の世界へと足を踏み出した。
街を一歩出ると、そこはもう生命の世界ではなく、砂と空と太陽だけの、雄大で、しかし厳しい世界が広がっている。太陽はすでに高く昇り始め、二人の影を砂の上に長く、長く伸ばしていた。
次なる目的地は、まだ決めていない。ただ漠然と、北へ向かえばカイが以前滞在したフロンティアの街があり、そこからさらに東へ行けば商業の盛んな共和国、西へ行けば強大な軍事力を持つ帝国がある。南は、再びこのアズラエル大砂漠がどこまでも続いているだけだ。
「さて、と」
カイは隣を歩く少女に、まるで世界の選択肢をすべて提示するかのように、大げさな身振りで問いかけた。
「どっちへ行こうか、お嬢さん。北か、東か、西か。君の行きたい方角があれば、そちらへ向かおう」
カイは、彼女が何か手がかりを口にすることを、少しだけ期待していた。
しかし、少女はカイの顔をじっと見上げた後、少しだけ考えてから、静かに、そして確かな信頼を込めた声で、こう答えた。
「カイ様の…行きたい場所へ」
その言葉に、見栄や遠慮はなかった。ただ純粋に、あなたに全てを委ねます、という絶対的な信頼が込められているように、カイには感じられた。
カイは、その答えに満足そうに微笑むと、迷うことなく北を指さした。
「よし、決まった。じゃあ、まずは北を目指そうか。大きな街があるし、そこからならどこへ行くにも都合がいいだろう」
「はい、カイ様」
少女はこくりと頷き、カイの半歩後ろを、しっかりとした足取りでついて歩き始めた。
太陽が昇り、砂漠は黄金色に輝き始める。乾いた風が二人のマントをはためかせ、少女の濡羽色の髪を優しく揺らした。
彼らの前には、どこまでも続く砂の海と、果てしなく広がる青い空だけがある。未来に何が待ち受けているのか、今はまだ誰にも分からない。
だが、カイの心は晴れやかだった。隣を歩く、この美しく、謎めいた少女。彼女との旅は、きっと退屈なものにはならないだろう。
この出会いが、彼の運命を、そしてあるいはこの世界の運命すらも、大きく変えていくことになる大いなる旅の、本当の始まりだった。二人の影は、希望に満ちた朝日の中を、寄り添うようにしてどこまでも伸びていった。
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