四章
四章
汽車を降りて、ロンドンに到着した奇抜な画家ヘンリー・ニューカッスルは急ぎ足で売店に向かい新聞を購入して広場まで出ると、御者の元へ駆け寄りウォータールーのウィットルジー・ストリートまで行くように告げる。先ほど心ゆくまで堪能した広大な自然が広がるカンタベリーとは対照的に鈍色の空が広がり、どこか冷たく無機質なロンドンはヘンリーにとって、住み慣れた故郷であると共にあらゆる刺激が溢れる美しき都なのだ。
喜悦で心を満たしたヘンリーは、淑女たちの枷であるスカートの重みをものともせず、軽快に馬車へ乗り込み座席に腰を掛ける。馬車が動き出すと同時に、画家は鞄を開けて、一枚のカートリッジ紙を取り出す。そこにはある男の似顔絵が描かれており、太く濃い三日月型の眉、細く長い鼻、モナリザの悲喜な脣のように非対称な瞼、丸みのない長い顎、薄い脣をしている。カンタベリーで出会ったナサニエル・ライトだ。
ヘンリーはしばらくまじまじと眺めたあと、「ナサニエル・ライトね……」と呟いた。似顔絵が描かれた紙を丁寧に四つ折で畳み、外套のポケットに入れて、到着までに生ずる空白の時を埋めようと画家はすかさず新聞を広げる。さっそくと言わんばかりに切り裂き魔の記事が眼に入りヘンリーは倦厭した。事件発生当初、飾り気のなかった文体は時が経つにつれて仰々しく扇情的に変化し、英国だけには留まらず、世界中から脚光を浴びることを目的にホワイトチャペル殺人事件を大々的に報道される様は、まるで低俗極まりない大衆娯楽を眺めている気分になるからだ。三流記事を書き上げる新聞社に対し、不満で顔を曇らせながら大まかに眼を通すと、唯一興味が唆ったエリス・グレイの記事に着目した。
怖気づく人々の関心は切り裂き魔に向けられている中で、見世物小屋から逃げ出したと思われる白い髪に菫色の瞳を持つ珍しい風貌の若い男グレイを気にかける者は果たしているのだろうかと考えた。ヘンリーはふと、耳を澄ましながら辺りを見渡してみると、人々は鬱々たる表情を泛べ、切り裂き魔と木偶の棒な警察達に対する呪詛の言葉を洩らしていた。その光景を眺めている間に家路へ到着し、御者は疲労の声色で画家に呼び掛けた。
「おい、着いたぞ」
御者の方を振り返って感謝の言葉を述べると、スカートを持ち上げながら勢いよく馬車から飛び降り、ヘンリーは御者に朗らかな別れの言葉を告げて乗車賃とチップを渡した。地面を塗りたくるように散らばる泥と汚物を避けながらウィットルジー・ストリートの隅に見えるコッテージデライトと称する
主人が開店作業に没頭している間に酒場と同じ建物の真横にある暗く濃いチョコレート色のオーク材の扉を開け、靴に付着した汚れを綺麗に落としてから暗く細長い階段を昇る。途中、ヘンリーは木製で出来た質素な額縁で飾られている自画像の前で足を止めてそれを壁から外す。すると壁龕が現れ、そこには使い込まれた重厚な革張りの小物箱が隠されていた。箱を開けると鍵が入っており、それを取り出して自画像を元に飾り直す。再び階段を昇り、二階の部屋の前に着くと鍵を使って中へ入った。
部屋の中央には食卓である刺繍つきの真っ白なクロスが敷かれた大きな円テーブルと透かし彫りの背が印象的な四脚の椅子が置かれ、その下には格式高い藍色の上で躍動感を与える千花模様が広がった大きなペルシャ絨毯は床全体を覆うように敷いている。壁は葡萄酒のように深く紅い極めて装飾過多なアラベスク柄で彩り、あらゆる空間において親和性の高い寂寂たる静物画と威厳溢れる数名の人物写真を中心に飾っている。食卓の奥には、凛としたアカンサスのガーヴィングを施したウォールナット材の暖炉棚の上に眼を惹かせる調度品を最小限に並べ、寛ぎの間である暖炉前は小さな円テーブルと青林檎のように爽やかな色合いをした金華山織りのイタリア調な長椅子と二脚の肘掛椅子を置いて豪華に飾りたてていた。
ヘンリーはポケットから紙を取り出して、鞄を置く。帽子と外套を脱ぎ、ホールスタンドにさっと掛けて、部屋の入り口から右真っ直ぐ先にある暖炉脇の扉を開けて中へ入る。どこか圧迫感を与える大部屋とは異なり、飾り気のないベージュの空間にベット、壁面を豊かな色彩でステンドグラスのように彩った洗面台、箪笥が配置された狭い寝室だ。すぐに鍵と紙を鏡台に置き、洗面台へ向かい、華やかな波紋広がる薄紅色の大理石天板の上に置かれているボウルにジャグの水を注いで手を濯ぐ。タオルで水を拭い、鏡台の前に座って鏡に映る自身を見つめながら右手を頭頂部に置き、髪を掴んでゆっくりと後ろに引いた。すると、黒く重たげな髪の下には平たく潰れ、燻んだ山吹茶色の髪、頬は細くやや角張った輪郭に直線的でありながら丸みを帯びた鼻、長い睫毛で縁取られ、硝子玉のように妖しく光る虚げな榛色の瞳を持つ謎めいた男が現れたのだ。名前はアーネスト・オールドカッスル、奇抜な画家ヘンリー・ニューカッスルは偽りであり、これが本来の姿なのだ。
アーネストは鬘を整えて鏡台に置き、箪笥の戸棚を開け、衣紋掛けに掛けられた生地の厚い濃い緑かかった灰色の背広と同色の外套を取り出して着替える。予め鏡台に置いたマカサ油を手に取り乱れた髪を整え、引き出しから銀の質素なシガレットケースを取り出して、鍵に紙と合わせて外套のポケットに入れる。奇抜な画家ヘンリー・ニューカッスルとして身につけた重い衣服を畳み箪笥にしまった。
