第6話 精神科受診
次の日、杉田真由美は再びクリニックビルを訪れていた。彼女がその中のクリニックに入った場合は、ミクルはそのクリニック潜入して良いと、事前の調査方針で決まっていた。そのため、彼女は自分の保険証もあらかじめ持参していた。仮病で受診するためである。そして杉田は、予想通り精神科クリニックへと入って行った。ミクルも受診の受付を済ませて、待合室の席に座った。
クリニックの公式ホームページによると、院長の生麦賢治は、国内でも屈指の名門大学医学部の大学院を卒業し、さらにアメリカの一流大学に留学して精神医学を学んだことと、精神医学の一般に精通しているが、主な専門領域は、患者の心の奥底に潜む葛藤や欲望を探り、それらを解消する方法を探求する精神分析学的方法、とのことだった。そこにはスーツ姿の生麦医師の上半身の写真も掲載されていたが、さわやかな笑顔が、いかにも知的な好青年といった印象だった。そんな事前情報もあって、受診の目的が『仕事』であるにも関わらず、ミクルは自分の診察の順番が回ってくるのが楽しみで仕方が無かった。
やがて杉田は診察室に呼ばれると、20分程で出てきて待合室に戻り、会計を済ませてクリニックを後にした。彼女の尾行は他の調査員が引き継いだ。そして杉田が去った直後、遂にミクルの名前が呼ばれた。色々な意味で緊張したが、任務を忘れてはいけないと気を引き締めた。ホームページの印象が実物とどれほど一致しているのか確認してみたかったし、困難かもしれないが、女性の診察の状況を少しでも知りたかった。自分の身分を晒すことになるが、そのリスクを犯すだけの価値はあると思った。そして初めて見たその精神科医は、知的で物静かな好青年という、写真とほぼ同様の印象で、ミクルは自分が赤面していないか心配になった。
「こんにちは、咲良魅来さんですね。お座りください 今日が初めてですよね、どうされましたか?」
素敵な笑顔にソフトで洗練を感じる物言い…。魅来はまずいと思った。彼の魅力にそのまま引き込まれてしまうような、強い引力を感じたからだ。
「はい、あ、あの、突然すいません。ちょっと説明しづらいのですけど、それに、気のせいかもしれないのですが、最近自分が自分でないような気がして···」
「なるほど…。可能であれば、そうなった時の状況を、お話できますか? 話せる範囲で構いませんので。話の順序もバラバラで構いません。思い出したことから、口にだしてみてください」
「えーと、そうですね、ぼーっとしていると気がつくと我に帰って行って その間の記憶がなくなっている時があるんです。時計を見ると、1時間ぐらい経っていることもあります。でも正確な時間は…、よくわかりません。自分がいる場所も変わっているんです。家にいたのに、気が付いたら、電車に乗っていたとか、そういうことがあって…。睡眠とは明らかに違うのです。睡眠は、事前に眠気があって、目を覚ました時も、寝ていたという自覚があるのですが、それとはまったく違って、まるで時間と場所が一瞬でワープしたような感覚、と言えばよいのでしょうか、そんな感じなんです」
もちろん、完全な作り話なのだが、この症状の『脚本』を作成したのは、山手だった。私が精神科を受診するような状況になったら、このように言えばよいのではと、この日の朝に、メールで彼から指示があったのだった。それを何度も頭の中で反芻して、うまく病状を伝えられるように努力したのだが、途中からは自分でも何を言っているのか、よくわからなくなってしまった。
「なるほど。それで、そういった症状はいつから始まったのですか?」
「気になりだしたのは···、この1ヶ月ぐらいです。でも、もっと前からそういった症状は起きていたのかもしれませんが、自分でもよく分かりません。『何回くらい』ですか? 数えたことがないからよくわからないんですけど、何度も起きているような気がします」
「それでは、そのような症状が出るのは、どのような場面で、ですか? 例えば自宅で何もしていない時にそういった症状が起こるのか、あるいは外出中や仕事中なのか、場所には関係なく、緊張した時などにそういった症状がでるのか、ということです」
「そうですね…。ほとんどが自宅でひとりの時に、そういった症状が起きたように思います」
「では、我に返った時に、部屋にいたと思っていたところ、いきなり外に出ていた、ということなのですね?」
「そうです、その通りなんです。この程度のことで受診するのも ちょっと恥ずかしかったんですけれども…」
