第16話:封じられし神名、その胎動
静寂が、祠を満たしていた。
封印扉の奥から聞こえた微かな鼓動――それは、ただの幻聴ではない。九重紗雪の手の中で、三鈷杵が脈動していた。熱を帯びた金属の感触が、確かな“存在”の証となっていた。
「……来るのね」
震える声に、しかし迷いはなかった。
真観が歩み寄る。衣の裾を揺らしながら、彼は掌を合わせて封印扉の前に立った。
「名を喰い、名を詐り、そして……名を滅する。“名無し”の本体は、この奥に封じられています」
「それは……縷々の“信仰”によって、形を得たってこと?」
「正確には、“信仰と否定”が混じり合った存在です」
真観の声が低くなる。
「彼女が“神だ”と名づけたことで生まれ、“でもそんなはずない”と否定したことで、形を喪った。“名を滅するもの”は、名を得ることも名を与えることも拒む……“空白”そのものです」
「……そんなものが、本当に神なら」紗雪は苦く呟いた。
「わたしたちの“信”は、どこへ向ければいいの?」
真観は微笑を湛えたまま答える。
「だからこそ、問うのです。“あなたが信じるものは何か”を」
その言葉と共に、封印扉が微かに震えた。鈍い音と共に、表面にひび割れが広がっていく。中から漏れ出すのは、闇でも光でもない、“存在しないもの”の気配。
「……!」
紗雪は三鈷杵を構える。視界がゆらめき、空間そのものが異界に侵食されていく。
「ここから先は、御仏の加護も完全ではありません」
真観が言った。「それでも進む覚悟があるなら、貴女の“三鈷”を、その扉に――」
頷く紗雪。
「……ええ、行くわ」
彼女は三鈷杵を、扉の中心――曼荼羅の核を象った印に、そっとかざす。
その瞬間、空気が砕けた。
轟音と共に、封印扉が崩れ落ちる。奥から吹き出したのは、深淵そのもの。重力も、時間も、意味すらも歪むような、圧倒的な“無”の圧力。
「――ようこそ、“名の墓”へ」
どこからか、声が響いた。
それは縷々にも、紗雪にも似た声。だが、そのどちらでもない。
「誰……?」
声を震わせながら、紗雪は歩を進める。真観は一歩後ろに控え、五鈷杵を構えたまま呟いた。
「“無名の神”……我らが最も恐れた存在の一端です」
闇の底に、何かが“浮かんでいた”。
それは人の形を模した“空洞”。衣服のような外皮だけをまとい、中身は何もない。そこには、かつて縷々が描いた“AGNI”の片鱗が、どろりと染みついていた。
「縷々の……絵が、まだ……!」
「名を奪われ、記憶と感情が抜け落ちた状態でも、“象”は残るのです。だからこそ――」
真観は、胸元から一枚の札を取り出した。それは護摩の灰と、縷々の髪を編み込んだ“記名封札”。
「これは、縷々という“名”を呼び戻すための鍵。だが、それを使えば……」
「……“名無し”が完全に目覚めてしまう、ってこと?」
「そう。選択は、貴女に委ねられます」
紗雪は静かに札を受け取った。その紙切れは、ただの符ではない。縷々と過ごした記憶、笑顔、言葉――すべての“つながり”が込められていた。
(私は、彼女を助けたい。だけど――)
ふと、心の奥底に囁きが差し込んだ。
『あなたが本当に欲しいのは、“名前”じゃないでしょう?』
誰かがそう告げた気がした。
(……私が、本当に欲しいもの)
そのとき、地面が崩れた。
足元から“無”が吹き上がり、空間を引き裂いていく。真観が印を結び、結界を張るが、その侵食は止まらない。
「紗雪嬢、いまです! “縷々の名”を呼ぶのです!」
三鈷杵が再び輝きを放ち、札から淡い光が立ち上る。
紗雪は、その光を掲げ、強く叫んだ。
「天神縷々――あなたの名は、ここにある! 忘れてなんかいない!」
光が爆ぜた。
空洞の中に、“記憶”が流れ込んでいく。
笑う縷々、泣く縷々、怒る縷々、迷う縷々――
“彼女”という一人の少女の“存在”が、空白に塗りこまれていく。
だが――その最中、“何か”が動いた。
虚無の中心から、影が蠢いた。
それは“無名”を体現する神性。輪郭を持たぬ巨大な影――“名を滅するもの”が、完全な覚醒を果たしつつあった。
「来ます――!」
真観の叫びと同時に、空間が崩壊を始める。
「名が、意味を持たない空間……ここはもう“言葉の及ばぬ場所”です」
紗雪の耳元で、またあの声が囁いた。
『貴女の“名前”も、すぐに……』
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