アーネストは、箪笥の角隅から見える不自然に掛けられた無地の白いカーテンを捲る。そこには、扉が隠されており、金の塗装が剥げて青く錆びたドアノブに手を伸ばして中へ踏み入れると、降り階段が現れる。壁に掛けられた黒い山高帽子を手に取り、窓一つない暗闇に包まれる中でゆっくりと階段を降って行くと、ランプの灯とカウンター越しに巻煙草を吸う見慣れた男の姿が見え、アーネストは親しげに声を掛けた。
「アーサートン、ただいま戻りました。私が留守にしていた間、何かありましたか?」
「カッスル! ちょうど良いところにきた! 数十分前、ホワイトチャペル自警団を名乗る男たちがお前を雇いたいと押しかけて来たぞ」
「ホワイトチャペル自警団? やれやれ、いくら私が探偵とは言えど元警官を雇いたいとは、彼らは素晴らしい感性の持ち主なのですね」
「わざわざホワイトチャペルからランベスにやって来るほどだ。それで引き受けるのか?」
「興味ありません。レザー・エプロンのことはフレデリック・アバーラインとホワイトチャペル自警団とやらに任せれば良いのです。それより、この男に見覚えはありませんか?」帽子をカウンターテーブルに置き、止まり木に腰を掛け、外套のポケットから丁寧に折り畳まれたカートリッジ紙を取り出して主人に見せた。
「なんだ? この陰気臭い男は?」
「おや、語彙が乏しいのですね。せめて影のある男だと言ってあげて下さい。
「残念だな、カッスル。俺はこの男を知らん」
「分かりました。ご協力ありがとうございます。ところで、世にも珍しい風貌のエリス・グレイが失踪したと新聞で読んだのですがレザー・エプロンほど注目されていないようですね」
「白髪で菫色の眼の若い男のことだろ? どうせ見世物小屋から逃げ出したに決まっている! 常に人がいなくなるロンドンで新聞や張り紙を使って呼びかけるのは勝手だが、有力情報を提供した者に対して報酬を与えたりでもしない限り、誰も興味を持たん!」
「薄情者ですね。ですが、その考え方は、嫌いではないですよ」
「お前も同意見か。大体、こんな状況で逃げ出すのが悪い! 皆自分のことで手一杯な上、ジャックに怯えながら
「そうなった場合、死体の奪い合いが始まりそうですね。きっと高値になりますよ」
「特に髪が高値で売れそうだな。そう言えば、カッスル知っているか? コヴェント・ガーデンの何処かで自分たちの白い髪をお貴族様たちに売っている若い兄妹がいるみたいだぞ」アーサートンは、グラスに注いだウィスキーとマッチ箱をカッスルに渡しながら言った。
「それは大変興味深いですね――詳しく教えて頂けませんか?」上機嫌なカッスルは煙草入れから阿片入りの重たい巻煙草を取り出し、マッチで火を点けて毒で肺を満たす。
「すまねえが、二人で仕立屋テューダー・リジーを営んでいることしか知らねえ!」
「そうですか。アーサートン、あなたは私が思っていたよりもとても想像力が豊かなのですね。実に感動的です」溜息混じりにカッスルは言う。
「そう捻くれるな。俺はこの眼で見たことはないが、ここに来る客の多くは目撃している――二人とも脊が高く、死人のように青白い肌と不気味な紅い眼が特徴だそうだ」
「見世物としてとても相応しい風貌であるにも関わらず、仕立屋を営んでいるとは何か深い事情がありそうですね――個人的に興味ありますので調べてみます」
「後日、詳しく聞かせてくれよ」
「もちろんです。あなたの作り話に付き合うのは今回限りですから期待して下さい。それと、私は少し散歩に出かけます。万一、自警団が来た際は『元警官の探偵はしばらくの間、留守にしている』とお伝えください」と言って巻煙草の火を消し、ウィスキーを飲み干すと、カッスルは帽子を被って酒場を出た。
いつにも増して、重く暗い空気が漂う中で汚い街路を歩く。しばらくして辻馬者の御者を呼び止め、フィンスベリーに所在する
探偵はどっかりと座り、外を眺めつつ、先刻の記憶を遡り、カンタベリーでひと時の言葉を交わした男について考える。ある特定の言葉で嫌悪感を示すかのようにむっと眉を顰め、名前を尋ねた時は、顔を背けて咳払いをしたのち、奇抜な画家ヘンリー・ニューカッスルに対する敵意を宿す眼差しを向けながらナサニエル・ライトと名乗るかれに興味を唆られたからだ。三年前にG管区署を去った元警官であるアーネストは、警官には五つの分類の人間がいることを熟知している。市民と秩序を守る者とその従順な部下、正義の仮面を被り欲と罪に溺れ堕ちた者、賄賂と称する餌に喰らいつく野良犬、そして、無能だ。それらは警視庁に属した者のみ知り得た情報の一部であり、何者かによって告発されぬ限り、外部に知れ渡ることはない。が、ナサニエル・ライトは無能な警察の扱い方をよく知ったような口ぶりだった。なによりも、カッスルにとって気がかりなのは、自ら医者であることを婉曲的に否定したことだ。
藪を除く医者には共通点があり、消毒液である石炭酸によって引き起こされる皮膚炎にとても悩まされている。かれは『偶然になったものである』と主張するが、毒性の強い薬品は身分問わず学を持たぬ者が安易に扱える代物ではない。むしろ、偶然や事故を装うことは、極めて不自然ではないだろうか?
