第23話 旦那様の帰宅

化粧を洗い流し、湯舟にそっと足を入れた。思った以上に深くて、「えっ?」と声が出た瞬間、体勢を崩して頭までドボンと浸かってしまった。慌てて蓮花さんが抱きかかえてくれて、ようやく湯舟の中に立つことができた。


「ここのは深いのよ」と蓮花さんに言われ、私は「あ、ありがとうございます」と答えるのが精一杯だった。

顔が真っ赤になるのを感じる。

二人して湯舟の中で立ち上がっているのよ。

しかも私は蓮花さんを見上げられる形で片手で抱きしめられている。

彼女の息が私の前髪を揺らせる。

それもそうなのだけど私の左手が彼女の乳房をめり込むように掴んでいるのよ。

わざとじゃないのよ。それでも感触を味わうように指を動かしてしまった。

(柔らかい)

また、蓮花さんの息が顔にかかって、私は全身から力が抜けそうになるのを感じた。


「百合は他所でやっておくれよ」

風呂場の入り口から、呆れたような声が聞こえた。

私は慌てて蓮花さんから身を離し、そちらを向いた。そこには三人の女性が立っていた。

「旦那様がお戻りになるのよ、とっとと上がりなさい!」

三人は皆、一切も隠す素振りもなく堂々と、誇らしげにこちらへ近づいてくる。

化粧はしていないはずなのに、とてつもない艶っぽさに目を奪われた。


「はいはい、分かりましたよ」

蓮花さんは何も逆らわず、素直に湯舟を出た。

私も慌てて彼女の後を追って出たところで、そのうちの一人に手を掴まれた。

「えっ」

「見覚えのない娘だねぇ」

私の顔を覗き込むと、残りの二人も首を傾げて私を見つめた。

「その娘、若旦那様の客人だから」

蓮花さんがタオルで身体を拭きながら口を開いた。

「客人!」「若旦那様の!」「さっきの馬車の娘か!」

その言葉に、それぞれが驚きの声を上げた。

「そうだとして、あんたが可愛がるのは別じゃないか?」

「ちょっとからかっただけさ」

やっぱりそうかと納得した時、誰かの視線を感じた。

「ああっ!」

私は風呂場の窓の隙間を指差した。誰かが覗いているのが見えたのだ。

そんな私を馬鹿にするように、一人が言った。

「うちら、魅せるのが商売なのよ、分かる?」

たしかに、覗きたいのは、私じゃないだろうと思う。

「……」

「旦那様がお戻りになるんだろ、行くよ」

蓮花さんは何もなかったかのように私の手を取り、風呂場を出た。

着替えながら蓮花さんが彼女らが家妓だと教えてくれた。

妓という言葉で、何となく察しがついた。

この館の旦那様が、彼女たちを身請けしたのだろう。

私を馬車で送ってくれたあのおじさんも、さっき妓楼から妓女を一人身請けしていたのを思い出していた。


それより、ある事にハタと気が付いて、私の着替えの手が止まった。

三人全員が、旦那様が身請けしたとは限らないことに。

これは要確認だわ。だいたいモテる男は遊んじゃうのよ。

しかも貴族様だもの。もちろん私の勝手な思い込み。

そして、私の目の前には、茶色がかった肩までの短い髪、狸のようで愛らしい目つきで、ふっくらした唇の女性が立っている。

少し褐色がかった肌で、しかも私がそうね、三年後にそうありたいと思うような体型の蓮花さん、この女(ひと)だって、さっきまで若旦那を狙っていたらしいもの。

<何人が、若旦那を狙いがいるのだろう>

「何よ私を見て、惚れた?」

蓮花さんは、訝し気に私を見る。

「惚れてないから」

私は急いで服を着終える。

不意に、鉄の鐘の音が部屋の中に響いた。

私は驚いて蓮花さんを見たけど別に驚いた感じはない。

しかし風呂場から慌てて、家妓の三人が出てきて服を着始める。

「あんた達のせいで、旦那様が帰ってきちゃったじゃないの」

「知らないわ」

蓮花さんは素っ気なく言い返す。

突然、大きな門がゆっくりと開く音が響いた。きっと私が入ってきた正門だろう。「どうする?」

蓮花さんが私に尋ねてくる。

「どうするって?」

私の様子を見て、言葉を足した。

「手の空いている使用人は皆、ご主人の出迎えに出るのよ、行く?」

使用人の一人に混じって、顔だけでも知っておくのは悪くないと思った。

いずれはご挨拶する機会もあるはず。私が「お出迎えに行きます」と言うと、蓮花さんは少し渋い顔をした。

「聞くんじゃなかったわ」

そう言いながら私を連れて正門の方へと向かう。廊下の突き当たりから、正門に面した広場に出た。なるほど、この広場が馬車の停車場だと初めて気が付いた。

私がこの館に来た時にはなかった馬車が一台、そこに停まっていた。そして、馬車の後ろの正門がゆっくりと閉じ始めていた。

ぼうっとそれを見ていた私を、蓮花さんが手を引っぱる。

そして玄関に着くと使用人たちが並んでいる横に並ぶ。

ざっと見て使用人は20人、半分以上は女だ。

その前を三人の着飾った、あ、さっきの家妓達がより前に並んだ。

御者が馬車の客室の扉を開けた。まだ沈みきっていない夕陽のせいで、こちらからはよく見えない。それでも、客室から出てくる人の姿ははっきりと分かった。

その瞬間、周りの使用人たちが一斉に息を吸い込み、吐き出すように大きな声を出した。

「お帰りなさいませ、旦那様!」

私も慌てて、皆に合わせて頭を下げた。

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