不動産女子 田島美咲〜恋愛編〜

仮称CML不動産

第1話 二人だけの空間、距離の読み方

第1話 二人だけの空間、距離の読み方


土曜の午後、青山の閑静な住宅地にある一棟マンション前。その前に立つ美咲は、少しだけ緊張していた。


「遅れてすみません、田島さん!」


柴田優人が現れる。


今日はカジュアルなブルーのシャツに、ベージュのパンツ。前回とは違い、“完全な私服”だった。


「今日は、オフィスじゃない物件ですね?」


「はい、自宅候補です。でも……見てほしかったのは、部屋じゃなくて……自分の“これから”なんです。」


彼はふっと笑って、エントランスの鍵を開けた。



室内は、シンプルな1LDK。壁の一面がガラス張りで、午後の光がゆっくりと差し込んでいた。


「正直、この部屋……一人には広いんですよ。」


柴田はリビングの端に腰を下ろし、美咲を見る。


「でも、どうしても“誰かとシェアする未来”を想像できる場所にしたかった。まだ、何も決まってないけど。」


「……誰か、ですか?」


「ええ。たとえば、仕事以外の時間を一緒に過ごして、ただ“静かな安心感”をくれるような人と。」


美咲は言葉を失っていた。


空気がやわらかくなっていく。会話は少なくなっていくのに、沈黙が怖くなかった。



物件の近くにあるカフェで、2人は窓際の席に座っていた。


「……なんで私なんでしょう?」


勇気を出して、美咲が聞いた。


柴田は、少しだけ表情を変えて、穏やかに言った。


「僕が大事にしたいのって、正直さとか、無理をしない距離感なんです。田島さんとは、そういう空気が自然にできる。」


「私……最初は、ただの営業マンで。怖かったです、柴田さんに嫌われたらって。」


「嫌いになる理由なんて、一つもなかったですよ。むしろ……“期待しないで信じてくれる”って、すごく救われた。」


コーヒーの湯気が、ふたりの間で立ちのぼる。


言葉より、視線の方が多くを語っていた。



カフェを出た途端、秋雨がしっとりと降ってきた。


「……あっ、傘……」


美咲がかざした手に、ポンと傘が乗せられた。


「さっき、コンビニで買っといたんです。……田島さん、濡れそうだったから。」


「柴田さんは……?」


「僕は平気です。風邪ひいても、明日は休みですから。」


ほんの一瞬、心がきゅっとなった。でも、美咲は黙って傘を差し出したまま、こう言った。


「じゃあ、また“仕事の顔”で会っても……今日のことは、忘れませんから。」


柴田は小さくうなずいた。


「僕も。たぶん、忘れられないです。」



恋と呼ぶには早すぎて、友達というには少し近すぎる。


それでも確かに、あの夜から、美咲の中で何かが変わり始めていた。



― 第2話へ続く ―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る