いや違う、ナサニエル・ライトは愚かにも得体の知れぬ男ヘンリー・ニューカッスルに対し、素性を明かす必要性はなく、ロンドンとカンタベリーは約五十四マイルと離れ再会の可能性は皆無に等しいと判断し、その場を凌ごうと遇らったのだろう。かれの言動は何らかの形で警視庁と深い関わりを持っていたのは定かである。人々の記憶を頼りにナサニエル・ライトの秘密を暴きたい! 智慧の湖に浸かる医者は、探究心深く自己犠牲を惜しまない――かれがその類の者ならばチェスの駒ビショップとして役立つであろう。
探偵として、思考を巡らせているうちに目的地へ着き、辻馬車から降りて、御者に乗車金とチップを渡す。顔見知りの警官に挨拶をしながら、G管区署内へ入るとカッスルは長く見事な顎鬚を蓄え、眉間に深い皺を寄せている眼鏡を掛けた小太りの警官に声を掛けた。
「おや、トマス・メルボーン巡査部長ではありませんか。随分と署内が賑わっておりますね。お茶会の支度でもされているのでしょうか?」
「見ての通り、招待されて皆慌てている――ところで、カッスル、いや、アーネスト・オールドカッスル元警部補、ここに何をしにきた?」
「随分と冷たいのですね――元警部補として皆様が恋しくなり、立ち寄ったまでです。一つお尋ねしますが、他にも招待されているように見受けられますね」
メルボーンは懶い様子で大きなため息を洩らすと、ある紙切れをカッスルに差し出す。
「色のない髪と菫色の瞳を持つ若い男エリス・グレイの行方を追っている」差し出された紙切れを受け取ったカッスルは、それをまじまじと見つめながら言った。「エリス・グレイの行方ですか――新聞で読んだのですが、実に興味深いです。彼はエレファントマンの異名を持つジョセフ・メリックように見世物であることに耐えきれず逃げたのでしょうか?」
「見世物だと!? 馬鹿を言うな――こいつは裕福な
「もちろん引き受けましょう! と、言いたいところではありますが、既に別件で依頼を受けているのですよ」と言って、カッスルは紙を取り出し、それを広げて警官に渡した。探偵は語を継ぐ。「こちらの似顔絵の人物に心当たりはありませんか? ヘンリーが言うには、脊が高く、金髪碧眼でどこか影のある方だそうです」
警官はカートリッジ紙に書かれた男の似顔絵を渋い顔でまじまじと見つめた。やがて、こう答えた。
「ニューカッスルの依頼を引き受けるとは珍しいのだな。この似顔絵に似た男
「世話になったお礼をしたいから探してほしいと、ヘンリーが頭を下げてきたのです――この件については、さっさと片付けてしまいたいので情報提供にご協力頂けないでしょうか?」
「それなら、警察署の裏にあるパラゴンと言う売春宿へ行け。ここよりも有力な情報が得られる――噂によると、女主人のお気に入りだったそうだ」
「そこの女主人の名前と特徴は?」
「確かキャスリン・シャーウッド。ケイトと呼ばれている小柄で金髪の気が強そうな女だ。常に派手で大きな耳飾りを付けていたから一目で分かる」
「そうですか。最後に、あなたから見たハワードはどんな人でしたか?」
「検死する以外は署内にある資料や本を片っ端から読み漁る、売春宿に引き篭もる、警部補に連れ回される度よく悪態をついていたから勤勉あるいは不真面目なのかよく分からない男だった」
カッスルは満足気な微笑を泛かべて「分かりました。ご協力感謝致します。では、私はお暇致します。あなた方はお茶会を楽しんで下さいね」と穏やかな口調で言うと、警察署を出た。
警察署前で警官たちに怒号を飛ばす市民たちを横目に通り、売春宿の女主人キャスリン・シャーウッドについて考え始める。
英国では、『女性はか弱く、純粋無垢で自己犠牲の精神を有し、そして子を産み男と家庭を支えるべきものである』が理想とされる中で女としての役目を放棄し、売春宿を経営するのは厚かましくも恥知らずであり、忌むべき存在とされている。その中でも、聡明且つ才能ある女性は故郷英国を捨てる――それが叶わぬ女性は、男どもに希望を貪られ、利用されるかの二択を強いられているのだ。しかし、どんなに教養深かろうが、女と言う生き物は感情一本槍で生きている。如何なる時も自分の感情を優先し、理性に基づくよりも他者と喜怒哀楽を共有することを重んじる――実に、浅はかで愚かだ! 皮肉にも女の愚かさは旧約聖書『創世記』にも記されている――主なる神は、男アダムを創造し、知恵の樹の果実は決して口にしてはならぬと命じたのち、アダムの補助者である女ハヴァを創造した。ある時、一匹の蛇が女に近づき、知恵の樹の果実を食すように教唆するとハヴァはアダムに相談することなく、自らの判断で果実を口にし、それを男に分け与えて共に堕落をした。やがて、罪を背負い、罰を受けて楽園を追放されたアダムとハヴァは過酷な環境下の中で多くの障害と苦痛に見舞われ、朽ちて逝った。その際アダムは食物や少しでも豊かな生活を得ようと働き、ハヴァは子を産み、アダムと家庭を支えた。
