五章
五章
冷たく、張り詰めた空気の中で、イアンは黒い皮の手帳とペンを手に、静寂を守るようにそっと部屋を出て、レオンの姉マティルダの部屋へと向かった。扉に耳を当て、聞き慣れた倦怠感のある低い声と女性たちの会話に傾聴した。
「旦那さま、エリスさんのご容態はいかがですか?」と、平静なアンが、椅子に腰掛け、憂色に包まれながら眉をぎゅっと顰めたレオンに尋ねた。
「昏蒙状態であまり良い状態ではない。肝心の毒物だが、発熱、口渇、痙攣、散瞳などの症状から着目し、尿を採取し分析をしたところ、彼女はルネサンス期の貴婦人たちが瞳孔を大きく見せるために使用された植物ベラドンナの実を口にしたと思われる」
「熟したベラドンナの実はブルーベリーによく似ておりますし、ふたつとも秋に実りますからね。ですが、ブルーベリーを含めて果物は高価なもので裕福でない限り、入手しにくいものではないでしょうか?」
「ベティ、その通りだ。余談だが、ベラドンナは風通しと陽当たりの良い場所で育つブルーベリーとは対照的に山間の日陰で育つ植物だ。貴族たちのように優れた庭師を雇い、立派な植物園を持つ者でなければロンドンでの栽培は不可能だ。一体どこで……」
「あの……旦那さま、エリスさんを治す方法はあるのでしょうか?」と、コニーは眼には活気はなく、悲痛の色をありありと泛べながら、弱々しい声で訊く。
「体内に入れて間もなければ、胃洗浄で毒を排出できるが、毒が回ってしまった患者はどうすることも出来ない」
「ただ死を待つしかないのですか?」涙をきらめかせ、不安な表情にさっと覆われたメイドに対し、レオンは眉毛を下げ、沈黙した。
消えゆく灯に涙が眼に溢れ、コニーは脣を顫わせた。アンは彼女を優しい声音で宥める。「コニー、落ち着いて。旦那さまは『助からない』とは言っておりません。それに、出来る限りのことはしました。きっと、大丈夫です」
ベティは深刻そうな表情で再び尋ねる。「旦那さま、他に方法はないのですか?」深い哀感のこもった声でかれは言った。「治療とは呼べないが、強めに揺さぶったり、名前を呼んであげてくれないだろうか? 往診や来客対応がない限り、俺が見守るようにするが、留守にしている間に少しでも変化があったら報告して欲しい。ベラドンナの症状で最も厄介なのは幻覚だ――覚醒した時に、幻覚を見ているような仕草を見せた上で暴れるなら拘束するようにしてくれ――勿論、容赦無くだ」
困惑の色がメイドたちの顔を霞め、ぎこちない沈黙が生まれる。しばらくすると、しんとした部屋に扉がノックされる音が鳴り響き、イアンが入ってくる。
「どうした?」少年の元へ歩み寄り、腰を落とす。イアンは手帳をかれに見せた。『下の階から篭った感じのノックが聞こえるよ』
「診察室からか?」レオンは立ち上がって、眠っている少女をほんの僅かに見つめ「すまないが、イアンとエリス・グレイのことを頼む」とメイドに言い、マティルダの部屋を出た。足早に階段を降りると、階段脇の刺激臭が漂う部屋へ入る。再びノックされ、慌てて扉を開けると、そこには濃い緑かかった灰色の背広と外套で身に包み、短く緩やかに波打つ燻んだ山吹茶色の髪と榛色の瞳を持つ細身の男が帽子を持ちながら、両手を組んで立っていた。
男は顔を上げ、重々しげな口調でかれに尋ねた。「突然押しかけてしまい、申し訳ございません。私はアーネスト・オールドカッスルと申します。昨日、喪服の少女を連れた奇抜な男が訪ねてきませんでしたか?」
「ええ、シルクハットを被った全身黒尽くめな男が現れ、『私には手が負えない』と言い、喪服の少女をまるで投げ捨てるかのように渡しに来ました。あまりに突然でしたので、私は状況を飲み込めず、彼に一体何があったのかを伺おうとした時には既に姿を消していたのです。昨日、この眼で見た彼の姿は幽霊あるいは幻だったのか? と、考えてしまいましたが、あなたのおかげで彼が実在する者だと知り、とても安心しました」
無礼千万な友に失望の念を抱くアーネストは、肩をすくめて、深い溜め息を洩らした。酷く落胆した様子で言う。「友人のヘンリーがご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ございませんでした! 無礼を承知の上でお尋ねしますが、喪服の少女はどちらに? 彼女は無事なのでしょうか?」
レオンはにこりと微笑み、眼には憤怒の色を泛かべながら、「あの少女はとても元気にしていると、お伝え下さい。遥々ロンドンから足を運んで下さり、大変申し訳ないのですが、今は立て込んでおりますのでまたの機会にお話しましょう――では」と言って、扉を閉めようとした。すると、アーネスト・オールドカッスルは扉を片手で軽く抑え、すっと足で挟んだ。
微動だにしない扉に驚き、乱暴に閉めようとするかれに対し、男は静かに呟いた。「レオンハルト・ハワード。数年前、あなたはG管区署で監察医、パラゴンでは医者をしていたそうですね。両親を事故で亡くし、家業を継ぐ為、故郷カンタベリーに戻っただとか……」
見ず知らずの男に名前を呼ばれ、暴かれる素性に恐怖を覚えたレオンはドアノブを握る手がわなわなと顫え始める。そしてかれは自分の顔がみるみると蒼ざめていくのを感じた。まるで人が変わったかのように、男の眼は虚ろで冷たく、表情はすっかりと残酷さを帯びていたからだ。レオンは焦燥感に駆られながら、考え始める――たしかに俺は数年前、ロンドンに住み、無駄な時間を過ごした。が、痕跡は消して去ったはずだ! この男は、一体どうやって情報を収集し、どこまで俺のことを把握していると言うのだろうか? ぞっとするような悪寒が全身を襲い、額には小さな玉の汗がしっとりと滲み出る。得体の知れぬ恐怖感に、言葉が咽喉にひっかかり声を出せずにいると、男は不敵な笑みを泛べて、じっとかれの眼を見つめながら、自然なドイツ語でこう言った。
「おや、もしや私の言葉が通じないのでしょうか? あなたは英国人でもあり、ドイツ人でもあることをすっかり忘れておりました。エリス・グレイを含め、幾つかお伺いしたいことがございます。どうかお時間を頂けないでしょうか?」
「良いだろう! そんなに望むのなら話を聞いてやろう――さっさと中に入りたまえ!」
恐怖は瞬く間に憤怒へ変わり、レオンは扉を開けて、アーネストを睨みながら、中に入れた。男は満足げな微笑を泛べて、ケースを取り出して言った。
「ありがとうございます。早速で申し訳ないですが、巻煙草を吸ってもよろしいですか?」
「ああ、好きにしてくれ――あの画家から聞いたのだが、君は元警官だったそうだな」
カッスルは差し出された灰皿を受け取り、巻煙草に火を点けて、毒を満たすと、穿鑿の眼を向けながら、溜め息混じりに言った。
「やれやれ、ヘンリーはお喋りな方で大変困ったものです――彼がどこまで話したか存じませんが、かつて、私はG管区署で警部補として務めておりました。今はロンドンで探偵をやっております。それと、私のことはカッスルとでもお呼び下さい」
「何故、警官をやめてまで探偵になったのだ?」
「警部補と称する
レオンは眉を顰め、探偵に物言いたげな眼差しを向けた。巻煙草を吸いながら、探偵はかれにじっと眼を注ぎ、淡々と喋り続ける。「家族が亡くなった際、生者は死の時間に家の全ての時計を止めるドイツに端を発する伝統に加え、鏡を布で覆わなければ家族皆に不幸が訪れると信じられてます。ですが、一部の鏡は埃を被るまで布で覆われ、立派な振り子時計が止まったままなのは、尊敬に値するご両親を事故で亡くし、その姿はあなたにとって深い精神的心外となるほど衝撃的だったことを伺えます。一八六一年から現在でも喪服を纏うヴィクトリア女王のように癒えず、今でも苦しんでいるのですね」
かれの顔に影が宿り、碧い瞳には悲しみをたたえた。やがて暗澹とした表情に覆われ、俯き、しばらく沈黙した。
「全てを受容れた方は、歩みを止め、後ろを振り向くことはしません。善良な死者が残された者に望むことは、過去ではなく、未来に向けて生きることです。今のままが続くようであれば、かつての女王のように『いつになったら喪は開けるのだろうか』と非難されるだけです――この先も、これから先もずっと……」
「すまないが、その話はしたくない。それに、君には関係のないことだ。過度な詮索はよしてくれ」
「それは出来ませんね。私の仕事の一部ですから」
