第9話『神の声』



 ひかりが十字架を宙に浮上させた瞬間、私は理解した。


 彼女は人間ではない。


 何か別の存在だった。


 神でも悪魔でもない、もっと古い、もっと恐ろしい何かだった。


 そして、その何かが私に向かって微笑みかけながら言った。


「いつか、あなたも神に会うことになるでしょう」


---


 その日は、何も起こらなかった。


 ひかりの予言では「裏切り者が血を流す」はずだったのに、誰も傷つかなかった。


 私は一日中、身を縮めて過ごした。いつ襲われるかわからない恐怖の中で。


 でも、信者たちは私を見つめるだけで、何もしてこない。


 むしろ、困惑しているようだった。


 神の予言が外れるなんて、これまで一度もなかったから。


 昼休み、私は一人で中庭にいた。


 信者たちが遠巻きに私を見ているが、近づいてこない。


 まるで、私が何か危険な存在であるかのように。


 そのとき、美羽がやってきた。


「如月さん、なぜ何も起こらないのでしょうね?」


 美羽の声には、苛立ちが混じっていた。


「さあ……神様にしかわからないんじゃない?」


「神様が間違うはずありません」美羽は私を睨む。「きっと、何か理由があるはずです」


 美羽は立ち去った。でも、その前に振り返って言った。


「今夜、礼拝堂にいらしてください。ひかり様がお呼びです」


 私の血が凍った。


 ひかりとの直接対決が、ついに始まる。


---


 その夜、私は礼拝堂に向かった。


 校舎は真っ暗で、人の気配はない。でも、礼拝堂だけは薄明かりが灯っていた。


 扉を開けると、ひかりが一人で祭壇の前に座っていた。


 いつもの威厳に満ちた姿ではなく、普通の高校生のような格好をしている。


 でも、その普通さが逆に不気味だった。


「いらっしゃい、沙羅」


 ひかりは振り返って微笑んだ。その笑顔は美しかったが、どこか人間離れしていた。


「座って」


 私は慎重に、ひかりから少し離れた場所に座った。


 礼拝堂は静まり返っている。外の風の音だけが、かすかに聞こえてくる。


「今日、私の予言が外れました」ひかりが口を開く。


「そうね」


「あなた、なぜだと思いますか?」


 私は答えに困った。正直に言えば、ひかりの予言がただの偶然だと思っている。でも、それを口にするわけにはいかない。


「わからない」


「神の慈悲です」ひかりは微笑む。「神は裏切り者であるあなたに、最後の機会を与えてくださったのです」


「最後の機会?」


「改心の機会です」ひかりは立ち上がって、私に近づく。「あなたが真の信仰に目覚める機会を」


 私は身構えた。ひかりが何をするつもりなのか、わからなかった。


「沙羅、あなたは私を人間だと思っていますね」


「人間でしょ?」


「半分は正解です」ひかりは私の前に座る。「でも、半分は違います」


 ひかりの瞳が、暗闇の中で光った。


 人間の目ではない。もっと深い、もっと古い光だった。


「私には、本当に神の声が聞こえるのです」


 私は首を振った。


「そんなことあるわけない」


「では、証明してみましょう」ひかりは私を見つめる。「あなたの過去を話してみます」


 ひかりは目を閉じて、何かに集中するような表情になった。


「あなたは7歳の時、母親の葬儀で泣きませんでした」


 私の心臓が跳ねた。


 確かに、私は母の葬儀で涙を流さなかった。周りの大人たちは「ショックで感情が麻痺している」と心配したが、実際は違った。


 私は母の死を、どこか他人事のように感じていたのだ。


「なぜ知ってるの?」


「神がお教えくださいました」ひかりは目を開ける。「続けましょうか?」


 私は黙っていた。


「あなたは10歳の時、父親に『なぜ神様はお母さんを助けてくれなかったの?』と質問しました」


 また的中だった。


 私は確かにその質問をした。そして、父は答えに困って、結局曖昧な返事しかしなかった。


「12歳の時、あなたは教会の十字架を蹴飛ばしました」


 私の顔が青ざめた。


 それは誰にも言ったことのない秘密だった。


 ある日曜日、父に連れられて教会に行った私は、説教の最中に外に出た。そして、誰も見ていないのを確認して、小さな十字架を足で蹴ったのだ。


 神への反抗として。


「どうして……」


「15歳の時、あなたは屋上から飛び降りようと思いました」ひかりは続ける。「でも、怖くなってやめました」


 私は震えていた。


 確かに、中学3年の時、私は一度だけ自殺を考えた。母への思い、父への罪悪感、神への怒り。全てが重なって、生きることが辛くなった。


 でも、結局は死ぬ勇気がなくて、何もしなかった。


 誰にも話したことのない秘密だった。


「そして昨年、あなたは父親の聖書を破りました」


 私の血が凍った。


 それは最も秘密にしていることだった。


 ある夜、父の書斎で聖書のページを破いて、ゴミ箱に捨てた。神への最後の反抗として。


 翌日、父は聖書が破られているのに気づいたが、私を疑うことはなかった。


「なぜ……なぜそんなことまで知ってるの?」


「神は全てをご存知です」ひかりは優しく微笑む。「あなたの罪も、苦しみも、全て」


 私は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。


「あなたも神の子なのです、沙羅」ひかりは手を伸ばす。「神はあなたを愛しておられます」


「嘘よ」私は震え声で言った。「神なんていない」