「いえいえ、いいんですよ。そういった『軽い』と自分自身が思い込んでいる症状がきっかけで受診される患者さんが多いんです。しかし話を聞いていくうちに、実は根深い問題が心の中に潜んでいて、それが明らかになり、問題解決の糸口となることもあるのです。その後、継続的な診療の結果、原因が明らかになり、治療が開始され、治癒に至るということもあるんです」
「そうなのですね、よかったです、それを聞いて少し安心しました」
「しかし、困っている患者さんを前にしてこんなことを言うのも申し訳ないのですが、大変興味深い症状ですね」
その後ミクルは、仕事のことや 生活環境のことなどを色々な質問を受けた。仕事に関しては、保険会社に勤めているということにした。 これに関しては常套句のひとつだった。生活については独身でひとり暮らしだと説明したが、これに関しては嘘ではない。交際している男性はいるのかとも聞かれたが、いないと答えた。そこまで答える必要があるのか あるいは訊く必要があるのかはよくわからなかったが、男女関係が精神的に大きな影響を及ぼすことは、彼女自身が探偵社での仕事上で、毎回のように経験していることでもあり、やはり情報としては必要なことだと、その時点ではそう思うことにした。
「よくわかりました」と生麦医師は言った。「いくつか興味深い点がありますし、症状の解決に至るプロセスもおぼろげながら見えてきましたが、限られた時間であなたの症状の全てを把握することは難しいように思います。ところが、他の患者もいるので、これ以上時間を取るのが難しいのです。そこで提案があるのですが···」
「何でしょう?」
「今申し上げた通り、限られた診療時間内で、貴方の症状を訊いて、分析するのは難しいのです。そこで、あなただけで特別に…、なのですが、今日の夜にでもふたりだけでお会いして、もう少し詳しく話を伺えば、あなたの病状に対する理解度がより深まり、解決も早いと思うのです」
「えっ!? どういうことですか?」
「貴方のような人に相応しい、素敵な場所で会いましょう。行きつけの3つ星レストランがありますので、そこにでも。もちろん、費用は全て私が持ちますからご安心を。自分で言うのもなんですがこれはかなりの大サービスだと思いますよ。最高の食事と治療を無料で体験出来るのですからね」
ミクルは了承したが、話が意外な展開に進み、唖然としていたというのが、実際のところだった。それにしてもこの医者、実はどういう人なのだろう。見た目と中身にギャップがあるのは珍しいことではないが、いくら診療時間に制約があるとは言え、患者と個人的に会おうとするなど、本来あってはならないことだと思うのだが···。
そんなわけで、ミクルはその夜、都内の高級ホテルのフレンチレストランに出撃した。ちなみに、杉田真由美と見浪弘明が会っていたレストランとは別の店である。生麦はすでにその場でテーブルに座って待っていて、彼女の姿を認めると、手を挙げて合図を送って来た。
「待ってたよ」
すでにこの時点で敬語省略という事実にミクルは内心呆れていたが、生麦はそれに気付いている様子も無かった。
「いや~、君のような可愛い子が一緒に食事してくれるのは、本当に嬉しいよ、ま、とりあえず座ってよ」
「先生、早速ですが、私の症状についてなのですが…」
「まあそんなに慌てなくていいよ。まずはゆっくり食事でも楽しもう」
生麦は笑いながらミクルに言ったが、その笑顔は、ネットで最初に見た写真の印象とは違って、今では邪悪ささえ感じられた。
「先生、私、食事を楽しむとか、そういうつもりで来たわけではないのですが」
「えっ? でも君だって、こういう展開になるって事は期待していたんだよね、本当は君も嬉しいんだろ、僕に誘われて。自分でいうのもなんだけど、僕ほどスペックの揃った男はいないからね。君は大抜擢なんだよ。どんなに頑張っても、僕から声がかからずに地団駄を踏んでいる女の子達が星の数ほどいるということを、忘れちゃダメだよ」
それから生麦は、自分の学歴やら経歴の自慢を、自分が女性にどれだけモテるのかということを、延々と語り始めた。また、患者に多くのセレブがいるが、個人情報になるので、実名は明かすことができないと言いつつも、超有名ミュージシャンと食事をしているところや、超一流プロ野球にグラウンドまで招待されている、等の画像を、スマホで見せびらかしてきたので、ミクルとしては、機嫌を損ねない程度に、すごいですねと調子を合わせておいたが、この医者と話していると、精神病が良くなるどころか、本来なら発症するはずのなかった精神病まで発症してしまうのではないかという懸念さえ抱いた。