その瞬間、レオンの悲しみをたたえた眼には、再び憤怒の色が滲み出る。と同時に、アーネスト・オールドカッスルに対する抑え難い憎悪に襲われた。これほどまでに厭らしい男と出会ったことはない! 貴族と同等、あるいはそれ以上に不快極まりなく、今すぐにでも理性を捨て、この男に肉体的、そして精神的な苦痛を与えてしまいたいほどだ! そんな激情の衝動に駆られ、鮮血に渇望した獣のように全身をわなわなと顫わせているかれは、咄嗟に巻煙草を取り出して、火を点けると、甘美な毒が齎す快楽を味わい、激情を委ねて理性を保った。しんとした重苦しい空気の中、二人は沈黙を制し、快楽にうつつを抜かす。
やがて、異様な静寂に終息を告げるかのように、扉をノックして、ある人物が部屋に入って来た。
「イアン? どうかしたのか?」レオンは、急いで巻煙草の火を消して捨てると、少年の元へ歩み寄り、腰を落とした。
『眠っているお姉ちゃんのことがどうしても気になったから聞きたくて来たの』
「すまないが、あの子のことについてはあとにしてくれないか?」
イアンはむすっとした顔で、勢いよく文字を綴り、それをかれに見せた。『今がいい! 僕にだけ話してくれないだなんて酷いよ!』
幼い子供のように駄々を捏ねる少年に、レオンは額に手を当て、苦渋に満ちた表情を泛かべて溜め息を洩らした。そんなかれに対して、カッスルは助け船を出すかのように微笑を泛べながら言った。
「ハワード、私のことは構いませんよ。丁度、喪服の少女についてお伺いしたいところでもありましたし、小さいながらも彼だって立派な大人です。是非、共有してあげてください」
眉を顰め、顔を厳粛に曇らせるイアンを見て、かれはしばらく躊躇ったが「あの子は、恐らく、ベラドンナの毒に侵されているに違いない。覚醒した際、幻覚で苦しまなければ良いのだが……」と告げた。
『どうやってベラドンナの毒ってわかったの?』
カッスルが口をはさむ。「アルカロイドを検出するドラーゲンドルフ試薬と呼ばれる薬品があるのですよ。専門的な話になりますので簡易的に説明いたしますと、水と一定量の薬品を四つ加えることによって調製出来るものです――ハワード、アルカロイドは多種多様な毒ですが、何を持ってベラドンナだと判断したのですか?」
「かつて貴婦人たちが瞳孔を大きく見せるためにベラドンナの実に含まれるアルカロイドの一種であるアトロピンを薬として使われていたのだよ。美と引き換えに命を落とした者も多々いたそうだ」
「副交感神経抑制作用のあるアトロピンとは非常に猛毒なのですね。さすが『
『どうして『魔女の実』って呼ばれているの?』
「魔女が栽培し、人を殺める毒や飛行するための秘薬などに用いられたという伝承が由来でしょうね。その故、ベラドンナには『汝を呪う』『男への死の贈り物』『人を騙す者の魅力』などの不吉な花言葉を持っております」
『お姉ちゃんは魔女の呪いで死んでしまうの?』
「魔女の呪いですか。随分と可愛らしいことを言うのですね――そんな馬鹿げたものは存在しませんよ。ハワードも医者として為すべきことをやったと思いますし、あとは少女の生きる意志を信じてあげましょう」
少年は、眼に不安の色を泛べて、安堵の言葉を求めるようにじっとレオンを見つめた。かれは、滲み泛ぶ苦しげな表情を抑えて、どこか弱々しく微笑み、「意識がある以上、助かる見込みはある。きっと、大丈夫だ」と宥めた――「しかし、カッスルは随分と毒に詳しいようだな」
「監察医をされていたあなたならよく存じ上げていると思いますが、警部補にはある程度の薬物と医学の知識、幅広い分野の雑学が求められるのですよ。とは言え、身分が低いのを理由に上流の者たちから侮蔑をたたえた眼差しを向けられないためでもあります。それより、筆談とは大変興味深いですね――何か深い事情でも?」
『喋りたくても喋れないんだ。けど、皆の会話に少し
「違和感ですか」燻る巻煙草の火を消すと、探偵は顎先を触りながらレオンに訊く。「ハワード、質問があります。この子とはどこで知り合い、どんな衣服を身につけていましたか? また、当時の血色も教えて頂ければ助かります」
「ロンドン橋で出会い、衣服は色褪せ、草臥れていたが高価なものだ。血色は今と同じように非常に良かったのは今でもよく覚えている――これが役に立つのか?」
「ええ、十分です。彼と会話してもよろしいですか?」
レオンは、眉を顰め、怪訝そうに絶対的確信を抱き、自信満々たる微笑を洩すカッスルに眼を注ぎながら頷く。探偵は、落ち着いた声ではっきりとした口調で喋り始めた。「こんにちは。申し遅れましたが、私はアーネスト・オールドカッスルと申します。親しみをこめてカッスルとお呼びください」
一瞬驚きの眼差しをカッスルに向けると、少年は、脣に悦びを洩らし、無邪気な言葉を発した。
「イアン・グレイだよ。僕のお父さんと同じ喋り方をしてるね」
「それは大変光栄ですね。
「うん! ねえ、どうしてレオンやアンたちは喋り方が違うの?」
「それは、とても簡単です。生まれた場所、身分が異なるからです」
「じゃあ、カッスルは高貴な身分な人なの?」
カッスルは声を立てて笑った。「まさか! 私は元警官の探偵であり、
穢れを知らない青く澄んだ瞳をきらめかせてイアンは大きく頷いた。
レオンは、酷く戸惑った様子で少年に声を掛けた。「君が喋れなかったのは訛りが原因だったのか?」
「そうだよ。レオンやアンたちの言葉は理解出来ても、お父さんと話し方や言い回しが全く違うから、僕の言葉は通じないのかと怖くなって話せなかったんだ」
「そうだったのか。今まで気づいてやれなくてすまなかった」
イアンは微笑むと、礼を言いながら、使い古した手帳とペンを渡す。かれは愛おしそうに、そして物寂しげな様子で受け取った。
「グレイ、あなたとお会いして間もないですが、幾つか質問をしてよろしいでしょうか?」
「うん! いいよ!」
「では、あなたのお父様とここに来る前はどこにいたのか教えていただけませんか?」
「ここに来る前は、子どもたちが暮らしている大きな屋敷にいたよ! お父さんの名前はラファエル・グレイでお姉ちゃんのように髪が白いの」
「ありがとうございます。子どもたちが暮らしている大きな屋敷ですが、世話人や教師はいらっしゃいますか? また、お父様は、色のない髪とのことですが、それは昔からでしょうか?」
「ユダヤ人のネリー・トゥホルスキーが僕たちの世話をしていて、僕と同じ喋り方をしている英国人教師ヘンリエッタ・クラークソンがいるよ。あと、お父さんは僕が物心ついた時から白い髪だったから生まれつきだと思う。けど、あまり好きではないと言ってた」
「自身の髪が好きではないとは、大変興味深いですね――お父様についてよくわかりました。ヘンリエッタ嬢について、何かわかりませんか?」
「ヘンリエッタについて、お父さんから聞いた話だけど、元々は渡米する予定だったみたい。けど、英国に残り、十分な教育を得られず、字の読み方が出来ない子どもたちが将来的に困らないように勉強を教えることにしたんだって」
「大変ご立派な女性ですね。ちなみに、グレイは、そこでどのようにお勉強をされたのでしょう?」
「僕だけヘンリエッタと二人きりで勉強を教わってる時もあれば、お父さんと二人きりの時もあるよ。本当はみんなと一緒に勉強したいけど、文字の読み書きできない子に合わせて授業を進めているから僕だけ個別で教えているって言ってた」
「そうでしたか――沢山教えて下さり、ありがとうござました。いつかあなたのお父様と言葉を交わしてみたいみたいものです」
「うん! お父さんはとても物知りだからきっと楽しい会話ができると思う。話せる日が来ると良いね――レオン、お姉ちゃんのことだけど心配だから見守ってもいい? 何かあったらレオンのところに必ず駆けつけると約束する!」
レオンは眉を下げ、肩をすくめると、溜息混じりに言った。「君は、俺が駄目だと言っても聞かないだろう? だから、好きにしてくれ。ただし、少しでもあの子の容態に変化があったらすぐ報告するようにしてくれ」
「分かった! お姉ちゃんのところに行ってくるね!」
くるりとかれに背を向け、慌ただしげに扉を開けて、少年は部屋を出た。階段を登る音が響き、屋敷全体が騒々しさに覆われると、レオンの脳裡に亡き弟リアム・ハワードが刻んだ朗らかな記憶が過り、追憶に耽る。かれの哀愁を帯びた顔に気付き、カッスルはわざとらしく名前を呼び、眼を注いだ。すぐに冷ややかな眼差しに気づいたレオンは、冷淡な顔で探偵を見た。
「カッスル、イアンの言っている教師クラークソンのことだが……」
「妻として愛を授かることなく、捨てられたのでしょう。上流階級の世界では、知性ある女より、己の肉欲を存分に満たす見目麗しい娼婦を
「隠し子の可能性もあるのか?」
「断言することはできませんが、可能性として一理あります。少々、グレイの秘密を知るにはラファエル・グレイを見つけ出す必要があります」
「カッスル、君が良ければだが、エリス・グレイとイアンの身元について調査してくれないだろうか? 金ならいくらでも出そう」
「『金ならいくらでも出そう』ですか」嘲笑を含んだ声でカッスルは続けて言った――「貴族たちが中流階級者に軽蔑の眼差しを向ける対象は、あなたのような人間を指すのですね」
レオンは鼻を鳴らし、眉をぎゅっと顰めて不機嫌そうに言った。「あのような虚飾的な人間たちにどう思われようが俺には関係のないことだ! そんなことより、俺の質問にきちんと答えてくれ」
再びケースを取り出し、巻煙草に火を付けてから探偵は言った。「もちろん引き受けましょう。私も、二人が同じグレイであることも大変気になっておりましたし、あなたが満足するまで調査すると約束致しましょう」
「ああ。よろしく頼む」
「調査報告につきましては、新たに情報収集を兼ねて定期的にお伺いして報告をするように致します。状況に応じて、書面になる場合もありますのでどうかご了承下さい」
「分かった。最後に質問だが、どうやって俺を見つけたのだ?」
「それは秘密です。ですが、一つだけ教えましょう――人々の記憶は街の記憶でもあり、その中にあなたが生きている以上、痕跡は消すことも出来ません。街が滅びぬ限り、永遠に残り続けるのですよ」
「君は、人々の記憶を頼り、犬の如く執拗に嗅ぎ回っていたのか。元警官とは言えど、いずれ同胞から疎まれるぞ」
「構いませんよ。彼らは駒にすらなりません。さて、正式に依頼を引き受けたことですし、調査に専念する為にも、私はお暇させていただくと致します」
「君は釣れないことを言うのだな。せっかく来たのだから、紅茶でも一杯どうだ?」レオンは、残念そうに微笑みながら、
「おや、お心遣い感謝致します。せっかくなので、頂きたいところですが、生憎予定が立て込んでいるのですよ。次回お伺いした際に、ありがたく頂戴いたします」
「そうか。実に残念だよ」
カッスルは鼻で笑い、巻煙草の火を消し、捨てる。その途端、ノックの音が響き、二人は眉を顰め、レオンは扉に向かい開けると、そこには両手に茶器を持ったアンが立っていた。
メイドは不機嫌そうに呟く。「旦那さま! お客様がいらっしゃると会話ができるようになったイアンさんから伺いました。何故、お知らせしなかったのですか?」
かれは、両眼を覆うかのように額に手を当て、大きな溜息を洩らした。酷く苦しげな表情を泛べて低く囁く。「アン。すまない、これには深い事情があるのだよ。後にしてくれないだろうか?」
不満げに口を尖らせるアンに懇願するも、メイドは主人の言葉に耳を傾けることを拒む。客人をもてなし、務めを果たそうと部屋に立ち入ろうと試みる。が、主人であるレオンは道を阻むかのように、渋い顔で首を横に振った。二人が繰り広げる極めて異端的で奇妙な光景は、探偵としての知的好奇心を刺激させた。囁きながら口論する光景を横目に見て、再び巻煙草を取り出し、吸い終えるまで眺め、吸殻を捨てるとゆったりとした足取りで二人に歩み寄り、紳士として穏やか微笑を浮かべて、アンに声を掛けた。
「せっかくご用意して下さったのに大変申し訳ございません。私はお暇致しますので、お紅茶は結構ですよ。あなたのお気遣いに感謝致します――しかし、主人とメイドが対等な関係とは大変珍しいですね。他の家庭では当然のように会話どころか目を合わせることすらも禁じられているので、とても新鮮であると同時に不思議な光景でもあります。とは言え、ハワード家に仕えるメイドたちは幸運にもとても良い主人に恵まれたのですね」
アンは、深々と頭を下げる。「いえ、どうか御無礼をお許し下さい!」
「どうかお気になさらないで下さい。私は、友人に代わってお詫びにお伺いしただけです。改めまして、友人ヘンリーが皆様方にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした――手短に自己紹介致しますが、私はロンドンで探偵をやっているアーネスト・オールドカッスルと申します。早速、ハワードから二人のグレイについて調査して欲しいと依頼を承りましたので、これからロンドンに戻るところでした。不定期でございますが、調査報告を兼ねて新たな情報を収集しに、お伺いする予定です。またお会いすると思いますので、その時はよろしくお願い致します」探偵は、メイドに恭しくお辞儀をした。すぐに、レオンの方に変わって言った。「では、ハワード――またお会いしましょう」
かれは、低く気怠げな声で返事をし、屋敷から出るまで睨み続けた。忌々しい探偵が去り、重苦しい空気から解放されたレオンは、神経を限界まで張られた絹の糸の如く強張った躰を解すように、深く息を吸った。口は中は渇き、煙草が齎す快楽と毒を欲している。かれは、欲望を抑え、アンに温くなった紅茶をすぐに淹れるように言うと、メイドは小さく溜息を洩らしながら、ティーカップに紅茶を注いで渡した。それを受け取り、一気に飲み干し、喉を潤すと、血走った眼で口を切った。
「アン、先程はすまなかった。だが、これだけは言わせて欲しい! あの探偵には警戒しろ!」
「礼儀正しい方なのに、何故警戒する必要があるのですか?」
「自然なドイツ語と上流階級特有の訛りを操る者が労働階級出身だとは思えない。それに、具体的にうまく説明出来ないが、あの男の感情が一切読めないのだよ」
メイドは怪訝そうにかれを見つめて言った。「感情が読めないだなんて、そんな悪魔的な人はいるのでしょうか?」
「その質問に対して、『いない』と断言したいところだが、それは叶わないようだ。俺たちに見せた礼儀正しい紳士の顔は、恐らく、仮面の一部に過ぎない。ほんの僅かだが、奴と二人きりで会話した時、残酷な顔を見せた――それに、どこでどのように情報を収集したのか分からないが、俺が過去にG管区署で監察医として務めていたこと、カンタベリーに戻った理由、ドイツ語を操れることまでも知っていた。病的な執着心を持つ探偵として、仕事を依頼する分には素晴らしい適任者ではあるが、けして奴に心を許したり、隙を見せたりするな」
「分かりました……お伺いしたいことは沢山ありますが、イアンさんが会話できるようになったことを教えて頂けないでしょうか? ベティは混乱し、コニーはイアンさんの喋り方は『まるで上流の人みたい』だと、とても困惑しています」
「上流のようではなく、上流の人間なのだよ」
アンは驚きで眼が見張り、沈黙した。レオンは続けて喋り続ける。「君が驚くのも理解できる。俺も君と同じように驚き、認めたくないとも思っていた。だが、カッスルが上流特有の喋り方でイアンと会話を試みた途端、それは確信に変わった。あの子は、上流の子供で、俺たちと会話出来なかったのは、ほんの少しの言葉の壁だったのだよ――とは言え、上流の子供ではなく、今までもこれからもイアンとして接してやってくれないだろうか?」
「それについては、ご安心下さい。旦那さま、落ち着いた頃で構いませんので診察室で何があったのかを教えて下さいね?」
「ああ。分かっている」椅子に座り、ケースから巻煙草を取り、火を点ける。
「よろしくお願い致します。私は仕事に戻ります。それと、旦那さま。お煙草を吸いすぎないようにして下さいね」
かれは、二つ返事をし、呆れた表情を泛べるメイドが部屋から出るのを見届ける。巻煙草を吸いながら、止まった振り子時計に眼を注ぐ。燻る巻煙草の火を消し、引き出しからゼンマイの巻鍵と油を取り、時計に歩み寄って、再び時を動かそうとケースに手を伸ばす。だが、弱き心は、今もなお死を受容れられず、それを現すかのようにわなわなと手が顫えだす。
レオンは、涙で霞む熱い眼を擦り、嘆息を洩らし、手にした巻鍵と油をそっと引き出しに戻した。
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