つまり、既にこの時から女は『家庭の天使』だったのだ。国を統治する偉大なるエリザベス一世やヴィクトリア女王は例外とし、無駄な野心を抱え、社会進出を視野に入れずおとなしく『家庭の天使』となり生涯を過ごした方が賢明である。それらを拒み、全てを理解した上で男たちの肉欲を満たす器である娘たちを総括する経営者として生きることを選択したキャスリン・シャーウッドは滑稽だ。が、私にとって最も重要なのは彼女がどんな人間であろうとチェスの駒として相応わしいかどうかであり、万一駒としての価値が無ければハワードの情報のみ収集できれば良い――それが本来の目的なのだから。
警察署の裏通りに着き、パラゴンと記された売春宿が見え、探偵は足を止めて周囲を見渡す。売春宿の利用客は労働階級者から上流階級者と幅が広く、中には気に入った売春婦の心を射止めようと階級問わず身綺麗にする男も多い。そんな男たちがパラゴンに出入りするのを待ち、警察署裏の壁に寄り掛かり、通行人たちの下世話な話に耳を傾けながらポケットからケースを取り出して巻煙草を吸う。しばらくすると、扉が開き、上流の男と若紫色の派手なドレスに大きな耳飾りを付けた金髪の小柄な女が出てきた。二人は楽しげに数十秒ほど会話をしたのち、女は悦楽に浸る男を笑顔で見届けて静かに扉を締めた。
青白い煙に包まれたカッスルはあの女が売春宿パラゴンの主であると確信した。燻る巻煙草を捨て、真っ先に扉の前に行き、ノックしてから中へ入った。
売春宿内は高貴の象徴ロイヤルブルーを主色としたヴィクトリア様式の空間が広がり、男たちを魅了する華やかなドレスを纏う売春婦たちよりも天井にぶら下げられた燦爛たるシャンデリア、インド更紗のカーペット、艶やかでハリのあるシルクを用いたティーローズのカーテン、そして趣味の良い黒と金のコントラストを持つ贅沢なベルベットジャガード織の生地が張られたローズウッド材の長椅子と肘掛椅子に眼が留まった。玉石混合な売春宿の中でも非常に繁盛していると感心しつつ、どこかぎこちない様子の紳士を振る舞いながら、カッスルは帽子を取り、女主人キャスリン・シャーウッドの元へ歩み寄る。
「あら、あまり見ない顔ね。初めてかしら?」
「キャスリン嬢、お会いできて光栄です。私はロンドンで探偵をやっているアーネスト・オールドカッスルと申します――カッスルとでもお呼び下さい。この似顔絵の男に心当たりはありませんか? 脊が高い金髪碧眼の男です」
「どこでかれのことを?」女主人は訝しげに掠れた声で尋ねる。
「昨日、私の友人がこの似顔絵の人物に命を救われたのです。そのお礼をしたいから探して欲しいと依頼されたのです」
「本当にかれが命を救ったの?」
「ええ、友人はロンドンで画家をやっております。ある日、カンタベリーの景色を描きたいと二、三日滞在してました。彼が酒場で一息ついたのち、体調不良により、その場で倒れ込んでしまったのです――そこで、偶然にも通り掛かったかれに診てもらったところ、毒を盛られていたようで……」
「毒?」
「毒と申し上げましたが、厳密には有害物質によるものです。利益を得ようと、お酒や牛乳を薄めたり、嵩を増す為に薬品や薬草で色味や風味を整えたものを提供するのはロンドンでは日常茶飯事であるのはあなたもよく存じていると思います。信じ難い事にそれが、遠く離れた田舎で起き、不幸にも友人が被害に遭ってしまったのです」
「それは、災難だったわね……」
「いえ、突然こんな話をしてしまい申し訳ございません。友人と言っても、実は私の同居人でもあるのです――友人は芸術家故、とても風変わりな人ではありますが、世間では未だに理解されにくい探偵という仕事に対し理解を示すだけではなく積極的に協力をして下さるのでとても支えになっております。ですので、私も友人を救って下さった恩人としてかれにお礼を申し上げたいのです!」
「そうだったのね。事情は分かったわ、キャスリン・シャーウッドよ」女主人キャスリン・シャーウッドは右手を差し出し、歓迎の意を込め、握手をしながら言った。「カッスル、ここで立話するのも難だから中に入ってちょうだい」
キャスリンは廊下で上流の男たちと戯れる娘たちに道を開けるように言うと、カッスルを客間へ案内する。肘掛椅子に腰掛けるように促し、小花柄のティーカップに紅茶を淹れて差し出した。
「ありがとうございます。キャスリン嬢、巻煙草を吸ってもよろしいですか?」巻煙草とマッチのケースを取り出して見せると、ケイトは小さく二度頷く。カッスルは微笑を泛べ、シガレットケースを開けて巻煙草を二本取り出し、一本は女主人に差し出し、もう一本は唇まで運んでマッチで火を点けた。
「早速ですが、ハワードはどんな人物で何をされていたのですか?」
ケイトは巻煙草を吸ってから言った。「名前はレオンハルト・ハワード。医者で英国人の父親とドイツ人の母親を
「どうりで王室じみた響きだと思っておりました――かれ自身がドイツ人でもあったからなのですね。それに、家賃を無償にするだなんてよほど厚い信頼関係を築かれたように見受けられます。一つ気になったのですが、何故ハワードと呼んでいるのでしょうか?」
女主人は深刻な表情を泛かべながら言った。「おかしな話でしょうけど、かれに、『自己同一性を失いたくないからロンドンにいる間はハワードと呼べ』と頼まれたのよ。レオンハルトでは不都合が多いのでしょうね」
「その言い草ですと、レオンハルトと言う名を理由に迫害されていたようですね」
「ええ、確かに迫害されていたわ。悪意ある移民たちがあらゆる罪を犯し、さらに罪で上塗りしたことにより、ハワードのような混血を含めて、善良な移民たちが今も迫害されているの。それに、例の異常者が移民だとしたならますます酷くなるわ」
「異常者であるレザー・エプロンは高い教育を受けた上流階級者、解剖学と外科学の専門的な知識を持つ医者、労働階級者である肉屋ではないかと様々な意見が飛び交っておりますが、ハワードがロンドンを去ったのは不幸中の幸いでしたね。もしかれがここに留まっていたら容疑者の一人として間違いなく捕らえられ、仮に釈放されたとしても、英国を陥れるユダヤ人として自警団に痛めつけられていたことでしょう」
「怖しいわね。ドイツからの移民はユダヤ人が多く、過去に何度かユダヤ人として扱われていたのをこの眼で見たことがあるから考えただけでもぞっとするわ」
「しかし、あなたがたもしたたかですね。街にレザー・エプロンが野放しにされているわけですし、一時的に休業されてはいかがでしょうか?」
「出来ないわ! 大怪我を負って戻ってくる娘や亡骸として見つかる娘がいようとそれだけは決して許されない。私たち売春婦は恐怖を押し殺し、死を覚悟してまで働かなければ生きていけないのよ」
「お気持ちは察します。あなたたち女性が消耗品として扱われることにとても心が傷みます。保護施設に行く気はないのでしょうか?」
「行かない――いいえ、行きたくないが正しいわ。施設に行けば多少の安全が保証されるのかもしれないけど、毎週日曜日教会へ通い、売春婦としての罪を咎め、祈りを捧げるだなんてごめんよ! 神に祈りを捧げたところで豊かな生活を得られるわけでもない――死の香りが漂うロンドンでは信仰心ほど無意味なものはないもの」
「神への信仰心ですか。私は、そんなものは持っていません。あなたの仰る通り、無意味なものです」
「かつて信仰深かったハワードとは違って、現実主義者なのね」
「どんなに信仰深い者でも、ロンドンで繰り広げられる悲惨な光景を常に眼の当たりすれば信仰心を捨ててしまうのです。特に、ホワイトチャペルやベスナル・グリーンなどは掃き溜めです」
「たとえ掃き溜めであろうと、皆、必死に足掻いて生きているのよ――それより、ハワードに、たまには顔を出しに来てと伝えてくれないかしら?」
「ええ、もちろんです。かれにお会いすることができれば――最後に、ハワードとは別件でお伺いしたいのですが、コヴェント・ガーデンにある仕立屋テューダー・リジーについて何かご存知でしょうか?」
「あの薄気味悪い男女の双子に興味を持つだなんて趣味が悪いのね。秘密を暴こうと詮索でもするつもり?」
「そうですね。依頼され次第、徹底的に調査するつもりです」
「そう。信じ難いけどテューダー・リジーは貴族御用達の仕立屋よ。あなたのような身分の低い探偵は門前払いされるかもしれないわよ。私は、一度だけ遠目から双子を見たことあるけど白い髪に肌は死人を思わせるほど青白く、眼は鮮血のような紅色だった。こんなことは言いたくないけど、同じ血肉を持つ人間とは思えないし、見世物小屋ではなく仕立屋として生計を立てているのがとても不思議よ」
「一部の娼婦のように、きっと彼らにも裏で財政支援をする者がいるのでしょう。二人のお名前はご存知ですか?」
「名前までは知らないわ。ここの利用客なら知っているでしょうけど今すぐには聞き出せない」
「分かりました」カッスルは巻煙草の火を消し、紅茶を啜ってから語を継いだ。「後日、コヴェント・ガーデンで聞き込みをしてみます。キャスリン嬢、ご親切にありがとうございました。先程も申し上げましたが、私は探偵をしておりますので、何かお困りでしたらウィットルジー・ストリートのコッテージデライトまでお越し下さい」
「ええ、気が向いたら行くわ」
「お待ちしております。では、私はこれで失礼致します」
紅茶を飲み干し、席から立ち上がって客間から出ると、ゆったりとした足取りで利用客たちを横目で見ながらパラゴンを後にした。
これほどまで物事がうまく進むとは素晴らしい日だ! 陰気な男ナサニエル・ライトとテューダー・リジーの色のない髪の双子についての有益な情報を得られ、カッスルは思わず満足な微笑を洩らした。湧き出る探究心と昂る感情を抑え、一度情報を整理しようと、馴染み深いフィンスベリーで馬車を探しながらコッテージデライトへ向かって歩きだす。探偵は顎先を触り、移動するたびに馬車を探す行為は、非常に非効率的だと考えていた――常に馬車で移動していた警部補時代に懐旧の情に駆られ、かつてのように利便性の高い環境を実現させる方法はないだろうかと思考を巡らせている時、覚束ない足取りをした喪服の少女が歩いているのが見えた。通行人たちは、深い悲しみに自我を奪われた狂人を見るかのような軽蔑の眼差しを向けて避けている。カッスルは歩く速度を落として少女に眼を注ぐ。豪華絢爛と程遠く、控えめでありながら気品さを引き立たせる黒いドレスを身に纏う少女は息が上がっており、役目と命を終えたことを表す灰色の花々を施した軽やかなチュールスカートの裾には街中を駆け回ったかのように泥や砂が疎に付着し、所々摩擦や引っかかりによって生じた小さな穴とほつれが見られる――何者からの追跡あるいは醜怪なもの眼の当たりにし逃れたのであろう。そんな狂人じみた喪服の少女の後ろから見窄らしい若い女が近づき、外套代わりとして身につけた透かし花模様のカシミヤショールを強引に剥ぎ取って押し退けると、少女はなす術もなく倒れた。何食わぬ顔でカッスルを横切ろうとする女に対し、探偵は微笑を泛べながら呼び止めてウェブリーMk Iの銃口を女の額に当てて言った。
「私の前で面倒事を起こそうとは随分と愉快なお方ですね。とても気に入りました。さあ、この一クラウン銀貨と引き換えに、あなたがたった今盗んだカシミヤショールを渡して下さい。要求に応じなかった場合、どうなるか学のないあなたでもお分かりでしょう?」
虚ろな冷たい眼差しと銃口を向けられた見窄らしい女は、カッスルに得体の知れない恐怖を覚え、小刻みに震える手でショールを渡した。探偵はそれを受け取り、一クラウン銀貨を渡すと冷淡な表情に低い声で囁いた。「私が引き金を引く前に、さっさと目の前から立ち去りなさい」
迫り来る死の怖しさに女の顔から血の気がみるみるひいていき、その場から逃げ出した。探偵は小さな溜息を洩らし、銃をしまうと喪服の少女に歩み寄って尋ねた。
「大丈夫ですか?」
突然の事態に混乱する少女は涙をきらめかせながら静かに立ち上がり、カッスルの方を向いて小さく頷く。
「そうですか。こちらをお返し致します」
少女は差し出されたショールを受け取り、愛おしそうにしばらく見つめたあと、肩に掛けた。すると、ボンネットの僅かな隙間から光る白い髪が見え、カッスルが好奇心に支配されるのは一瞬だった。欲望に従うまま少女の顔全体を覆う総レースのヴェールを掴み捲った。少女は驚き、慌てた様子でヴェールを掴むと、俯き気味に顔を伏せてその場から立ち去ろうとする。しかし、既に遅かった。ヴェールの下に隠された秘密を暴いてしまった探偵は、榛色の瞳を激しく燃え上がる焔のように輝やかせ、にやりと笑いながら少女の腕を掴み、引き寄せ、耳元で囁いた。
「お待ち下さい。あなたがエリス・グレイならば首を縦に、人違いであれば横に振って下さい。沈黙を貫く場合はこの場であなたを……」
エリス・グレイは体を震わせながら大きく頷く。カッスルは語を継いだ。「やはりそうでしたか――あなたは追われている身です。一先ず、安全な所に行きましょう」
エリスの腕を離し、偶然にも通りかかった辻馬車を呼び止め、御者にコッテージデ・ライトに向かうように告げて怯える少女を宥めつつ、共に辻馬車に乗り込んだ。エリスは、俯いたまま小さく縮こまるように座って沈黙した。
探偵は席にもたれ、少女を見つめながら考え始める。偶然にもエリス・グレイと遭遇し、さらに女であることを知ってしまった以上、このまま匿い、素性について詳しく調査したいところである。が、レザー・エプロンが三人目の犠牲者であるアニー・チャップマンを手掛けたことにより、警備が厳重化したこの状況下で匿うのは非常に危険を伴う。特に、一人住まいの男の家宅捜査に入られてしまった場合、最も厄介で事情を把握していないアーサートンを巻き込み、ありもしない罪を被せられて信頼と住居を失う可能性も考えられる。エリス・グレイがロンドンにいる限り、害悪にしかならない――そうだ! カンタベリーで出会ったあの男に
「エリス嬢。着きましたよ」
エリスは驚いて思わず振り返った。
「そんなに驚かないで下さい」探偵は、少女に手を差し伸べて言った。「私の家に着きましたよ。さあ、踏み外さないように気をつけて馬車から降りて下さい」
少女は戸惑いながら、差し伸べられた手を取り、そっと辻馬車から降りた。探偵は、少女にしばらく待つように告げると、御者に乗車料と特別なチップを渡す。御者はそれを受け取ると、驚きの眼差しをカッスルに向けた。
探偵は微笑を泛かべて交渉をする。「おや、どうやら驚かせてしまったようですね。無理を承知でお願いなのですが、数十分後、そちらの女性と私の友人がロンドン・ブリッジ駅に向かいます。それまでお待ち頂けないでしょうか? もしお待ち頂けるのなら、先程お渡ししたチップをコッテージ・デライトで使い、存分に喉を潤し、腹を満たして下さい」
「その友人とやらの特徴は?」
「シルクハットを被った全身黒尽くめの奇抜な恰好をした男です。一目で分かると思いますよ」
「分かった」
「では、よろしくお願い致します」
難なく交渉を終えたカッスルは、玄関の扉を開けて、エリスを連れて階段を登り、部屋へ入る。少女を食卓の椅子に座るように促し、焜炉に石炭を焚べて銅製のケトルに水を注ぎ、焜炉の上に置く。大切に飾られた人形のようにぴくりと動かないエリスを時折横目で見ながら、マホガニー材の食器棚の中にずらりと並べられている様々な色合いの食器を眺める。その中から優美で華奢な菫柄のティーカップとソーサーを選び、別の飾り棚から『富と権力の象徴』する洗練された純銀製の茶器一式と茶葉を取り出し食卓に置いた。湯が沸き、ティーポットに茶葉を入れ、沸かしたての湯を注くと懐中時計を見る。浸出されるまでニ、三分の時間を要する――僅かな空白の時間を埋めるのは、探偵にとって安易なことだ。つまり、一方的に喋れば良いだけのことだ。
「エリス嬢、先程は怖がらせてしまい大変申し訳ございませんでした。申し遅れましたが、私はロンドンで探偵をやっているアーネスト・オールドカッスルと申します。カッスルとでもお呼びください。以後、お見知り置きを――ああ、一つ言い忘れてました! 突然、奇抜な格好をした男が部屋に入ってくるかと思いますが決して怪しい者ではありませんのでご安心ください。その男は私の同居人ヘンリー・ニューカッスルと言う者です。芸術家でもあり、陽気でよく喋る風変わりな方ですが、もし彼の話が退屈であれば話を伺う素振りだけ見せれば大丈夫です。どうせ、気づかないでしょうから――さあ、エリス嬢。温かいお飲み物でも飲んで一息つき、ゆっくりして下さい」
ティーカップに紅茶を注ぎ、食器棚の引き出しを開けて、
「大丈夫ですよ。
ヴェールで隠しきれない困惑の色を泛ばせながら、エリスはティーカップに手を伸ばして恐る恐る、紅茶を薔薇色の小さな脣へ運び啜った。
「お口に合えば幸いです」カッスルはにこりと微笑んで、「私は小腹が空きましたので、下で軽食を持って参ります。エリス嬢の分もお持ち致しますので、そこでお待ち下さい。」と食卓を離れて、部屋の出入り口に置いた鞄とホールスタンドにかけた帽子を回収してから寝室へ入った。帽子は鏡台へ、鞄はベットの上に置き、そっと箪笥の引き戸を開けて黒い衣服を取り出す。本来あるべき姿の衣服を肌身から離し、純白なシャツ、懐古的なシルエットを生み出すファージンゲール、黒のチュールスカート、生地が厚く重量感のある黒い胴衣と上着に外套の順に纏い、紅色の蝶ネクタイで首元を華やかに飾る。鏡台に座り、マカサ油を手に取り、髪に馴染ませ、櫛できっちりと纏めてから鬘を被る。乱れた黒い髪を整えて紳士の象徴である帽子シルクハットを被り、余裕綽々でヘンリー・ニューカッスルとして細部まで完璧に身なりを整えた。鞄を開けてアーネスト・オールドカッスルとしての衣服や喫煙具などの小物を詰めていると、大部屋から鈍く、重たい大きな音が鳴り響く。
カッスルは食卓にいるエリスの様子を窺うことはなく、歓喜の表情を泛べて満足気に頬を赤めながら、鞄を閉め、それを手に持ちコッテージデライトへ続く扉を開けた。そして、ヘンリー・ニューカッスルとして大袈裟に慌しい様で階段を降りた。
「ジェローム! アーネストを見かけませんでしたか?」
「ヘンリー?」ジェローム・アーサートンは続けて喋る。「カッスルなら散歩に出掛けると行ったきり、まだ戻っていないぞ。奴のことだからG管区署の連中に『レザー・エプロンから招待状は届きませんよ。彼は紳士なので大変ご多忙なあなたたちを気遣っているのです』と皮肉を言っている頃だ」
画家は声を立てて笑った。「確かにアーネストなら言いそうですね」
主人は片手にグラスを掲げて言う。「そうだろう? あんたも一杯どうだ?」
「おやおや、気前が良いですね! ですが、今は結構です。ジェロームの熱いお気持ちだけ受け取ります。これからヨークへ行くので、アーネストが戻ったらお伝え下さい」ヘンリーは踊るように酒場を出て、駆け足で大部屋へ戻り、勢いよく扉を開けて大声で言った。
「アーネスト、いないのですか!」しばらく沈黙してから呟いた。「返事がない、どうやらいない様ですね。おやおや? 茶器が出されたままな上に椅子が一脚だけ倒れているとはとても珍しい! 今日のアーネストはとても機嫌が良かったのでしょう」
画家は愉快そうに笑いながら、倒れた食卓椅子を戻そうと歩み寄る。すると、カーペットの上にぐったりと横たわるエリス・グレイが眼に入った。
「女性? 大丈夫ですか?」喪服の少女を抱き起こし、ヴェール越しで症状に着目する。呼吸は浅く、瞳孔は開き、頬は赤く火照り、額から汗が滲み出ていた。
エリスは薔薇色の小さな唇を顫わせ、助けを請うように涙を流して画家の外套の袖を掴み、弱々しく引っ張った。
「身体を動かせるほどの力は残っているようですね。さあ、医者の元へ連れて行きますので辛抱して下さい」
ヘンリーは少女の腕を掴み、立ち上がらせると、人形を引き摺る無垢な子供のように部屋を出た。画家は扉の鍵を閉めて、階段を降りる。途中、肖像画の裏に隠されている小物箱に部屋の鍵をしまい、再び階段を降りて玄関を出る。その瞬間、悲しみに暮れる喪服の少女に寄り添い宥める紳士を振る舞い、御者に向かって大声で言った。
「大変お待たせ致しました! 灰色の外套を着た細身の男から行き先を伺っていると思いますが、ロンドン・ブリッジ駅までお願い致します!」
ふたりは辻馬車に乗り、エリスを向かい側の席に寝かせた。
ヘンリーは、席にもたれ、嗚咽で息をつまらせる少女に一瞥を与えることなく、深刻そうな顔をして窓の外を眺める。辻馬車が動きだし、少女の高く小鳥のような声はがたがた鳴り響く音にまざり消える。限りない苦痛と未知なる恐怖に身体を大きく顫わせてながら、エリスは再び助けを請う。しかし、魔女の実が齎す呪いは体の自由を奪い、腕を伸ばすことは叶わなかった。それだけではない。咽喉は熱く、焼き尽くされるかのように渇き、発する言葉は言語としての役割を成さず、少女が唯一赦されたのは、陵辱を加えられた女のように涙を流すことだった。そんな烈しい苦痛に蝕まれる少女を、ヘンリーはアーネスト・オールドカッスルとして伏せ目がちでじっくりと見ていた。いかに、魔女の実の効力はどれほど強力で怖しいものかと、強い好奇心を抱いていたからだ――知的好奇心が満ち溢れることを示すように虚ろな眼には喜悦の表情が泛び、駅に着くまでエリスに言葉を掛けることなくじっと見つめた。
辻馬車が止まると、横たわる少女を抱き起こして慎重に降りた。礼儀正しい画家は御者に会釈をして、感謝と別れを歌うように告げて切符売り場へ向かう。カンタベリー行きの切符を買い、右手には鞄、左手には切符を持った状態でエリスを背負い駆け足で門前へ向かい、駅員に切符を見せて門を潜り、指定された完全個室の一等席を探す。すぐに席を見つけると、巡回中の駅員に声を掛けて、扉を開けるように請うと駅員は潔く引き受け、扉を開けた。画家は親切な駅員に礼を言いながら、汽車に乗り、少女を座席に座らせると扉を閉めた。
画家は黒いヴェールを捲り上げると、エリスに眼を注ぎ、こう言った。
「おやおや、随分ときれいな顔をされているのですね。新聞に掲載された人物画のままでとても驚きです。それにしても退屈ですね――カンタベリーに着くまでの間、そのまま動かずにじっとして下さい」
ヘンリーはエリスのヴェールを乱雑に下すと、座席の窓際に飾られた人形として扱う。鞄を開けて、カートリッジ紙と鉛筆を取り出し、座席にもたれ、冷たい眼差しで見つめながら、
少女は朦朧とする意識で絶え間なく続く苦痛の解放を願い、菫色の瞳を涙で濡らす。そんな願いは叶わず、苦痛は弄ぶかのように蝕み、無情にも刻々と時間だけが過ぎていった。
汽車が止まり、ヘンリーは扉を開けてエリスを背負い、再びカンタベリーに降り立つ。駅を出ると、すぐに涙を流し、不安げな表情を泛べて御者の元に駆け寄る。
「急病人を診てもらいたいので申し訳ないのですが、大至急医者のところまでお願いできませんか?」
御者は驚き、急いで馬車に乗るように促した。画家は馬車に乗ると、すぐに涙を拭き、冷淡な表情と裏腹に優しい声音で少女に言った。「もうすぐですよ! あともう少しだけ辛抱して下さいね!」
そんな怖しい光景が繰り広げられているとは知らずに、御者は手綱を引いた。がたがたと烈しく揺れる中でヘンリーは微笑を洩らした。まもなくあの男と再会できるのだ! これほど智慧の盃が満たされてゆくのを味わうことは無い! 烈しく高鳴る歓喜の鼓動はやがて静かにしらべを紡ぐ。まもなくすると、馬車は徐々に緩やかな走りに変わり、大きな屋敷が見えた。御者は声高に到着したことを告げた。
ヘンリーは座席に乗車料とチップを置き、馬車を降りて、エリスを抱きかかえながら駆ける。扉の前に着き、息を整えたのち執拗に力強くノックをした。すると、重い靴の音が鳴り響き、中から怖しい顔をした影のある男が「一体何事だ!」と叫んで出てきた。
「おやおや? あなたは確か――
「ニューカッスル! 何故、あなたがここのいるのですか?」レオンはヘンリーを見て、一瞬驚いた顔を見せたがすぐに画家を睨む。
「それはともかく、こんなものを拾ったので受け取って下さい。私にはとても手に負えません」ヘンリーは喪服の少女を投げ捨てるかのように渡した。
レオンは、慌てて受け止め、恐る恐るヴェールを捲った。その瞬間、戦慄が走った。全身から血の気がひいて、徐々に人を支える手が顫えだす。かれの腕には以前、妄想の産物として否認したエリス・グレイはこの世に実在すると証明されたのだ。
昂る感情を鎮めて、人物画よりもどこかまだ幼さの残るエリス・グレイの身に起きたことについてヘンリーに尋ねようと顔を上げるか、既にそこに画家の姿はなかった。
ふと、鏡に映る自身の姿に眼を留める。その顔は暗く憤怒、憎悪、焦燥、悲哀などのあらゆる黒い情がどろりと滲み出て、醜悪だった――そしてその怖しい姿を見るに耐えきれず、レオンは鏡を殴った。
すぐさま異音を感じ取ったアンが、床を大きく鳴らしながら部屋に入り、主人の元へ駆けつける。
「旦那さま! 一体何があったのですか?」
「何があったのかは俺が尋ねたい! どいつもこいつも俺に面倒事を押し付けやがってどうしろと言うのだ!」
これまで抑圧してきた感情が溢れ出したことを示すとげとげしい口調にアンは驚きに眼を見はった。困惑の色がメイドの顔をかすめたが、すぐに平常に戻ってレオンを宥めるように穏やかな声で言った。
「旦那さま、こんな時こそどうか冷静になって下さい。私も出来る限りのことは協力いたしますので、一先ず、眼の前にある問題を解決致しませんか? 例えば、その手のお怪我と急患を……」
レオンははっとして、鏡を割った左手に眼を注いだ。その瞬間、熱く鋭い苦痛が走った。
「傷口に破片は入っていないですか?」
「大丈夫だ。アン、先ほどは怒鳴ってすまなかった」
「お気になさらないで下さい。ただし、もう二度と鏡を割らないで下さいね。次は許しませんから」
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