「いえ、います」ひかりは断言した。「そして、今ここにおられます」


 ひかりは祭壇を指差した。


 そこには金の十字架が置かれているだけだった。


 でも、ひかりがそう言った瞬間、十字架がゆっくりと宙に浮き上がった。


 私は目を疑った。


 トリックかもしれない。透明な糸でも使っているのかもしれない。


 でも、十字架は重力に逆らって、空中に静止していた。


「信じられませんか?」ひかりが微笑む。


 十字架が回転を始めた。ゆっくりと、美しく、まるで踊っているかのように。


 そして、祭壇のろうそくの火が踊り始めた。


 風もないのに、炎が波のように揺れている。


 聖書が開かれ、ページが勝手にめくれていく。


 バサバサという音が、礼拝堂に響く。


 私は恐怖で動けなかった。


 これは科学では説明できない現象だった。


「どうやって……」


「神の力です」ひかりは立ち上がる。「私は神の代理人として、この力を授けられました」


 ひかりが手を振ると、全ての現象が止まった。


 十字架は元の場所に戻り、ろうそくの火は静かになり、聖書は閉じられた。


 まるで何事もなかったかのように。


「信じられますか?」ひかりは私を見つめる。


 私は何も答えられなかった。


 目の前で起こったことは、現実だった。でも、受け入れることができなかった。


「科学的な説明があるはず」私は必死に言った。


「科学?」ひかりは笑った。「科学で説明できないことなど、いくらでもあります」


 ひかりは祭壇の奥を指差した。


 あの禁じられた扉が、わずかに開いている。


「神はあの部屋におられます」ひかりは静かに言った。「真の神が」


 扉の向こうから、微かな光が漏れている。


 金色の、暖かそうな光。


 でも、その光を見ていると、なぜか恐怖を感じた。


「いつか、あなたも神に会うことになるでしょう」ひかりは予言した。「そして、その時、あなたは全てを理解します」


 私は扉から目を逸らせなかった。


 その向こうに、何かがいる。


 神ではない。もっと古い、もっと恐ろしい何かが。


「でも、今日はここまでです」ひかりは微笑む。「神は忍耐強いお方ですから」


 ひかりは私の肩に手を置いた。


 その手は氷のように冷たかった。


「沙羅、あなたには選択権があります」ひかりは囁く。「神を受け入れるか、それとも……」


「それとも?」


「滅びるか、です」


 ひかりの言葉が、私の心に重く響いた。


「考えてみてください」ひかりは立ち去ろうとする。「でも、あまり時間はありません」


「どういう意味?」


「明日、新たな預言が下されます」ひかりは振り返る。「そして、その預言は必ず実現されます」


 ひかりは礼拝堂から出ていった。


 私は一人、祭壇の前に残された。


 扉の向こうから、まだ光が漏れている。


 その光に誘われるように、私は扉に近づいた。


 でも、手をかけた瞬間、恐ろしい悪寒を感じた。


 この扉を開けてはいけない。


 直感がそう告げていた。


 私は手を引っ込めて、礼拝堂から逃げ出した。


 でも、心の奥では知っていた。


 いずれ、あの扉を開けることになる。


 そして、その時、私は取り返しのつかない何かを失うだろう。


---


 家に帰って、私は父に電話をかけた。


「お父さん、超自然現象って本当にあると思う?」


「どうした? 急に」


 私は今夜起こったことを話した。ひかりの予知能力、宙に浮いた十字架、踊る炎。


 父は長い間沈黙していた。


「沙羅、それは危険だ」


「どういう意味?」


「本物の超能力者は存在する」父は重い声で言った。「でも、その力は必ずしも神から来るものではない」


「じゃあ、どこから?」


「わからない。でも、その力を持つ者は、必ず代償を払っている」


 父の言葉が、私の不安を増大させた。


「ひかりも、何かの代償を払ってるってこと?」


「多分な」父は答えた。「そして、その代償は他の人間が支払うことになる」


 私は寒気を感じた。


 ひかりの力の代償を、信者たちが支払っているのだ。


 彼らの魂と引き換えに、ひかりは超自然的な力を得ている。


「お父さん、どうすればいい?」


「逃げろ」父は即答した。「今すぐに」


「でも、他の生徒は?」


「君一人では救えない」父は厳しく言った。「まず、自分の身を守れ」


 電話を切って、私は窓の外を見た。


 学園の方角に、薄い光が見えた。


 礼拝堂から漏れる、あの金色の光だった。


 距離があるのに、なぜか見える。


 その光は、私を呼んでいるような気がした。


 私は急いでカーテンを閉めた。


 でも、まぶたの裏にも、あの光が焼きついていた。


 私は眠れなかった。


 明日、新たな預言が下される。


 そして、その預言は必ず実現される。


 ひかりの力は本物だった。


 神の力なのか、悪魔の力なのか、それとも別の何かなのか。


 わからない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 その力は、人間を破滅させる。


 私も含めて、全ての人間を。


 神さまごっこは、もう遊びではない。


 本物の宗教戦争になった。


 神と人間の戦いが。


 そして、その戦いは、神の勝利で終わりそうだった。


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