「先生、すいません、ちょっとよろしいでしょうか?」
ようやくミクルに発言する時間が回ってきたときには、すでにメインディッシュを過ぎて、デザートを待っている状態だったが、何を食べたか全く覚えていなかった。自分が訴えた偽りの症状が、本当に出てしまったのかもしれないと、彼女は心配になった。
「なんだい? 僕のことで何か質問あるなら、何でも聞いてよ」
「え、いや…、先生は解離性同一性障害(DID)の患者を診察したり治療したりしたことはありますか?」
「なんだ、そっちの話か。そりゃ、まあ、もちろんあるよ」
「今現在はどうですか?」
「それっぽい人がひとりいるけど…、でもちょっと違うかもしれないな」
「その人、どのような症状を訴えているのでしょうか?」
「それが、実は君の症状と同じような感じなんだよ。自分が自分ではないというか、気がつくと数時間が過ぎていてその間の記憶がなく、言葉に変えると自分が思ってもいなかったようなところにいる、というような症状だ。そのような症状に、DIDがあるように疑っている。ただし、診察中に別人格が姿を見せたことはない。その女性自身がDIDを自覚しているわけでもない。もっとも、記憶の欠落という症状自体が、DIDの症状でもあるけれどね」
「その人、やはり女性なんですか?」
「そう、女性で、たしか30代だよ。3回ほど診察したと思う。来週4回目の予約が入っていたはずだよ。君がそういう患者に興味を抱くというのも、無理はないかもしれない。症状も似ているしね」
「もしかしたら 私もDIDなのでしょうか?」
「そうかもしれないが、君は多分違うよ。何と言うか、今のところはただの勘だけど、君の場合は、あまり深刻さを感じないと言うか、どちらかというと、あまり物事を深く考えないキャラだと思うよ、良い意味でね」
その点については彼の分析は当たっているかもしれないと、ミクルは思った。
「ではその女性は、やはりDIDの可能性が強いのでしょうか?」
「今のところは何とも言えないが、君よりは可能性がありそうだと思っている。具体的な証拠はないのだが、彼女の表情に浮かぶ影のようなものが、心のどこかで自分の症状を話したりすることを押さえつけられている、症状を話すことを、誰かに監視されていて、抑制されている、そんな印象を受けるんだ。そして、その抑圧者というのは、彼女の内部にいるのかもしれない」
「それでは、DIDの疑いがあるということを、本人に告げたのですか?」
「いや、今のところは言っていない。それに彼女自身も 自分がDIDだという疑いは、全く持っていないようだしね。いずれにしても、診断をつけるには、実際に僕自身が別の人格を目撃する必要がある。とりあえず今の段階では精神安定剤を処方しているが、仮に診断がついたとしても、安定剤を使うなどの薬物療法くらいしか効果的な治療はないというのも、正直なところなんだよね」
そんな話をしているうちにデザートも食べ終わった。どうやや生麦はこの時を待っていたようだった。
「ところで何でDIDのことを聞いたんだい? 自分がそうかもしれないと疑ったから?」
「ええ、まあ…、ネットで調べたらそういうのが出てきたので…」
「ネットの情報は、あまり鵜呑みにしないほうが良いかもね。でも、とにかく、君とは気があうようだね。時間があっという間に過ぎてしまったよ。ところでこの後、上の階で部屋を取ってあるんだ。話の続きはそこですることにしようよ」
「すいませんが、今日はこれで帰ります。ごちそうさまでした」
「おいおい、ただ食いはいけないよ、君だって暗黙の了解くらい理解しているだろ、大人なんだから」
あまりにも分かりやすい本音に、ミクルは呆れ返った。なんとかその場は納得してもらったが、今後その女性の診察で何らかの進展があった場合は、また連絡するから、その時もう一度食事をしようと言われた。彼女としては杉田の情報を得るのが目的なので、生麦がそう言うのなら今後も会わざるを得ないが、それはかなり気が重い任務になりそうだった。とりあえず、その日の出来事をすぐに山手に電話連絡したが、生麦との会話を密かに録音した音声ファイルは、明日以降、直接データで渡すと告げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます