6
廊下に出るとかなり冷え込んでいて、踊り場でのスケッチは手がかじかんで集中できないのではないかと心配になる。しかし、描き出すと先ほどまでのやりとりで体は十分に熱を帯びていたらしく、寒さはすぐに忘れた。
ある程度、鉛筆でアタリを取り終え彩色に取り掛かろうと絵の具に手を伸ばした時、今の時間では昨日の夕景の雰囲気はまだ掴めないことに気づく。校舎の無機質さをかき消すくらい外の空気が澄んでいることを表現したくて、あの時間帯の差し込む光の角度を思い出そうとするがこれがなかなか難しい。日没まではまだ少し時間がある。何となく手持ち無沙汰で、窓から下を覗いてみた。
昨日、告白を受けた中庭が見える。この場所は私の人生の大きな転換点になっているとふと思う。美咲ちゃんと私、幸人くんと私を繋げてくれた場所。
去年は昼休みになるとよくここで昼食を取っていた。景観は良いが花壇やイチョウの木に虫や鳥が集まるので、あまり人が寄り付かない。だから、誰にも馴染めない自分に気づかれることがなくて教室よりよほど気楽な場所だった。気にしていないつもりでも、学校という集団生活では自分の社会的立ち位置を意識せざるを得ない。孤独を強制されているのではなく、選択しているんだと自分に言い聞かせたくてここに通っていた。
今は、この校舎の中で中庭を眺めていられる。窓枠の中の景色は一年前の自分を閉じ込めた箱庭のように今でも孤独を抱えていて、それがなぜかとても嬉しかった。
やがて、空が赤くなり始めたので慌てて絵の具を溶く。夕焼けは一瞬なので、全体の雰囲気をとりあえず掴んで色を乗せることに集中した。描き込みや調整は、それからでも大丈夫。昨日の記憶が遠のく前に、あの時の輪郭を掴んでキャンバスに放つように筆を進めた。
いつの間にか、辺りは暗くなり始めたことに気づき部室に戻る。片付けが終わると、部長の終礼の挨拶とともに各々が帰宅の準備をし始める。美咲ちゃんがいつの間にか隣にいた。
帰宅を惜しむ部員たちはいつまでもダラダラとおしゃべりを続けている。喧騒から逃れるように部屋を抜けるまで無言な私たちの距離感は傍から見ればかなり遠くに感じる。ただ、確かにここを出る時はいつも一緒だった。
「先輩は一年前、どんな気持ちであの風景を描いたんですか?」
あの踊り場で、美咲ちゃんがそう問いかけたのはきっと偶然じゃない。彼女が指す先はすっかり日が落ちて、ますます孤独を抱えているようだ。
「私もさっきまで考えていた。あの時、自分には絵を描くことしかないと思っていたから肩身の狭いこの校舎で唯一くつろげるこの場所を自分だけのものにしたかったんだと思う。」
「ああ、その感覚わかります。描いたら自分の物になる感じ。」
ここではないどこか遠くを見つめる彼女の輪郭は、蛍光灯に照らされ白く浮かび上がっている。 その曲線を目で追う時、まるでキャンバスをなぞるような錯覚がした。
「私、人物画とか苦手なんですよね。自分の手でその人を画面に閉じ込めてしまうみたいな身勝手さがある気がして。本当に誰か描きたくなった時、それは……」
そう言ってこちらを見つめてきた。私も美咲ちゃんも人物画は課題でもない限り一切描かない。何度も入選経験のある彼女の作品は幾つも知っているが、全て風景や動植物をモチーフにしている。
「きっと私が人物画を描くことなんてないでしょうね。でも先輩はどうでしょう、今のななさんならきっとその人の魅力を最大限に引き出す絵が描けそうじゃないですか。」
「何それ、そんなわけないよ」
そう笑いながらも、少しだけ動揺した。今日のスケッチ、踊り場の窓に私自身の影を描いたのだから。
昨日のことまで全て見透かされてるんじゃないか。彼女の目に私がどう写っているのか、少しだけ分からなくなった。
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